「そんなに気になるなら、『巽さま』に今日も会いに行って、直接聞けばいいじゃないですか」

 巽さまが天祥院英智に呼び出され、ESビルに出向かれると伺ってからというもの、寮に帰宅した後は一睡もできずに朝を迎えてしまった。朝食の際、睡眠不足で酷い顔をした私を見た同室の後輩が、呆れがちに至極真っ当な事を言ってのけた。私が彼女の立場なら同じ事を言うだろう。自分が何も手出し出来ない事象に対して一睡もできない程思い悩むなど、あまりにも無駄な時間の消費でしかない。理屈ではそう分かっているのだけれど。

「簡単に言うけど、大体何時に戻られるか分からないのに待伏せするなんて、傍から見たらストーカーじゃ……」
「え? 光莉先輩ってご自身が既にストーカー予備軍だという自覚がなかったんですか?」
「は?」

 この玲明学園は上下関係に厳しい――というのは最早形骸化しており、今は随分と緩くなっている。私も一年目は本当に苦労したけれど、幸運にも特待生になり、上級生となってからは、同じ事を後輩に対してしないように心掛けているつもりだ。それが、過去の体制を壊したかった巽さまの望みでもあったから。
 ――とはいえ、今の発言は聞き捨てならない。

「私は純粋に巽さまの事を心配しているというのに、それをストーカー予備軍と?」
「だって、その『巽さま』は光莉先輩の気持ちは知らないんですよね? 信徒でもないのに、ずうっと頻繁に教会に通ってた事も」
「それは、そうだけど……でも、私は別に犯罪を犯しているわけじゃないですからね」
「じゃあ堂々と会いに行けばいいじゃないですか。こそこそするからストーカーっぽく見えちゃうんですよお」

 悪びれもなく邪気のない笑みを浮かべながら、さりげに辛辣な事を言ってのける後輩に、自然と溜息を零してしまった。怒る気にもなれないのは、睡眠不足で頭が回らないというよりも、第三者から見れば後輩の言っている事が圧倒的に正しいと理解しているからだ。

「それにしても、光莉先輩がそこまで入れ込むなんて、余程凄い人なんですねえ、その『巽さま』って」

 巽さまが玲明学園に革命を起こすべく精力的に活動されていたのは、もう二年も前の話になる。当時を知っている生徒は私と同学年――現三年生しか居らず、その中でも随分と多くの生徒が玲明を去ってしまった。巽さまが長期入院され、今年の春に漸く退院された後もまだ復学は叶っておらず、つまり今の一、二年生は巽さまの存在自体を知らないのだ。

 巽さまの時間は止まったままだ。
 いや、違う。二年前から時が止まっているように感じているのは、あの時の巽さまに囚われている私だけだ。





 世間一般的には夏季休暇でも、アイドルに長期休暇は存在しない。今日も昼からちょっとした仕事が入っていたけれど、夕方には終わってあとは寮に帰るだけとなった。
 タクシーを呼んで、玲明学園までの道をガラス越しに眺めながら、緩やかな睡魔に襲われて記憶を失いかけていると、ふと、朝方後輩に言われた言葉が脳裏をよぎった。

 ――そんなに気になるなら、『巽さま』に今日も会いに行って、直接聞けばいいじゃないですか。

 いっそ夜まで長引くような仕事であれば、悩む必要もなくまっすぐ寮に帰ったというのに。
 こんな事を思い出すだけで目も覚めてしまい、自然と溜息を吐いてしまったけれど、後輩の言っている事は正しい。このまま寮に帰ったところで、昨日と同じように巽さまの進退を思い悩んで堂々巡りするだけだ。
 例えこれから教会に出向いて、巽さまがお戻りになられていなかったとしても、それはそれで仕方のない事だ。何もしないより、出来る事をして成果がなかった方がまだ諦めがつく。

