少なくとも現実と理想のあいだ

 アトリが初めて皇都へ足を踏み入れたのは、エマネランに強引に連れられた二年前の事であった。神殿騎士の門番を掻い潜り、大審門からイシュガルド・ランディングまで駆け抜けて、アバラシア雲海まで飛び立ち――その後起こった様々な事を思うと、『災難』と表すのが正しいのだろう。けれど、今のアトリにとって当時の出来事は苦い経験も含め、良い想い出だと思えるようになっていた。
 それも全て、正式に皇都イシュガルドへの立ち入りが許可されたからである。



「東アルデナード商会の者です。ええと、通行許可証は――」
「大丈夫ですよ、アトリ殿。門番は皆貴殿の顔を覚えていますから」
「……私、そんな有名人に……」

 大審門でも最早完全に顔を覚えられてしまっているのだが、とはいえ決まりは遵守しなければならない。未だ顔を見た事もない蒼天騎士団との苦い思い出もあり、アトリはすぐに鞄から通行許可証を出して門番へと見せた。

「何かあっては門番の貴方に迷惑が掛かるでしょうし、決まりは決まりですから」
「アトリ殿は噂通り律儀な方ですね。東方の民族は皆そうなのでしょうか」
「うーん……お国柄というより、職業柄と言った方が正しいと思います。商人たるもの、契約は守るべきものですから」

 第七霊災から四年が経ち、エオルゼア三国ではアウラ族はそれほど珍しい種族ではなくなり、アトリも角を隠さず歩いていても極端に目立つ事はなくなったのだが、ここイシュガルドはそうではない。未だ他国への門を固く閉ざしており、この地に住まう種族の大半を占めるエレゼン族とヒューラン族以外の者は、キャンプ・ドラゴンヘッドなど冒険者が集う場所くらいでしか見掛けない。だからこそ、皇都の者たちにしてみれば、アトリは物珍しい種族であり、通行許可証の提示は不要と判断してしまうほど認知度が高い存在となっていたのだった。



 アトリは大審門を抜け、まずはイシュガルドの下層へと歩を進めた。皇都にもエーテライトはあるが、余所者という事で使用は許可されておらず、あくまで『門番の確認を経て大審門を通る』という形式でなければ訪れる事が出来ないようになっている。

 初めて訪れた際はエマネランに振り回され、景色を堪能する余裕など到底なく、アバラシア雲海から戻った頃にはすっかり夜も更け、歴史ある建造物をこの目でしっかりと見る事が出来なかった。それが今や、緩慢な足取りで堂々と皇都を闊歩し、街並みを堪能出来るようになったのだから、人生とは不思議なものだとアトリは改めて感じていた。
 とはいえ、とりわけこのイシュガルドという都に住まう者たちは貧富の差が激しい。貴族たちは所謂『上層』と呼ばれるエリアに住み、一般市民や貧困層は、今アトリが歩いている『下層』エリアに住んでいる。ちなみに、アトリが東アルデナード商会の人間として関わっている宝杖通りは上層にある。織物『サンシルク』もそうだが、まさに貴族しか相手にしていない商売といったところである。

 クガネでも富裕層しか足を踏み入れる事の出来ない店や買えない代物はあったが、それでもここまではっきりと区別されてはいなかった。
 上層には美しい宗教建築がいくつもそびえ立つ。初めて目にした時、アトリはあまりの荘厳さに時間を忘れて魅入ってしまったほどであった。だが、下層は違う。ドラゴン族との戦いの痕跡だと分かる、数多もの壊れた建築物。国に修繕する余裕もないのか、あるいは下層だからと放置されているのか。
 更にこの下層には『雲霧街』と呼ばれる貧民街が存在する。フォルタン家の使用人から『絶対に近寄らないように』と念を押されており、アトリは密かに胸を痛めていた。

