春風が吹く


 様々な仕事をこなすにつれて、私自身学生から社会人へ変化しつつあった。大人への仲間入りとともに、高校時代の記憶が徐々に薄れ始めている事に気が付いたのは、つい最近だ。
 勿論、友達と過ごした日々や、好きな人が出来た事、その人と過ごした放課後の時間は、今でも鮮明に思い出す事が出来る。ただ、とりわけ大変だった出来事は、知らず知らずのうちに記憶に蓋をして、話題を出されない限りは自ら思い出す事はなかった。
 そう、話題を出されない限りは。

「深雪ちゃんって高校時代マーチングバンド部だったよね?」

 事務所でマネージャーからいきなりそんな事を言われて、嫌な予感がした。根拠はないけれど、私の勘は当たるのだ。

「……昔の話ですし、今はもう出来ないですよ」
「卒業して三年くらいしか経ってないのに、『昔』とか言ったら年上に締められるぞ〜」
「いや、そこまでブランクあったら無理ですって! それに受験で三年春には部活辞めてるので……四年はやってないですね」

 絶対に仕事でマーチングバンドに関する事をやらせる気だ。そう思って先回って拒否したのだけれど、マネージャーは屈託のない笑みで企画書を差し出して来た。やっぱり。

「実はCafé Paradeが母校でマーチングバンドの演奏を披露する事になってね」
「そうなんですか。で、他の事務所のお仕事ですし、私には関係ないですよね」
「いや、深雪ちゃんにとっても母校だし」
「理由になってないですよ!」

 315プロダクションとどういう取引をしているのか知らないけれど、Café Paradeと私をセットで売り出したいのか。尤も、向こうも私もそれぞれの仕事があり、たまに一緒になる分には別におかしくはないのだけれど、これでは示し合わせているみたいではないか。

「同級生の二人は良くても、他の三人……特に現役高校生の二人は大変だろうし、そこで経験者の深雪ちゃんに指導者としてのお鉢が回って来たわけ」
「……私の意思は関係なしに決めましたね?」
「実際にステージに出ろってわけじゃない。経験者としてCafé Paradeの五人のサポートをしてくれるだけでいい」

 それなら断る理由がない。
 未経験者がチャレンジするならともかく、経験者ならそれなりのパフォーマンスを見せなければならない。四年のブランクを埋めるには、相当特訓しないといけないのだ。きっと本番までの日数も限られている。だから私を表舞台に出す気なら断ろうと思っていたのだけれど、これでは受けるしかない。
 仕方なく企画書を受け取ると、マネージャーは意外そうに首を傾げてみせた。

「深雪ちゃん、なんだかんだで最終的には快く引き受けてくれるのに、今回は嫌?」
「……そうですね、楽しい想い出ばかりではなかったので」

 私の言葉にマネージャーは全てを察したのか、そういう事かと頷いて、企画書を取り返そうと手を差し出して来た。

「断っていいよ。仕事だから嫌な事も全部我慢しろとは言わないし」

 きっと私の指導がなくても、あの五人なら完璧なステージにしてしまうだろう。
 でも、ここで逃げるのは違う気がした。
 私は企画書をきゅっと握り締めて、マネージャーに頭を下げた。

「いえ、やらせて頂きます! 部活ではたくさん失敗して来たので、こんな私が指導なんて……とは思いますが、もしかしたら後輩にあたる今の子たちも、当時の私と同じ悩みを抱えているかもしれません。OBとして触れ合う良い機会だと思う事にします」

 そう言い切って口角を上げると、マネージャーは満足そうに頷いて、私の肩を軽く叩いた。

「まあ、気張り過ぎないように。これは深雪ちゃんに限らないが、今の子は失敗を恐れすぎる。気持ちは分からんでもないが、どっしりと構えていこう」
「失敗は成功の元、という事ですね。心に留めておきます」

 マーチングバンド部は、正直言って私には向いていなかった。ドラムメジャーの役割を与えられたものの、失敗して皆に迷惑を掛けた記憶ばかりだ。だからこそ嫌な記憶に蓋をして、楽しい事だけ思い出すよう、無意識に自らの心を守っていたのだ。





「じゃあ、本番までご指導のほど、よろしく頼むよ。西篠」
「単なるOBだし、あまり期待しないでね」

 早速現地の母校でCafé Paradeの五人と顔合わせをしたものの、リーダーの神谷くんから気さくな挨拶を受けて、早速弱気な発言をしてしまった。咲ちゃんと巻緒くんがいる手前、これは良くない。

