夜も更け、寮へ帰らなければならない時間。教会を出てふと見上げた空には一番星が輝いていた。ESビル含め、高層ビルが立ち並ぶあの一帯の騒がしさに慣れてしまったせいか、静かな夜がふと恋しくなる事がある。喧騒から解放されたこの一時も、後々思い返すとささやかな想い出のひとつになるのかも知れない、などと微かに吹く夜風を浴びながら感傷に触れていると、隣に立つ巽先輩が私の顔を覗き込んで来た。

「わざわざタクシーを呼ばなくても、俺は光莉さんを送るつもりでいたんですが」
「いえ、お怪我をされている巽先輩に負担を掛けるわけにはいきませんので」
「既に完治しているのですがね。俺の運転では不安ですか?」
「そのような事は決して。ただ、お車は信徒の方の為に使われるべきかと……」

 教会を出る前に既にタクシーを手配したものの、到着には少しばかり時間がかかるらしく、外で待ち惚けを食らっている私を見かねて巽先輩が付き添ってくれている。中で待つ事も出来るけれど、居心地の良さに帰りたくなくなってしまうから、自制の意味もあってこうして外にいる。私は苦ではないけれど、巽先輩が心配だ。
 完治していると言っているけれど、巽先輩が時折足を庇っているのを私は知っている。
 だからこそ、自分のせいでこうして気を遣わせてしまっているのが心苦しい。

「……巽先輩。そろそろ来ると思いますので、もう教会に戻られて大丈夫ですよ」
「なんだか追い返されているような気がしますな」
「いや、ここは巽先輩の家じゃないですか。まさかこんなに待つとは思わなかったので、こうして付き添って頂くのが申し訳ないだけです」
「ここは俺の家だからこそ、そういった遠慮は不要なのですが」

 微妙に噛み合わない会話が続き、気まずい雰囲気になりつつあったけれど、丁度良いタイミングでヘッドライトのまぶしい光が遠くに見えた。

「あ、来たみたいです。では……巽先輩、今日はお誘い頂きありがとうございました」
「お気を付けて。願わくば、主があなたを祝福し、あなたを守られるように……光莉さん、君の行く末に、どうか神のご加護がありますように」
「どうしたんですか? そんな仰々しい事を言われると、まるでもう二度と会えない気がするんですが。また来ますね」

 巽先輩が聖書を引用するのはよくある事なのだけれど、今日は少しばかりいつもと様子が違う。どこか寂しそうに見えて、不思議に思いつつも再会を約束するように言うと、巽先輩は目を見開いてみせた。心もとない外灯ではその表情が何を意味するのかまでは窺う事が出来なかったけれど、少しばかり驚いていると解釈するのが正しいだろう。

「あのう、私、何か変な事を言いましたか?」
「俺がいなくなった後も、この教会に足を運んでくださるんですか?」
「あ、巽先輩は明日から寮生活でしたね。でも、実は教会に赴くのは習慣みたいな感じになってまして……信徒でなければ、祈りを捧げに来るのはご迷惑でしょうか」

 巽先輩の質問の意図が咄嗟に理解出来ず、とりあえず思った事を淡々と答えた。自分が今放った言葉を改めて振り返ってみて、やはり信徒でもない私が来るのはおかしな話なのかも知れない、と少しばかり落ち込んでしまった。誰でも祈りを捧げに来ても良い、と言っても、今の私は迷える仔羊でも何でもない。私が神を信じてすらいない事も、きっと巽先輩ならばお見通しだろう。それなら、もうここに来るのは止めた方が――

「迷惑どころか大歓迎ですな。光莉さんが来ると皆喜びますし」
「そうなんですか? お土産のケーキが好評なら、これからも持参致しますね」
「いえ、皆は光莉さん――君を歓迎しているのですよ」

 巽先輩が慈愛に満ちた微笑を浮かべると同時に、車のクラクションが鳴った。名残惜しいけれど、もう帰らなければ。何はともあれ、和やかな雰囲気で別れる事が出来てほっとした。私は上機嫌でタクシーに乗り込めば、こちらに向かって手を振る巽先輩が見えなくなるまで、その姿を目に焼き付けながら手を振り返したのだった。