 可哀想だ、皆平等であるべきだ、といった言葉を軽々しく口にするのは偽善である。アトリとしても、現実的な解決策を主張出来ないのであれば、何を言っても綺麗事でしかないと頭では分かっており、ゆえにイシュガルドの現状に対して声を上げるつもりもなかった。
 だが、それでも。四年前に父親を亡くし、天涯孤独の身となったアトリにしてみれば、生き方を少しでも間違えれば自分も『貧民』になっていたと自覚していた。偶々サンクレッドに出逢い、冒険者稼業を勧められなければ、生きる希望を失って命を落としていたであろう。アトリが今こうして生きているのは、兎にも角にも『生きる為に戦う』という環境に身を置いた為である。時たま父を想い涙を流す事はあれど、生きる事を放棄するという考えに至らなかったのは、紛れもなく冒険者になったからだと言えよう。
 雲霧街で生きる者たちは、戦う気力もないのかも知れない。このように貧富の差が明確に分かるような都で生きていれば、尚更である。アトリは何も出来ない自分を心苦しく思いながら、宝杖通りへと歩を進めた。





「長旅ご苦労様です。いつも本当にありがとうございます、アトリさん」

 織物『サンシルク』へ新作の服を届けに来たアトリは、店員に丁重に頭を下げられて、思わず恐縮して首を横に振ってしまった。

「いえ。エーテライトで来ましたし、長旅というほどではないですよ」
「そうは言っても、キャンプ・ドラゴンヘッドから皇都までは陸路ですよね?」
「これでも一応冒険者なので、その程度の距離は平気です。良い運動になります」

 貴族を相手にする店員もまたそれなりの地位にいるのだが、異邦人のアトリは当然貴族でも何でもない、皇都で例えるならば『下層』に振り分けられる人間である。ゆえに上層で暮らす人々とは微妙に価値観が異なっていた。尤も、余所者であるがゆえに、引け目に感じる事もないのだが。

「アトリさん、商人と冒険者を立派に兼任されているなんて……本当に凄いです! アウラ族の方は見掛けと違ってお強いのですね」
「う、う〜ん……皆が皆という訳ではないですが……」

 アウラ族は正式に言うとふたつの種族に分かれており、己たちアウラ・レンとは別に、『アジムステップ』で遊牧生活を送るアウラ・ゼラが存在する。戦闘能力に長けているのはアウラ・ゼラの方であり、『見掛けと違って』と言っても、性別によって体格も異なる。華奢な女性と違い、男性はそれこそ彼らの言う『見掛け』通りの強さであろう。
 何も知らない店員の羨望の眼差しに言葉を濁したアトリであったが、次の瞬間、心臓が止まり掛けるほど驚かされる羽目となった。

「やはり、オルシュファン卿が伴侶として選ばれた方は違いますね」
「は……はい!?」

『伴侶』などという普段言われる事のない言葉に、アトリは素っ頓狂な声を上げた。一体何がどうして皇都の者からそんな話が飛び出したのか。呆けた顔をするアトリに、店員はゴシップ記事を楽しむかの如く、興味津々な眼差しを向けた。

「隠す必要はありませんよ。皇都ではその噂で持ち切りですし。噂というか事実でしょうし、私としても納得です」
「あ、あの! 待ってください! オルシュファンがそんな事を……!?」
「まあ、敬称を省くような関係なのですね」
「えっ!? ええと、これはその、オルシュファン様がそう呼ぶようにと……」

 恋人であれば別に敬称を外す必要はない。あくまでオルシュファンは己を『対等な友人』と見ているからこそ、敬称を省いて欲しいと言ったのだ。そういうつもりでアトリは説明したのだが、一連の流れを省いた為、意図しない方向に解釈されてしまった。

「身分も国も種族も関係ない、対等な恋人でありたいと……!? そういう事ですね!」
「はい!? いや、そうではなく……!」
「結婚式を挙げる際は、是非我々『サンシルク』にもお声掛けください。最高のドレスをご用意致しますから!」
「け、結婚!? まだそんな話は……」
「『まだ』という事は『この先』そういう話になるという事ですね」

 もう何を言っても『そういう方向』に話が進んでしまう。もう無駄だ。羞恥と困惑で顔を真っ赤に染め泣きそうになるアトリに、店員は満面の笑みを浮かべていた。相手に悪気がないのは分かっている。誰かを責めるのは違う。それでも、アトリはオルシュファンに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。





