今日より甘く、昨日より苦く


 着々と仕事をこなしていたある日、新たにCMの仕事が舞い込んで来た。オーディションを受けたわけでもなければ、黙って主役のポジションが回ってくるほどの経験はなく――つまり、メインの役者を引き立てるエキストラのポジションだ。オファーが来るなんて有り難い限りだけれど、どうして私なんだろう。
 その疑問は、例によってマネージャーからの後出しで解消された。今回のCMの主役はCafé Paradeの五人だからだ。315プロダクションとの取引によるものだろう。



「新入社員役……これってCafé Paradeの皆がって事だよね。私は先輩役かなあ」
『そうですか? 西篠さんが先輩には見えないと思いますが。肝試しでも可愛らしい一面が見れましたし』
「あのさぁ……その話はいいから」

 家の自室でベッドに寝転がって、企画書に目を通しつつスピーカーで通話する相手は、Café Paradeの一員、そして元同級生でもある東雲荘一郎だ。先に五人全員に挨拶のメールは済ませたのだけれど、なんとなく東雲と話したくて電話を掛けてしまった。
 ただ、以前の仕事の恥ずかしい思い出を持ち出されるなら、やっぱりリーダーの神谷くんに電話すれば良かったかも。あの一件を『可愛らしい』と称されるのを、素直に褒め言葉と受け止められない自分は捻くれているという自覚はある。

「いや、咲ちゃんと巻緒くんは新人でぴったりだけど、東雲と神谷くん、それにアスランさんまで皆新人役? だとしたらちょっと違和感あるかも」
『確かに。とはいえ、メインはコーヒーの宣伝です。購買意欲を抱かせる事がメインですから、実年齢の違和感はさして気にならない作りになるのでしょう』
「なるほど……まあ実際に職業体験してみて、皆の印象を見て細かい調整が入るかもしれないしね」

 今回のCM『APコーヒー』の企画書に書かれている内容は、舞台はオフィス、そこで慣れない仕事に励む新人のCafé Paradeの皆が、コーヒーで一息つくというものだ。咲ちゃんと巻緒くんはまだ高校生なのもあり、実際に皆でオフィスワークを体験してから撮影に挑むという徹底ぶりである。
 315プロダクションもここまで気合を入れているのなら、私もお芝居の仕事と同様に全力で取り組まなくては。やっぱり別の人を使えば良かった、なんて思われないように。

「……ちょっと自信なくなって来たかも……いや、咲ちゃんと巻緒くんの前で駄目な私なんて見せられない!」
『西篠さんも新人役なら、自信がないほうが、かえって役に合っているんじゃないですか?』
「さすがに素はまずいでしょ。……ていうか、東雲と神谷くんはどう見てもベテラン社員だよね」
『そうでしょうか? 誉め言葉として有り難く受け取っておきます。まあ、職業体験もありますし、大丈夫ですよ』
「そうだね。ありがと、一緒に頑張ろうね」

 主役はCafé Paradeだというのに、脇役の私が励まされてしまった。それに、素で良いとまでは言わないものの、役に合っているという言葉は、東雲なりに気を遣ってくれているのかも知れない。

 今回の仕事も充実した日々が送れそうだ。そんな風に思えたのは、東雲と何気ない会話が出来て安心したお陰だろう。
 東雲も私みたいなヤツの電話に付き合ってくれるなんて、本当に面倒見の良い人だ。高校の頃からずっとそうだった。何の利益もないのに私の面倒を見てくれたなんて、今思うと信じられない。
 やっぱりCafé Paradeで常識枠と見られがちな東雲も充分変わっている、なんて、本人に知られたらちょっと失礼か。勿論、良い意味なのだけれど。





「おはようございます! 本日からどうぞよろしくお願い致します」

 大学でもなければ事務所でもなく、舞台に立つ劇場でもない。いや、考えようによってはここも舞台のひとつだ。撮影はまだだけれど、これから数日間職業体験をさせて頂くオフィスで、私は深々と頭を下げた。
 頭上で「初々しいねえ」なんて声が聞こえて、やっぱり社会人として働く大人の人たちにしてみたら、大学生の私はまだ子どもに見えるのだと、少しだけほっとした。なんといってもそういう役を演じるのだし。

