僕に手綱をくれるな

 息を切らしながらフォルタン伯爵邸へ駆け付けたアトリを出迎えたのは、優しい現当主ではなく、次期当主となるであろう冷たい眼差しの男であった。

「はあ……貴女ですか。一体何の用ですか」
「あの、フォルタン伯爵は……」
「まずは私が用件を伺います。内容によっては父上に取り次ぎましょう」

 アルトアレールは微笑ひとつ零さず、至って感情のない表情できっぱりとアトリにそう告げた。
 まさか己とオルシュファンが結婚するなどという根も葉もない噂を否定する為に来たとは言えず、アトリは押し黙ってしまった。『内容によっては』という事は、正直に話したところでフォルタン伯爵との対面を許可してくれるとは限らないからだ。

「……疚しい事がなければ隠す必要などないと思いますが」
「いえ! 疚しい事など何も……!」
「では何故口を閉ざすのですか?」
「…………」

 何も言わなければ言わないで、心証は悪くなるばかりである。アトリだけが悪くなるだけならまだ良いが、彼女に通行許可証を与えるよう伯爵に訴えたオルシュファンまで巻き込む事になるのは想像に容易かった。そもそもアトリが初めて皇都に侵入したあの時点で、アルトアレールにとっての心証は決して良いものではなかっただけに、これ以上不興を買うのも避けたかった。例えアトリに非があったわけではなく、エマネランの良かれと思った行いが起こした騒動であったとしてもだ。

 仕方ない。説明したところでアルトアレールに呆れられ、フォルタン伯爵への対面も叶わず門前払いされるだけの話である。アトリが勇気を出して口を開こうとした瞬間。

「アトリ様、本日はお引き取り願えますでしょうか。あいにく伯爵閣下は席を外しておられまして……」

 フォルタン家の執事が間に入り、やんわりとアトリに退出を促した。これ以上長居したところで、下手に揉めてはそれこそ皆に迷惑が掛かるというものである。そう気付き、アトリは執事の気遣いに従い、フォルタン伯爵との面会を諦める事にしたのだった。



 フォルタン伯爵邸を出て、暖かな室内から一転、冷たい風がアトリの頬を刺激した。寒さで自然と身体が震えて、一体己は何をしに来たのかとどっと疲れが押し寄せたアトリであったが、すぐ後ろに人の気配を感じ、振り返った。
 そこにいたのはアルトアレールでも執事でもない、アトリより背も低く未だ少年と呼ぶのが相応しいであろう年齢の男子であった。
 名をオノロワという、エマネランの従者である。

「あ、あの! アトリ様、どこかでエマネラン様を見掛けませんでしたか?」

 恐る恐るこちらの様子を窺いながら訊ねるオノロワに、アトリはやんわりと首を横に振った。

「そうですか……あ、ありがとうございます」
「オノロワ様。失礼ですが、もしかしてエマネラン様、また迷子になられたのですか?」
「う、うう……迷子といいますか、はぐれてしまったといいますか……」
「困ったご主人様ですね。私も一緒に探します、二人で手分けした方が早く見つかるでしょうし」

 アトリがそう言った瞬間、オノロワは一気に表情を明るくさせた。
 別にアトリが彼を手助けしたところで、何か利益があるわけではない。ただ、アルトアレールとの遣り取りでどうにも心がもやもやして、身体を動かして発散したかったのと、エマネランのあの傍若無人さにこのオノロワという従者が振り回されているのを何度も見掛けているだけに、早いところ見つけて説教のひとつでもしてやりたいという気持ちが芽生えていたからである。人助けというより気晴らしといった方が近いであろう。
 とはいえ、オノロワにとっては願ってもない助けである事に変わりはなく、本人の知らないうちにアトリは彼からの信頼を得つつあった。



 ふたりで手分けしてエマネランを探す――筈だったのだが。

「アトリ様はどうしてお屋敷にいらっしゃったのですか?」
「え、ええと……フォルタン伯爵にお会いしたかったのですが、あいにくご不在で……」

 灰色の空から粉雪が舞い落ちる中、アトリはオノロワと雑談に興じながら上層を歩いていた。一応周囲を見回してエマネランを探してはいるが、恐らくは己と入れ替わりに宝杖通りあたりにでもいるのだろう、とアトリは考えていた。無論、根拠も何もない。