 サンシルクで店員の仕事も手伝い、一段落したアトリは店を後にして、宝杖通りへと歩を進めた。上層では、どこに目を向けても石造りの立派な建造物が存在する。顔を上げれば、美しい青空の下に聳え立つ宮殿――イシュガルド教皇庁が目に入る。教皇庁を守るように前座に佇む『建国十二騎士像』は、イシュガルドを建国したトールダンと共にドラゴンと戦った騎士たちの像であり、彼らの末裔がフォルタン家を含む四大名家なのだという。つまり、フォルタン家やアインハルト家は千年続く一族という事だ。
 オルシュファンもフランセルもラニエットも、アトリが見る限り決して他者に対して驕ったりはしていなかった。だが、実際に皇都に行き来できるようになって、寧ろ彼らのような貴族が少数派なのだと思い知らされた。
 皇都に生まれた時点で何の不自由もなく裕福な暮らしを送れるか、その日を生き抜くので精一杯な生活を強いられるかが、初めから決まってしまうのだ。そんな世界で生きていれば、貴族は『雲霧街』に住まう貧民層を差別するのが当たり前になり、逆に雲霧街に住まう者たちは貴族に憎しみを抱くだろう。
 ドラゴン族にいつ攻め込まれるか分からないのであれば、同じ国に生まれた者同士が憎み合っている場合ではないとアトリは純粋に思うのだが、貴族社会が長く続けば続くほど、そういった『仕組み』を壊すのは困難になる。理想論では何も解決できない。ましてや異邦人であるアトリに何が出来ようか。下手に騒動を起こせば、通行許可証を発行してくれたフォルタン伯爵に多大なる迷惑を掛けてしまうだろう。

 アトリは正式にイシュガルドを訪れる事が出来るようになり嬉しい反面、皇都の現状に対して何も出来ない自分の無力さを痛感していた。エオルゼア三国とて貧富の差はあれど、まだ皆助け合って生きているように見えた。勿論、皆が皆そうという訳ではない。例えば東ザナラーンにある『リトルアラミゴ』は、帝国に侵攻されたアラミゴの難民がウルダハに流れ着き、各都市に馴染めなかった者たちによって作られた集落という話だ。都市の中では見ないというだけで、実際はどの国でも大なり小なり貧富の差や差別は存在している。
 そう思うと、アトリは本当に自分は狭い世界で生きて来たのだと思わざるを得なかった。

 東アルデナード商会の会長ロロリトが「外の世界を知れ」と言わなければ、アトリはずっと平和なクガネを拠点とし、偶にエオルゼアの主要都市へ出向く程度であったに違いない。その方が平穏な人生が送れるであろう。だが、本当にそれで良いのか。少なくとも、今のアトリはそうは思わなかった。
 例え世界を変える力がなくても、無力でも、世界を『知る』事は絶対に必要だ。
 子どもの頃、クガネの船場で父の帰りを待ちながら、海の向こうにある世界に想いを馳せていたアトリは、いつだって世界を知りたがっていた。その願いが叶ったのだ。決して良い事ばかりではなくとも、知らないまま生きているよりはずっと良い。

「あら、可愛らしいお客様。何をお探しかしら?」

 つい考え事をしてぼうっとしていたアトリに掛けられた声は、彼女にとって実に馴染み深い人物のものであった。

「エレイズ様! あ、ええと……」
「ふふっ、冗談ですよ。商会のお仕事で来られた事は分かっていますから」
「いえ、申し訳ありません、ぼうっとしてて」

 アトリを助けてくれたのはフォルタン家の面々だけではない。宝杖通りの顔役であるエレイズも、アトリの皇都への立ち入りを後押ししてくれた人物のひとりであった。初めて顔を合わせる際、オルシュファンとフランセルという四大名家の貴族が仲介に入ったのも良かったのだろう。最早、エレイズとアトリは初めから信頼関係を築けていたと言っても過言ではない。そのお陰か、彼女は今でもこうしてアトリを気に掛けてくれている。