 更衣室に案内されて、あらかじめ用意されたスーツに着替える。何の飾り気もない白のワイシャツを纏って、その上に黒地のスーツを羽織る。サイズはぴったりだ。靴も黒のパンプスに履き替えて、漸く全身を鏡で確認する。見た目だけなら立派な社会人――いや、リクルートスーツを着た就活生といったところか。そう考えると、ちょうど今の自分にぴったりとも言える。
 改めて、鏡を見ながら髪を整えて、軽く化粧直しもして……なんだかそれっぽい感じになって来た気がする。
 準備を終えてオフィスに戻ると、Café Paradeの皆が揃っていた。五人は明日からだと聞いていたけれど、挨拶に顔を出したのだろう。

「あっ! 深雪さん!」

 早速咲ちゃんが私の存在に気付いて、満面の笑みを浮かべて手を振ってくれた。駆け足で皆の元に行って、軽く頭を下げた。こういう何気ない仕草も、なんだか仕事をしている気になる。まだ何もしていないのに、気持ちだけ盛り上がってしまっているのは否めない。

「みんな、これからまたよろしくお願いします」
「ああ、よろしく頼むよ」
「スーツを着ているからでしょうか、なんだか先輩社員のように見えますね」

 挨拶し合う神谷くんと私を見て、東雲はどこか不思議そうにそんな事を呟いた。まさか肝試しでの出来事が帳消しになるような感想を抱かせるとは、スーツの力はすごい。

「荘一郎さんの言う通りです! 本当に頼れる先輩に見えます……!」
「うんうん、シンプルなスーツだからこそメイクがパピッと生える……大人の女性って感じです!」

 巻緒くんと咲ちゃんから絶賛されて、頬が緩むのを自覚してしまった。よく漫画で表現される鼻が伸びるという現象が、今この場で起こっていたらどうしようと思うほど、だらしない顔をしている気がする。

「あの……後で深雪さんが使っているコスメ、教えて欲しいです!」
「え? うん、いいよ! 勿論!」
「使うだけで魔力を放つ魔具……我も確かめなければ……!」
「あ、いいですよ! アスランさんも化粧映えしそうですね」

 咲ちゃんとアスランさんがメイクに興味を持ってくれたお陰で、私のだらしない表情は水に流れたに違いない。そう思う事にしよう。



「はーい、おまたせ! そこの自動販売機でAPコーヒーを買ってきたよ!」

 本格的な職業体験に入る前に、まずはCMの品を実際に口にしてみようと、咲ちゃんとふたりでオフィス内の自動販売機で六人分の缶コーヒーを調達して来た。
 六人揃ってプルタブを開けて、一口飲む。

「ふむ……この漆黒飲料、深い味わいだ」

 分かってはいたけれど、ブラックだから当然甘くない。苦手とはまではいかないものの、普段はどちらかというと甘いものを摂取しがちだから、これが大人の味か、なんて子供じみた感想を抱いてしまった。

「いつも飲むのは紅茶だから、変な感じがしますね。特に、神谷さんとか」
「うんうん。Café Paradeのお店にもコーヒーのメニューはあったけど、みんな、かみやの紅茶が好きだから、頼む人はほとんどいなかったし、かみやがコーヒーと接してるイメージってないかも?」

 巻緒くんと咲ちゃんの会話を聞いていて、そういえば彼らのカフェは紅茶がメインだから、私も敢えてコーヒーを頼む事はなかったと思い出した。

「ですが、CMではサラリーマンとしてこの味をアピールしないといけません。どう表現するか……研究する必要がありそうですね」
「そのために、プロデューサーさんは体験企画を立ててくれたんだと思う。期待に応えないと……みんな、頑張ろう!」

 東雲と神谷くんの言葉に、思わず自然と背筋が伸びた。エキストラとはいえ、商品の良さを理解しないまま適当に終わらせるのは駄目だ。Café Paradeの皆の良さが際立つような、名脇役を目指すと言ったら大袈裟だけれど、しっかり後押し出来るような演技を心掛けないと。



 そして翌日から、ついに撮影が始まった。突然CMを撮るのではなく、職業体験から密着してしっかり撮影するそうだ。アイドルたちの宣伝にもなるし、315プロダクションの企画力も凄いと思わざるを得ない。

「さて、今日からWEBドキュメンタリーの撮影だ。自然体を心掛けて……くく」
「あーっ。かみや、笑っちゃダメだってば!」
「そういう水嶋さんも、顔がニヤけていますよ?」