「ああ、そういえば今日はアルトアレール様が代行されるという話です、はい」
「……はあ、それを早く知っていれば行かなかったのに……」

 何気なく答えたオノロワの言葉に、アトリは嫌そうに溜息を吐いてしまった。それが意外に見えたのか、オノロワは目を瞬かせる。

「アトリ様でも苦手な方がいらっしゃるんですね」
「えっ!? あ、ええと……今のはここだけの秘密にしてくださいね」

 さすがに心証が悪すぎると、アトリは引き攣り笑いを浮かべながら唇に人差し指を当てて、オノロワにそう懇願した。だが、彼もエマネランの従者たるもの、『色々と』察していた。オルシュファンの出自、それゆえにアルトアレールとオルシュファンの間に確執がある事。そして、オルシュファンと深い仲にあるアトリに対して、アルトアレールが良い感情を抱いていない事も。

「秘密ですね、分かりました。アトリ様はエマネラン様だけでなく、僕にも優しくしてくださる方ですから、しっかり守ります、はい」
「いえ、私は優しくなんてありませんよ。ただ単に、アルトアレール様よりエマネラン様の方が親しみやすいというだけです。オノロワ様がアルトアレール様の従者なら、こうして話す機会もなかったかも知れません」

 アトリが苦笑を零しながらそう言うと、オノロワはどういう訳か嬉しそうに表情を綻ばせた後、満面の笑みを浮かべてみせた。

「僕、エマネラン様に救って頂けて良かったです、はい」

 そんなオノロワに、アトリは口角を上げて頷けば、再びエマネランを見つける為に、周囲を見回しながら石畳の道を歩いて行った。

 このオノロワという従者は、雲霧街の生まれであったが、幼くして宝杖通りで下働きをしていたところ、偶然通りかかったエマネランと巡り会った事で人生が変わったのだという。なんでも、エマネランが気まぐれでオノロワに読み書きや勉強を教えたところ、瞬く間に上達し、数年の時を経てフォルタン伯爵の目に留まり、従者として雇われたという話である。
 だからこそ、オノロワはエマネランがどんなに破天荒であっても、彼を悪く言う事は決してない。オノロワが貴族の従者へと上り詰めたのは本人の努力と才能によるものであるが、そもそもエマネランと出会わなければ、その努力をする切欠すら得られなかったかも知れない。エマネランのお陰で今の自分があると言っても過言ではないからだ。

 アトリは、自分とオノロワを重ねて見ていた。かつて天涯孤独の身となった際に、偶々サンクレッドが冒険者稼業を勧めなければ、このクルザスの地を訪れる事は生涯なく、クガネへ帰る事も出来ず、ウルダハで短い人生を終えていたかも知れない。そして、クルザスの地に迷い込んだ時、偶然オルシュファンに助けられなければ、確実にあのまま雪道で命を落としていた。

 様々な人との縁があり、今の自分がいる。それをオノロワも分かっているからこそ、こうして寒い中エマネランを探し回っているのだ。アトリは決してオノロワが注意散漫だったわけではなく、エマネランが勝手な行動を取ったのだと分かっていた。あまり『絶対』という言葉は使いたくなかったが、申し訳ないがエマネランに関してだけは例外である。こんなに気立ての良い従者を困らせるなど、主人としてそれで良いのかと、アトリは未だ見つからないエマネランに苛立ちを感じ始めていた。

「……私、段々エマネラン様に腹が立って来ました」
「ええっ!?」
「寒い中オノロワ様を困らせて……見つけたらお説教です!」
「だ、大丈夫です! 寒いのは平気ですから、はい。それよりも、寒いのはアトリ様のほうでは?」
「怒ったらちょっと暖かくなったので平気ですっ!」

 その言葉にオノロワは笑みを零して、アトリの後ろを付いていった。言葉とは裏腹に、彼女は実際は大して怒っておらず、単なる冗談だと感じたからだ。

 他国からの門を閉ざし続けるイシュガルドに住む者にとって、異邦人の存在は実に異質であり、それはオノロワにとっても同様であった。貴族と貧民に分かれるこの皇都から出た事がない彼にとって、アトリはこんな己にも礼儀正しく、そして気さくに接してくれる不思議な存在であった。本人に言ったら本気で怒られそうであるが、己の主であるエマネランに近いところがあるからこそ、親近感を抱いているのかも知れないとすら思っていた。実際はオルシュファンの影響が大きいのだが。