「ただ、ちょっとでも不安になったり、困った事があれば遠慮なく相談してね。私で解決出来なくても、先生や現役の子と協力するから」

 気心知れた二人宛というより、咲ちゃん、巻緒くん、アスランさんに向けてそう告げた。果たして私が相談相手になるかはさておき、不安があれば恐らくメンバー内で話し合って、私に助言を求める形になるだろう。
 大丈夫だ、きっと上手く行く。
 ……私はどうにも本番に強い、というより「なるようになれ」というタイプらしい。



 マーチングバンドは体力勝負だ。アイドルとして活動している五人なら問題ないとは思うけれど、念の為に練習の際は、最初に準備運動をしてもらう事にした。早くもアスランさんが辛そうにしていて、少しばかり心配だ。室内で練習出来れば良かったのだけれど。

「卒業してしばらく経つが、ここは以前と変わらないな」
「ええ、まさかアイドルとして戻ってくることになるとは思いませんでした」

 感慨深そうに呟く神谷くんと東雲に、私も同意しようとした瞬間。

「しばらくって言っても、三年くらいでしょ? ちょっぴりジジくさいよ〜?」

 咲ちゃんから爆弾発言が飛んできて、私は同意の言葉を飲み込んだ。二人がジジくさいという事は、つまり私は……。

「あはは、そうだな。それじゃあ若者らしく、張り切っていこう!」

 笑い飛ばす神谷くんの声に救われた。そう、私も一応まだ若者に入るはずだ。
 現役高校生の前で懐かしいなんて言ったら年寄りじみていると思われるのか。ある意味勉強になる。世代の違う子と会話をするのも、刺激があって良いのかも。って、この考えが既に年寄りじみているかも知れないけれど。



 翌日の朝、私は皆より早く母校に来て、朝練をしているマーチングバンド部を覗き、休憩のタイミングを見計らって顧問の先生に挨拶した。

「おお、西篠! まさかお前が女優の道に進むとはなあ」
「いえ、まだ駆け出しですし、どうなるか分かりませんから」
「廃病院で肝試しする番組、見たぞ」
「うっ」

 本業ではなくそっちを見られるとは。教え子が芸能界で活躍していると言えば聞こえは良いけれど、あれは色々と恥ずかしいシーンが多かったし複雑だ。役者の演技ではなく素だったし。
 ふと、後輩たちが物珍しそうに先生と私を見ている事に気付いた。休憩時間と練習を邪魔してはならないと、そろそろお暇しようとしたのだけれど。

「あの、西篠先輩! 先輩のSNS、いつも見てます!」
「私もです! それに先輩の部活の映像も見たりして、勉強させて頂いてます!」

 女生徒が次々にそう言って、次第に後輩たちが集まって来た。もしかして、私って自分が思っている以上に皆に知られているのだろうか。

「皆、ありがとう。まさかそんな風に言って貰えるなんて思わなくて、なんだか照れ臭いけど……」

 素直に喜べば良いのに、OBとしてどう振る舞えば良いのか分からず、頼りない笑いを浮かべる私の傍で、先生が背中を軽く叩いて来た。

「西篠はいつも『私なんかにドラムメジャーは無理です』って泣いてたからな」
「うっ……本当の事だから何も言えないです……」

 後輩たちは意外そうに声を上げて、私の映像を見て勉強していると言った子が「そんな風に見えなかったです」と真面目な顔で口にした。

「その通りだ。西篠は長所がふたつある。ひとつは本番に強い事。そしてもうひとつは、自分に厳しい事だ」

 先生はそう言って、私のほうを見て笑ってみせた。まさかそんな風に私の事をしっかり見ていたなんて。
 いや、顧問の先生とはそういうものなのだろう。私だけじゃない、色んな生徒をじっくり見て、厳しく、時には優しく接して、皆の長所を伸ばして来たのだ。

「欠点は、自分に厳しいがゆえにマイナス思考になりやすいところだな」
「……先生には敵いませんね」
「なに、今の西篠の表情を見れば、克服出来たんじゃないかと思うがな」

 思わず両手で自分の頬を押さえてしまった。それこそマイナス思考全開で、全く成長していないように思えるのだけれど。

「自覚はないだろうが、大人になったように見えるぞ」
「そういうものでしょうか……」

 首を傾げつつも、先生の言葉を否定しようとは思わないし、ここは素直に受け取っておこう。私は一先ず後輩たちに顔を向けて、ここに来た目的を達成すべく声を掛けた。

「そうそう、皆にお願いなんだけど……私はどうしてもドラムメジャーがメインだったから、他の指導が上手く行かないかも知れなくて。その時は、現役で頑張っている皆の力を借りても良いかな?」