 私は昨日から一足早く仕事の説明を受けていて、今も少し離れた場所で書類整理をしている。そんな中、Café Paradeの五人の会話が聞こえて来て、つい笑みが零れてしまった。笑ってはいけない状況に置かれると、些細な事でも笑いが込み上げてしまう現象は私も覚えがある。

 エキストラの私とは対照的に、皆は華やかなスーツを着こなしていた。咲ちゃんはフリルをあしらったピンクのブラウスに、紺色のスーツとのコントラストが眩しく見える。他の四人もカラーシャツやネクタイで個性を出している。社会人役なのに、ただそこにいるだけでオーラがあるあたり、さすがはアイドルだ。

「あはは……あたしもみんなも、スーツを着ることってないじゃない? だから、なんだかおかしくって。ふふふ!」
「むむ……我のかりそめの装束、面妖だろうか……?」
「いえ。見慣れないだけで、とても似合ってると思いますよ、アスランさん!」
「そ、そうか。よかった……ホッ」

 アスランさんは見た目だけなら、それこそ上司に見える。ただ、今まで見て来た姿や東雲の話を踏まえると、ちょっと心配だ。余計なお世話だけれど、もし困っていたらすぐに飛んで行けるよう心構えをしておこう。

「スーツを着慣れない私たちは、新入社員そのものですね」
「ああ。この緊張をポジティブにとらえ、力を合わせて取り組もう」

 東雲と神谷くんはそう言いつつも、私よりずっとベテラン社員に見えた。東雲は珍しく眼鏡を掛けている。というか初めて見た。役作りのため、度の入っていない眼鏡を掛けているのだろう。まあ、しっかりした新入社員も当然いるから、何も違和感はないのだけれど……肝試しの時のような、私がドジを踏む事態が起こらない事を願うしかない。



 いつもはリーダーとして皆を引っ張っている神谷くんが、デスクで珍しく難しい顔でパソコンの画面と睨めっこしていて、お節介とは思いつつも声を掛けた。

「神谷くん、何かあった?」
「西篠、良いところに。これなんだが……」
「あ、これはね。私も昨日教わったんだけど……」

 Café Paradeの皆より一日早く職業体験をして、一通り簡単な業務を教わったお陰で、パソコン操作なら教える事が出来る。そういえばカフェの経理も東雲が全部やっているというし、神谷くんは事務作業が得意ではないのかも知れない。復習も兼ねて、神谷くんの代わりにゆっくり操作しながら説明していく。

「おお、成程……さすがだな、西篠」
「いや、私は前もって教えて貰ったからね。でもやり方さえが分かれば、神谷くんも次からはスムーズに出来るはず」
「ふむ。忘れずにメモしておこう」

 即座に手順をメモに控える神谷くんに、彼のこういう謙虚なところもまた、多くの人から愛される理由なのだと実感した。同い年から教えられるのはプライドが許さないとか、指摘されるのが嫌とか、世の中には色んな人がいる。私も神谷くんの人当たりの良さや、相手が誰であれ素直に聞き入れるところを見習わなくては。

「マーチングバンドの時も思ったが、西篠は人に教えるのが上手いな」
「ううん、皆の飲み込みが早いんだよ。それを言うなら東雲のほうが凄いし……よく私に根気よく勉強教えてたなって、今でも不思議な気分」
「不思議、か……西篠はなんとなく、放っておけない魅力があるのさ」
「魅力……」

 果たして本当にそんなものがあるのだろうか、と首を傾げていると、遠くから不穏な声が聞こえて来た。

「サタンがコピー機にはさまってます! わわ、たくさん印刷されてますよ!」
「なに!? サタンンンンンあわわわわわわわ……」

 即座に神谷くんと顔を見合わせて、現場に向かおうかと思ったけれど、すぐに東雲が駆け付けてコピー機を停止させた。サタン氏も無事救出されたようだ。

「やっぱり東雲はベテラン社員の風格あるよ」
「ははっ、西篠の言う通りだ」

 慣れないうちはトラブルもあるけれど、この調子ならきっと皆大丈夫だ。オフィスワークと言っても、皆で協力したほうが早い業務もあるし、Café Paradeとしてのチームワークが仕事に活かせる事もあるだろう。きっと皆、乗り越えられる筈だ。私も負けていられない。