 ふたりが上層を歩き続けていると、道端で右往左往している幼い少女の姿が目に入った。エマネランが何処にいるか知っているとは思えないが、アトリはオノロワと顔を合わせて互いに頷けば、取り敢えず少女の元へ駆け寄った。面倒事でなければ良いのだが、と願いながら。

「あの、どうかしましたか?」
「あ……お姉ちゃん、助けて!」

 これは面倒事だ、とアトリは即座に察した。少女が助けを求めながら指を差し、その指先の方向へ顔を向けてみると、ここ上層と同じ高さの、下層の建物の屋上から今にも落ちそうになっているエマネランの姿があったからだ。
 アトリが声を出すより先に、オノロワが慌てふためいた。

「エマネラン様!! ぼ、僕、神殿騎士団の方を呼んできます!!」

 悲しい事にこういったトラブルには慣れているのか、オノロワは即座に神殿騎士団本部の方角へと走って行った。本部に着くまでに巡回している騎士に会えると良いのだが。そう願いつつ、アトリは少女へと顔を向けた。

「あのお兄ちゃん、どうしてあんな事になっちゃったのかな?」
「ボールで遊んでたら、あの建物の屋上に飛んじゃって……そうしたら、たまたまあのお兄ちゃんが通りかかって、取りに行ってくれるって……それで……」

 アトリは周囲を見回し、状況を理解した。この皇都は上層と下層に分かれており、階段や建造物が入り組んでいる。それらを足場にして飛び乗って行き、下層の建物の屋上に辿り着く事は可能であった。そこで、エマネランは辿り着いたは良いものの、うっかり足を滑らせて、今にも落ちそうになっている状態である。なんとか両手で屋上の柵にしがみ付いてはいるが、騎士団の到着まで堪えられるだろうか。アトリがそう思った瞬間。

「ああっ!!」

 少女が叫び声を上げた。エマネランが必死でしがみ付いていた柵が、老朽化しているのか音を立てて壊れ、間もなく外れそうになっていた。

「どうしよう、お兄ちゃんが死んじゃう……!」
「大丈夫ですよ」

 涙を流す少女に、アトリはきっぱりとそう言ってみせた。あくまで特例で商人として皇都への立ち入りを許可された以上、あまり皇都で目立つ行動はしたくなかったのだが、背に腹は代えられない。アトリは覚悟を決めて、武器である槍を取り出せば、迷わず上空へと跳躍した。
 そして、エマネランのいる建物の屋上へと槍先を向けて、大きな音を立てて着地する。

「うわああああっ!! 何だ!? こんな時にドラゴン族か!?」
「失礼ですね、どちらかというと駆る側ですっ!」
「そ、その声は……!」

 衝撃でエマネランが掴む柵が完全に壊れるかと思ったが、まだ無事なようでアトリは安堵した。尤も、柵が壊れたとしてもエマネランを強引に力尽くで抱えて助けるまでではあるが。

「アトリ!! 俺様を助けに来てくれたんだな!?」
「ええと、ボールは……ありました!」
「そっちかよ!」

 アトリは少女が投げてしまったボールを見つけ拾い上げると、先程まで己がいた、今は少女ひとりが様子を窺っている上層へ向かって勢いよく投げた。強風さえ吹かなければ届くはずだ――アトリはボールの軌道を目で追い、見事少女のいる場所の近くに落下したのを確認した。少女が慌ててボールを追い掛けるのを肉眼で把握し、アトリは漸くエマネランの元へ駆け寄った。

「おいアトリ! 俺様よりボールの方が大事だってのかよ!?」
「大丈夫です、エマネラン様はこの程度で死ぬような人ではないですから」
「冗談言ってる場合じゃないだろ! もう駄目だ! 手に力が入らねぇ……!」
「オノロワ様が神殿騎士団を呼びに行ってくれていますから、それまで持ち堪えてください!」
「いや、無理だ! アトリ、助けてくれ! オルシュファンの未来の嫁さんなら出来るだろ!」