 笑みを作ってそう訊ねると、皆は一気に表情を明るくさせ、次々と承諾の返事をしてくれた。

「トロンボーンなら任せてください!」
「私なんかで良ければ、是非!」

 皆の練習を邪魔しないよう、何事もなく進むのが一番なのだけれど、Café Paradeが完璧なパフォーマンスを見せる事も当然重要だ。一先ず皆が快い返事をしてくれてほっとした。
 挨拶も程々にその場を後にすると、背後で先生の声が聞こえた気がした。

「本当に大人になったなあ、あの西篠が……」



 Café Paradeの練習時間まではまだ余裕がある。さて、どうやって時間を潰そうか。一人で探検でもしようかと思ったけれど、不審者に疑われそうだ。なんて悩みつつ校舎内を歩いていると、ちょうど向かい側から見慣れた人物が歩いて来るのが目に入った。

「あれ? 神谷くん! 早いね」
「おお、西篠! おはよう。まさかお互いこんな時間に会うとは」
「行き詰まったら後輩の子たちの力を借りようと思ってね。ちょっと挨拶して来たんだ」

 事情を説明すると、神谷くんは意外そうに目を見開いた後、すぐに優しい笑みを浮かべてみせた。

「先輩としての威厳は保ちたいところだが……西篠の気遣い、有り難いよ」
「経験者ならともかく、皆未経験なんだから、後輩の力を借りるのは何もおかしな事じゃないよ」
「はは、それもそうだな」

 話しながら適当に歩いているけれど、神谷くんは何故こんな早い時間に来ているのか。リーダーだからといえば説明はつくが、それにしたって早い。
 その疑問は、すぐに解消された。私たち、というより神谷くんは決して行く宛もなく歩いていたのではなく、ちゃんと目的地があったのだ。
 神谷くんが立ち止まったそこは、家庭科室の前だった。

「……神谷くん、まさかここをカフェに?」
「半分不正解、半分正解だ」
「だよね……って、半分正解なの!?」

 思わず驚く私に、神谷くんは片目でウインクして頷いてみせた。

「そう。これからティータイムの下準備を始めるのさ」



 神谷くんの手際の良さに見惚れつつも色々と手伝う事にして、時間はあっという間に過ぎていった。
 Café Paradeの分、そしてマーチングバンド部の皆の分のアイスティーを作り置きして、家庭科室の冷蔵庫をお借りする。これが『半分正解』の理由だった。

「相変わらず気が利くね。確かに、市販のペットボトルの差し入れよりテンション上がりそう」
「だろ? 俺と東雲はともかく、咲も巻緒もアスランも気疲れしているだろうしね」
「確かに。アスランさん初日からバテてたし、咲ちゃんと巻緒くんも他校で練習って、緊張するよね」
「ああ。特に咲は西篠を前にして緊張しっぱなしだ」

 だよね、なんて何気なく返そうとしたけれど、いや、おかしい。
 何故。どうして咲ちゃんが。

「どうした? 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして……」
「私、もしかして咲ちゃんに何かした?」

 咲ちゃんが私に対して緊張するなんて、苦手とか、取っ付き難いとか、そういう感情じゃないのか。私が指導するのは完全に配置ミスでは……そう思って呆然とする私に、神谷くんは首を横に振って、屈託のない笑みを浮かべながら言った。

「西篠は『憧れ』だって言ってたよ」
「……え?」
「俺たちと近しい存在のお姉さんがいるのは、咲にとっては良い刺激みたいだ」
「……信じられない……」

 と言っても、私は咲ちゃんの事は何も知らない。お姉さんのいない家族構成なら、確かに『憧れ』という感情を抱くのは有り得るけれど、その対象が私、というのが信じられなかった。それこそ同じ学校の先輩とか、いくらでもいるはずなのに。

「まあ、西篠は自分が思っている以上に周りに良い影響を与えているって事だよ」
「うーん……神谷くんが嘘を言っているとは思わないんだけど、やっぱり不思議」

 まあ、ずっと一緒にいるわけじゃなくて、たまに顔を合わせる程度だから、良く見えるのかも知れない。私が咲ちゃんの事をアイドルとしての彼女しか知らないのと同じように、咲ちゃんも私の事は神谷くんと東雲の同級生、という事しか分からないのだし。