 翌日、咲ちゃんが一人で動き回っているのを見掛けて、撮影中だったら邪魔になると思って暫く様子を見ていたのだけれど、明らかに大変そうで声を掛けてしまった。まあ、撮影中だったとしても、私の部分はあとでカットして貰えば良いと後々気付いたのだ。

「咲ちゃん、手伝おうか?」
「深雪さん! ありがとうございます……! 会議の準備で走り回って、もうヘトヘト……」
「設営か、それはさすがにひとりじゃ大変。もっと早く声掛ければ良かった、撮影中かと思って遠慮しちゃったよ」

 咲ちゃんから必要な書類や参加人数が書かれたメモを見せて貰った。これはもう少し人手があったほうが良い。そう思った矢先、こちらに向かって歩いて来る人影が目に入った。

「魔術書の複写方法を習得した我に敵はない! 我こそは複写神、アーッハッハッハ!」

 私は咲ちゃんと顔を見合わせて、どちらともく頷いた。考えている事は一緒だろう。

「アスラン、いいところに! 会議の準備、手伝ってくれない?」
「無論! 騎士たちの円卓会議、必ずや成功させん!」

 今頃、東雲や神谷くん、それに巻緒くんもバリバリ働いているに違いない。あくまで職業体験で本当の社会人ではないとはいえ、だんだんそれっぽくなって来た気がする。大変だけれど、心地良い疲れだ。
 尤も、実際に働いている社会人の大変さは、私たちの比ではないだろう。果たして、エキストラとはいえそれらしい演技が出来るだろうか。



 職業体験という名のドキュメンタリー撮影も、佳境に入って来たある日。咲ちゃんが飲み会の代わりとばかりに、休憩室で乾杯の音頭を取った。

「サラリーマン体験、おつかれさまー! かんぱーい!」

 六人揃って、CMの品である缶コーヒーで乾杯する。実際は居酒屋などでビールで乾杯するのだろうけど、未成年の咲ちゃんと巻緒くんがいる私たちはこれで充分だ。

「飲むのは、APコーヒーだけどな……うん、おいしい。生き返るようだ」
「ホッとする味ですね……あれ?」

 仕事上がりのコーヒーを味わう神谷くんの横で、巻緒くんがふと何かに気付いたように目を見開いて、すかさずアスランさんが訊ねた。

「どうした、マキオ?」
「前に飲んだ時とは、ちょっと違う気がしませんか? 上手く言えないんですけど。じわっとしみわたるというか……」

 巻緒くんの言葉に、この場にいる全員がはっとした。言われてみれば、数日前は気にしていなかったコーヒーの香ばしい薫りや喉を通る苦さが、疲労を和らげてくれている気がする。

「しみわたる……確かに。あの時と比べて、よりおいしく感じます」
「これが、仕事のあとの一杯……アピールすべきポイントがわかった気がするよ」

 それぞれ感想を呟く東雲と神谷くんを見て、咲ちゃんが大きな目を輝かせた。

「今のかみやの表情、とっても素敵だよ。ホンモノのサラリーマンみたい!」
「あはは、ありがとう。この感覚を忘れず、CM撮影に臨むとしよう」

 巻緒くんの思い掛けない一言で、皆役柄を掴めたような感覚を覚えていた。ほんの十数秒のCMであっても、大切な芝居のお仕事だ。一発OKを貰えるような、自然な演技が出来るよう、残りの職業体験も頑張ろう。私は心の中で改めてそう決意した。



 本番撮影前日には、Café Paradeの皆は社会人役がすっかり板についていた。神谷くんはすかさず皆のフォローに入ったりと、完全に先輩社員そのものだった。東雲に言わせてみれば、手元が留守になっていたらしいけど。相変わらず神谷くんには手厳しい。

 そして、迎えた本番。私はCafé Paradeの皆の後ろで働く社員役かと思いきや――。



 書類を片手に走り回って、自席に戻って軽く溜息をついた私に、缶コーヒーを差し出す先輩社員。

「『癒しの時間を、君に。APコーヒー』」

 どう見ても元同級生ではない、頼りになる先輩社員と錯覚してしまうような神谷くんの姿に、私は不覚にもときめいてしまったのだった。



「……よし、これで終わりだな」
「わーい! おつかれー、かみや! 最後の表情、とてもよかったよ。あたし、キュンッてしちゃった!」
「ああ。その姿、黄昏色の鋼鉄の城に仕えし黒騎士そのものだったぞ!」
「アスランさんの言うとおり、オフィスビル、とっても似合ってました!」