「何か悩みごとでも? もし良ければお聞きしましょうか」
「いえ、特には――」

 アトリは取り繕おうとしたものの、信頼出来る彼女だからこそ打ち明けても良いのでは、と思い直した。ただ、エレイズに悩みを伝えたところで解決するわけではないどころか、彼女も悩ませてしまう事になる。

「『特にない』という訳ではなさそうですね?」
「うう……ええと、気を悪くされてしまうかも知れないのですが」
「構いませんよ。あなたが故意に人を貶めるような方ではない事は、じゅうぶん分かっていますから」

 エレイズの言葉に嘘はない。とはいえ、この国の在り方を否定するような事を言ってしまうのも無礼であろう。アトリは少し悩んだ後、自分なりに言葉を選んで、慎重に思いを口にした。

「皇都への立ち入りが許可されて一年ほど経ちますが……その、貴族と一般市民の一部で、軋轢があるように見えるのです」
「『見える』というより、実際そうなのでしょう。異国から来たあなたなら、皇都の民より明確に分かる筈ですわ」

 悲しそうに笑みを浮かべるエレイズに、アトリはこれ以上何かを言うべきか迷いつつも、恐る恐る言葉を続ける。

「……私はイシュガルドの人間ではありませんが、ドラゴン族との戦いは決して終わったわけではなく、今は単に攻め込まれていないだけだと解釈しています。考えたくはないですが、もし、万が一ドラゴン族が皇都を襲うことがあれば……」
「民衆がいがみ合っていては、救える命も救えない。あなたの考えは尤もです」

 言葉を選んでいる間に、エレイズにはっきりと言われてしまい、アトリは一瞬狼狽えてしまった。だが、間違いではない。神妙な面持ちで頷けば、心の内の悩みを吐き出そうと決心し、アトリは再び口を開いた。

「ですが、綺麗事だけでは世界は救えません。口で言うのは簡単でも、ではどうすれば変わるのか……その答えを私は持ち合わせていません。それに、異邦人が容易く口を出せる問題ではないとも自覚しています」
「あら、アトリ嬢はオルシュファン卿と結婚されるのではなくて?」
「だからといって、異邦人である事に変わりはなく――って、え?」

 さも既成事実のようにさらりと言われ、アトリはサンシルクでの出来事に続いて再び呆けた声を漏らした。

「皇都はその噂で持ち切りですよ。噂というより真実だと思っていますけど」
「ま、待ってください! まだそのような話には! まさかエレイズ様の耳にも入っていたなんて……フォルタン伯爵に弁明しに行かないと……!」

 サンシルクの店員に言われるだけならまだしも、宝杖通りの顔役にもそんな話が耳に入っているのなら、恐らくフォルタン家にもその噂は届いているだろう。特にエマネラン経由で伯爵やアルトアレールに伝えられていても何も不思議ではない。
 アトリとしてはオルシュファンの事を愛している事に変わりはないが、物事には段取りというものがある。本当に結婚まで話が進んだのであれば、オルシュファンの実の父であるフォルタン伯爵に最初に伝えるのが筋である。勝手に噂が先行するなど以ての外であった。何よりアトリはプロポーズを受けた事などないのだから。事実無根である。

「エレイズ様、申し訳ありません! 私、これにて失礼します!」
「アトリ嬢」

 踵を返したアトリに、エレイズが声を掛ける。慌てて振り向くと、彼女は穏やかな微笑を湛えていた。

「あなたは無力だと思っているかも知れませんが、それは心ある貴族も皆同じ事。まずは、出来る事から少しずつ初めてみては? あなたの傍には既に、お手本となる方がいるのですから」

 アトリは分かっているのかいないのか、勢いよく返事だけして、再び背を向けてフォルタン伯爵邸へと走って行った。
 とはいえ、エレイズの言葉が届いていないわけではなかった。彼女の助言が、この後アトリの背中を後押しする事となる。今すぐに世界を変える事は出来なくとも、いつか必ず変革の時が訪れる。その為の小さな積み重ねが始まろうとしていた。

2022/02/27

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