 エマネランの言葉に、アトリはもうこのまま見捨ててドラゴンヘッドに帰ろうとすら思ってしまった。
 今の言葉で疑ってしまったからだ。何故皇都で己とオルシュファンが結婚するなどという噂が飛び交っているのか。まさか、エマネランが宝杖通りで皆に言い回っているのではないか、と。

「オルシュファンは強い女が好きなんだよ! ラニエット程じゃないが、アトリも充分強い! ここで俺様を助ければオルシュファンもお前にプロポーズするって――」

 必死に訴えるエマネランであったが、騒ぎ過ぎた為かついに握り締めていた柵が耐え切れなくなり、呆気なく外れてしまった。

「――ああああああああ〜〜!!」
「もう!!」

 アトリは怒りを露わにしながら、落下するエマネランに続いて槍を片手に屋上から飛び降り、もう片方の手で彼の手を掴んだ。

「絶対に離さないでくださいね! 離したら死にますよ!」

 アトリは空中でそう叫びながら、エマネランに身体を寄せた。聞いているのかいないのか、エマネランはそのままアトリの身体にしがみ付く。まるで道連れにするような状態である。
 竜騎士見習い、もとい槍術士たるもの、槍を駆使して空を舞い、地上に着地するのは造作もない。だが、ここはモンスターしかいない大地ではなく人の住む街である。壁に槍先を突き立てて強引に落下を回避する事も可能ではあるが、そうすると建造物に傷を付けてしまう。かといってこのまま着地すれば、衝撃で石畳は盛大に破壊されるだろう。果たしてどちらが『まし』なのか。悩んでいるうちに地面は容赦なく近付いていき、アトリはもう考えるのを止めて覚悟を決めた。幸い、落下地点には誰もいない事が確認出来た。もう後はなるようになれ、そう思うしかなかった。

「エマネラン様!! 後でお説教ですっ!!」

 アトリの叫び声は、槍先が下層の石畳を破壊する音でき消された。
 衝撃音は上層まで響き渡った。アトリの周りに砕けた石と砂埃が舞い、暫くは視界が遮られていた。数秒の間を置いて、砂埃が風に舞って消え、漸くアトリの視界が開ける。
 石畳の一部は容赦なく破壊され、ここを補修するのに一体どれだけの資金がいるのだろう、とアトリは真っ先に商人らしい事を考えてしまった。最悪、弁償しなければならないからだ。
 そして、アトリにしがみ付いている男はというと。

「エマネラン様、離れてください」
「…………」
「ちょっと! この状態で失神しないでくださいっ!!」

 案の定、エマネランはしがみ付いたまま気を失っていた。アトリは一応脈を確認し、命に別状はない事を把握した。呑気なものだ。己はこれから事後処理で苦しまなければならないのに、と思わず泣きそうになったアトリの元に、思わぬ救世主が現れた。
 オノロワの助けによって駆け付けた神殿騎士団である。先頭を走るのは副官のルキアであった。

「ルキア様!」
「その声は……アトリ殿! よくやった!」
「いえ……『よく』どころか大変な事になってしまいました……」

 ルキアが傍に来た瞬間、アトリはつい涙を浮かべて泣き言を口にしてしまった。他の騎士団の面々が、アトリの身体からエマネランを引き剥がし、漸くアトリは自由の身となった。尤も、これから面倒な事態が待ち受けているのだが。

「いや、二人とも無事で何よりだ。貴殿がいなければ、エマネラン卿は助からなかっただろう。恩に着る、アトリ殿」
「で、でも……地面を壊してしまいました……」

 ついには嗚咽を漏らすアトリであったが、ルキアは彼女の身体を抱き締めて、労うように背中を優しく撫でてやった。

「この程度、貴殿らの命に比べればなんて事はない。アイメリク様も、きっとそう仰られる筈だ」

 ルキアの気遣いに感謝しつつも、アトリはまたオルシュファンに迷惑を掛けてしまうと、込み上げてくる涙を堪えるのに精一杯であった。またしても騒動の原因となったエマネランは未だ失神しており、騎士団より遅れて駆け付けたオノロワが、泣きながら彼に寄り添う。そんな姿を見て、これで良かったとは思うものの、事後処理を考えるとアトリはただただ途方に暮れるしかなかったのだった。

2022/03/19

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