「みんな、お疲れ様〜。かみや、みんなに大人気だったね! もってもて〜」

 休憩の合間に六人でマーチングバンド部の皆にアイスティーを差し入れに行ったところ、皆は大喜びしてくれて、神谷くんは特に人気で引っ張りだこだった。それはそうだ、この学校からアイドルが二人も誕生した上、神谷くんは学生の頃から大人気だったのだから。
 当時の事を思い出したのは私だけではない。東雲も感慨深そうに頷いた。

「ええ。そんなところも、昔と変わっていません。どこでも、老若男女問わず好かれる。それが神谷のいいところでしょう」
「ありがとう。そういう東雲も、学生にあれこれ聞かれていたようだが。一体、なんの話をしていたんだ?」
「ふふ…それは、秘密です」

 別に勿体ぶらなくても良いのに、何なんだろう。気になりはするものの、私が聞くのもおかしな話だ。仕方ない、もやもやするけれど諦めよう。

「そういえば、アスランさんも部員たちに囲まれてましたね」
「あれほど注目されるとは……サタンを剥が……否、封印されるかと危惧したぞ」

 アスランさんは大変だったとは思うけれど、やっぱり学生から見て、アイドルとして輝く大人の男性は魅力的に見えるのだ。皆のきらきらした目を見て、やっぱりアイドルは人を笑顔にする力があるのだと納得した。
 雑談していると、ふと咲ちゃんが興味深そうに神谷くんと東雲を見遣って声を掛けた。

「マーチングバンドの顧問の先生が言ってたんだけどね、かみやとそういちろうって、高校生の時から仲が良かったんだね」

 その質問に、東雲と神谷くんはどちらともなく頷いた。

「そうですね……当時はよく、変わった組み合わせだと言われました」
「勉強ができない俺と、真面目で成績がいい東雲。でこぼこコンビだったな」

 本当にその通り過ぎて、私もつい笑みを零してしまった。すると、東雲が私に顔を向けて突然話を振って来た。

「西篠さんから見て、私たちはどうでしたか?」
「良いコンビだったよ。やんちゃな神谷くんを東雲が止めているように見えて、案外一緒に楽しんでたんでしょ?」

 私も表面上しか知らないものの、先日の肝試しの出来事を思えば、どちらかというと東雲が神谷くんを弄っていたのかも知れないとすら思えて来た。
 どちらにしても、相性が良いからこうして今も、一緒にアイドルをやっているのだろう。

「まさか、西篠さんにそんな風に思われていたとは」
「いや、前の仕事でそんな感じだったんだなーって気付いたというか……」
「良かったです。高校時代の西篠さんには、私の事をしっかり者だと思って頂けていたようで」
「間違ってはいないけど……そういう事にしておこうかな」

 しっかり者なのはその通りだ。それに、面倒見も物凄く良い。どんな理由であれ、たいして仲良くもない女生徒が赤点を回避しボーダーラインをクリアするまで勉強を教えてやろうとは思わないだろう。本当に感謝しているけれど、それと同時に東雲は変わり者だとも思う。ただ、それを言ったら怒られそうだ。

「ねーねー、そういちろう。かみやって、昔はどんな感じだったの?」

 突然飛んで来た咲ちゃんの質問に、東雲は顔色ひとつ変えずにあっさりと答えた。

「どんなもなにも、水嶋さんの知っている神谷のままですよ。当時から、変わり者でした」

 その回答が納得出来ないのか、神谷くんは小首を傾げて東雲に告げる。

「そうか? 俺は自分をごく普通の学生だと思っていたよ」
「その『普通』という認識、改めたほうがいいですね。世界中を旅する夢の話ばかりする高校生なんて、そうそういません」

 確かにその通りだ。ただ、私に言わせてみればふたりとも変わり者だ。だからこそ意気投合し、今があるのだろう。
 そんな事を思いながら雑談に興じていたけれど、ふと神谷くんの言葉を思い出して、咲ちゃんにそれとなく声を掛けてみた。

「咲ちゃん」
「は、はい!」
「ドラムメジャー、どう? バトンの使い方とか、ちょっとでも困ったり不安なところがあったら、いつでも聞いてね」
「あ、ありがとうございます……!」

 咲ちゃんははにかみながら、こくりと頷いた。可愛い。
 嫌われてはいないはずだ。けれど、遠慮しているようにも見える。まあ、私はCafé Paradeのメンバーと違って一緒にアイドル活動をしているわけではない、云わば赤の他人だから仕方ないか。もう少し気兼ねなく接してくれて良いのだけれど、それは私がもっと親しみやすい存在にならなければ駄目か。もしくは、時間が解決してくれるのを待つか。

 そうして、本番の日は着々と近付いていた。私は私が思っているほどに成長している、それを自覚するのはまだまだ先だ。

2023/07/14

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