 咲ちゃんも、皆もこう言っているのだ。私がちょっとときめいたのも、神谷くんの演技力が素晴らしいという事だ。そういう事にしておこう。

「みんなも、それぞれ求められる姿を掴み、演じられていたように思う。仲間に恵まれて、俺はとても幸せだ。ありがとう」
「これで、全員がクランクアップですね。みなさん、本当にお疲れ様でした」
「ああ……CMの完成が楽しみだ」

 こうしてCM撮影、そして職業体験は幕を閉じた。実際に経験してみて、スーツは動き難いし、パンプスは走り難いし、ストッキングも伝線していないかはらはらしていたし、仕事以外の事でも気疲れしてしまった。世の中の社会人は皆凄い。どんな職業であっても、それぞれに大変な事があると痛感した。

 お世話になった人たちに改めてお礼を言った後、少しばかり名残惜しい気持ちになりつつ更衣室に戻ろうとすると、突然後ろから声を掛けられた。

「西篠さん、少しだけ良いですか?」

 振り向くと、まだ着替えていなかったスーツ姿の東雲が笑みを浮かべていた。もう少しこの姿でいたかったと思っていただけに、なんというタイミングだろう。勿論、断る理由はなかった。



 さして距離もない、ビル内にある自動販売機の前まで行けば、東雲はAPコーヒーと、そして見るからに甘そうなカフェオレのボタンを押した。ふたり分の缶が取り出し口に落ち、東雲は迷わずカフェオレを私に手渡した。

「西篠さんは甘い物が好きでしょう。こちらの方が良いのでは?」
「どうせお子様の味覚ですよ……っと、ありがと」

 別に東雲に悪気はないとは思いつつも、つい悪びれてそう返せば、有り難くカフェオレを受け取った。プルタブを開けて、口を付ける。APコーヒーも勿論美味しいのだけれど、今の私はやっぱり甘ったるいカフェオレのほうが好みだ。甘味は疲れが取れるというのは嘘か真か、どちらにせよ今の私は解放感に溢れている。

「ふふっ、高校の頃を思い出しますね」
「……勉強が一段落したら、東雲のスイーツというご褒美が与えられてたよね。って、これもご褒美?」
「ええ。名演技のご褒美という事で。演技なのか、本当に神谷に見惚れていたのか分かりませんが」

 最後の言葉に、思わずカフェオレを吹き出しそうになって、咳込んでしまった。恥ずかし過ぎる。東雲はすかさず私の背中を撫でた。

「図星ですか」
「げほっ……いや、咲ちゃんも言ってたじゃん! キュンとしたって! 神谷くんは相変わらず女子キラーだよ……」
「私ではキュンとしませんでしたか?」

 突然そう訊ねられて、思わず東雲に顔を向けて凝視してしまった。その伊達眼鏡の奥の細い目からは、一体何を考えているのか見当も付かない。
 考えてみたら、相手が神谷くんで良かったかも知れない。CMのシチュエーションが東雲だったとしたら、密かに片想いしていた高校時代の感情を思い出して、絶対に赤面していた。キュンどころの話ではない。

「……今はカメラ回ってないから素なだけ。神谷くんが相手でも同じだって」
「では、CM撮影の相手が、神谷ではなく私だったとしたら、どうですか?」

 なんでこんな事を聞いて来るんだろう。からかっているのか、それとも。
 いや、間違いなく前者なのだけれど、果たして大真面目に答えるべきか、強がるべきか。こんな二択が出て来る時点で、今も東雲の事が好きだと認めているようなものだ。

「ちょっと意地悪な質問でしたね。まあ、西篠さんの顔を見ればなんとなく分かりますよ」
「顔? ねえ、それってどういう意味」
「秘密です」
「なにそれ! 気になるから教えてよ、ねえってば!」

 結局東雲が何を思ってこんな質問をして、何を感じたのかは分からない。でも、この遣り取りって、恋愛ドラマのちょっとしたワンシーンみたいだ。そう思うと、気恥ずかしさで顔が熱くなる。そんな私の気持ちなんて、東雲はきっと知らないのだろう。

2023/08/24

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