「光莉先輩、マジでその『巽さま』に突撃したんですか?」
「マジでしましたが、何か問題でも?」
「いえ、まさか本当に実行すると思わなかったので。それも仕事帰りに。で、結局『巽さま』は事務所を解雇されずに済んだんですか?」

 寮に戻ってお風呂を済ませた私に、同室の後輩からの質問が炸裂する。疚しい事は一切していないし、淡々としていれば良い。冷やしていたミネラルウォーターを口に含んで、火照った身体を冷ますと共に心も落ち着かせれば、後輩へと向き直った。

「まず、経緯ですが。仕事帰りにたまたま外を歩いている巽さまの姿が目に入って、声を掛けたら話の流れで夕飯をご一緒する事になっただけ」
「えっ!? それって凄い運命じゃないですか! 光莉先輩の日頃の行いが良いからですね」
「人の事をストーカー呼ばわりしたその口で褒められても、嬉しくも何ともないですが」
「いじけないでくださいよお、堂々と会いに行って食事までしたならストーカーじゃないどころか脈ありじゃないですか〜」

 朝の仕返しとばかりにわざと頬を膨らませると、後輩は慌ててフォローしつつ私にしな垂れかかって猫のように甘えて来た。こうやって後輩に気を遣わせる時点で先輩失格だ、とほんの少しだけ反省した。あくまで『少し』なのは、こういうやり取りはいつもの事で最早暗黙の了解となっているからだ。

「……それと、巽さまの進退ですが。一先ず解雇は免れたそうです」
「へえ、良かったですね光莉先輩」
「いや、良かったのは私じゃなくて巽さまだけど。……というか、良かったとも言い切れなくて。MDMで結果を出さないと結局のところ解雇されるみたい」

『MDM』の言葉を口にした瞬間、それまでごろごろと甘えていた後輩は動きを止めて、驚愕の表情で私を見上げた。

「いきなりMDMに出場できるほど、『巽さま』って本当に凄い人なんですか!?」
「だから何度も凄い人だって言ってるでしょ。ただ、正規の出場料を稼がないと駄目だろうし、巽さまはともかく他のメンバーは無名のようだから……順風満帆というわけにはいかないと思う」

 事情を説明すればするほど、順風満帆どころか前途多難にも程があって、自然と大きな溜息を吐いてしまった。やはり天祥院英智は巽さまを苦しめて貶めようとしているのではないか、と負の感情に襲われそうになったけれど、昨日巽さまが仰っていたように、解雇するなら書面一枚で済む事であり、ここまで面倒な段取りを組むのは無駄でしかないし、そんな暇もない筈だ。
 色々と解せない事はあるものの、巽さまの実力を推し量る為に敢えて試練を与えている、と考えるのが一番無難かも知れない。一緒にユニットを組む事になったメンバーも、巽さまのように『訳あり』な実力者である可能性も無きにしも非ずだ。

「光莉先輩、『巽さま』の力になれるといいですね」
「こればかりは……残念ながら、神に祈るぐらいしか出来ませんね」
「……先輩、今なんだか本物の教会の人みたいに見えました」
「そういう事、くれぐれも信徒の方々の前で言わないようにね。私なんて信仰心も何もない人間なんだから」

 巽さまの影響か、私もつい『それっぽい』事を口にしたり、仕草に出たりしてしまうのだけれど、さすがに本当に信仰心のある人達に対して失礼だ。大体、巽さまが退院されるまでの間、神に向かって早く治してみせろと半ば脅しのような祈り方をしていたし、巽さまがこの事を知れば『神を試すような行為はあってはならない』と苦言を呈すだろう。

「でも、光莉先輩ってなんだかんだで信心深くないですか? 『巽さま』が寮住まいになった後も教会に通う姿が目に浮かびますが」
「まあ……確かに、通うつもりでいるけど」
「ええ!?」
「ちょっと、いきなり大きな声出さないで。心臓止まるかと思った」

 至近距離で突然大声を出されたものだから、驚きのあまり本当に心臓がばくばくと音を立てている感覚がしている。向こうも私の言葉に驚いたゆえの声と云えど、寧ろこちらの方が驚いているぐらいだ。なにせ、そんな態度を取られる理由が分からないのだから。

「私、おかしな事言った? そういえば、巽さまにも驚かれたんですけど……」
「だって光莉先輩、その『巽さま』目当てという邪な気持ちで教会に通ってたわけですよね?」
「『邪』?」
「いやそこは突っ込まなくていいんですけど。お目当ての人がいなくなっても通うんですか?」

 後輩は別に私に対して軽蔑や呆れといった感情を抱いているわけではなく、ただ純粋に私の行動が理解出来ないから驚いているようだ。
 確かに、言われてみればその通りだ。私は巽さまの治癒を願って通い続けていて、巽さまが退院された後はそのお顔を拝見する為だけに、教会の子どもたちが喜びそうなケーキやらお菓子やらを見繕って、暇を見て通っていたのだから。

「……一年以上も通っていれば、習慣化されてしまっているのかも知れません。教会の子たちの笑顔を見るのも心が温まりますし、逆に行かない理由が思い付かなかったというか」
「光莉先輩、それもう入信した方が良くないですか?」

 一瞬それも悪くない――と思ってしまったけれど、心の底から神を信仰している巽さまの姿を思えば思うほど、自分のような神を試すような祈りを捧げる女など入信に値しないと思わざるを得なかった。





 巽さまが『ALKALOID』なるユニットの一員として歩み始めた事は、私にとっても思わぬ形で活力を与えてくれた。
 アイドルの総本山ともいえるESビルには、私たち玲明学園の生徒が所属するコズプロや、巽さまを拾ったスタプロだけでなく、様々な事務所が入っている。ゆえに他事務所のアイドルとビル内で出くわす機会も少なくない。それは当然、コズプロとスタプロも同様だ。
 つまり、巽さまと私がこのビル内で偶然出くわす事も、当たり前のようにあり得るのだ。

「巽さま……っ、巽先輩!」

 レッスンルームに向かう途中で巽先輩の姿を発見し、私はつい周囲の事も気にせず大声で叫んでしまった。声に出した瞬間、ここは公共の場である事を思い出し慌てて周囲を見回したけれど、幸い誰もこのフロアにはいなかった。限られた時間しかないけれど、とりあえず挨拶だけでもと、私はすぐさま巽さま――巽先輩のもとへ駆け寄った。

「おや、光莉さん。やはり顔馴染みに会うとほっとしますな」
「そうですか? お会いしたところで、巽先輩のお力になれないのが心苦しいですが……」
「いえいえ。教会で過ごした夜といい、ESの仕組み等も簡単にご教示頂きましたし。聞くは一時の恥などと言いますが、光莉さんは馬鹿にする事なく優しく教えてくださるので、じゅうぶん助けて頂いています」
「そんな、何も出来てないですよ。肝心な事は何ひとつ……」

 自分が説明下手な事は自覚しているし、それに実績のある巽先輩には、私以外にも当然顔馴染みがたくさんいる。恐らく他の人達の方が余程力になっているだろうし、本当に私は何も出来ておらず、ただ単に私が巽先輩にばったり会えて嬉しいだけで、私は得しているけれど巽先輩にとっては何の利益にもなっていない。

「すみません、私から話し掛けておいて何ですが……これからレッスンがあるので、これで失礼しますね」
「はい、光莉さんに神のご加護がありますように」
「巽先輩にも、神のご加護がありますように!」
「ふふっ」

 反射的に両手を組んで鸚鵡返しすると、巽先輩は優しく微笑んでみせた。その表情は、私がまだ子どもだった頃に向けてくれたものと何も変わっていない。
 巽先輩がいなかった間、私を取り巻く世界は大きく変わってしまったけれど、変わらないものもある。巽先輩の微笑も、そして、私の想いも。

2020/05/13

Wohl dem, der sich auf seinen Gott

神によれる者は幸いなるかな
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