 そう思い立って、運転手へ行き先の訂正を告げようとした瞬間。
 ガラス窓の向こう側に、見覚えのある姿が視界に入る。
 見紛うはずがない。透き通るような薄緑色の髪。緩慢な足取りで歩を進めるその姿は、巽さまに違いなかった。

「すみません! ここで降ろしてください!」

 運転手は一瞬怪訝そうな声を上げたものの、私が窓の向こうへ熱心な目を向けている事に気付いて、偶然知人でも見つけたのだろうと思ってくれたのか、快く降ろして貰えた。無理を言った事へのお詫びに頭を下げると、いいから早く追い掛けなさい、と言ってくれて、私は改めて運転手へ礼を述べれば、全速力で走り出した。





 漸く追い付いて、その後姿に声を掛けようとした瞬間、巽さまが振り返って私の姿を捉えた。偶然ではなく、けたたましい足音を不思議に思ったのだろう。肩で息をする私を見て、巽さまはいつもと変わらない微笑を浮かべてみせた。

「光莉さん、良いところに。まさかこんなところでお会いするとは、これも神のお導きですかな」
「巽……先輩! あの、仕事帰りに偶然見掛けましたので、つい、追い掛けてしまって……」
「巷は長期休暇だというのに、お疲れ様です。まあ、俺も随分と長い休暇を過ごしていますけど」

 自嘲するように言葉を紡ぐ巽さま――巽先輩に、私はフォローするよりも先に問いを投げ掛けていた。

「あの、スタプロの呼び出しは、結局何だったんですか?」

 かなり不躾な質問になってしまったと、言った瞬間後悔したけれど、巽先輩は不快感を露わにすることもなく、それどころか満面の笑みで回答をくれた。

「首の皮一枚繋がった、というところですな。詳細を説明すると長話になりそうなので……光莉さん」
「は、はいっ」
「光莉さんさえ良ければ、これからうちの教会で一緒に食事でもどうですか?」

 願ってもない申し出に、頷かないわけがない。ただ、信徒でもなければ、巽先輩との関係は単なる知り合いに過ぎない関係上、易々と頷いて良いものかと心にブレーキがかかる。

「他に用事があるのでしたら、またの機会でも」
「暇です! ですが……話だけならともかく、夕食までご馳走になってしまうのは心苦しいです」
「いえいえ、光莉さんにはよく子どもたちの喜ぶものをお裾分けして頂いてますし、是非日頃のお礼をさせて貰えませんか。それと、俺も光莉さんにご教示頂きたいことがあるんです」
「私が、巽先輩に?」

 逆なら分かるけれど、私が巽先輩に教えられる事などまるで見当が付かない。私が巽先輩より優れている事があるなど、全く以て有り得ないと言い切れる。
 そう思っていたけれど、俗世から離れた生活を一年以上送っていたゆえの問題であると、後になって知ったのだった。それほど、巽先輩が入院されていた間に、この業界のシステムは一気に変わったのだ。

 やっぱり、巽先輩――巽さまの時間は止まったままだ。そしてきっと、今日という日が止まっていた時計の針が動き出した、記念すべき日なのだろう。『首の皮一枚繋がった』というのは、事情はあれど解雇ではないという事だし、それに巽先輩の笑顔を見れば、決して悪い話ではなかったのだと一目瞭然だった。





「ああ、ホールハンズの事ですか。確かに、最初はちょっとややこしいですけど……」
「光莉さん。俺の場合『ちょっと』という次元ではないんです。この電子機器が『すまほ』という名称である事を今日初めて知ったほどですから」
「…………」

 このご時世、携帯電話を所持していない人間を探すなど至難の業だと思っていたけれど、まさかこんな身近にいたとは思わなかった。今や通信端末といえばスマートフォンが圧倒的に主流であり、使いこなせる高齢者も多くいる。その証拠に、礼拝に来た人達やこの教会に住む子どもたちが、今は誰でも使えるように出来ていると巽先輩に教えを説いている。

 一見完璧に見える人間でも、苦手なもののひとつやふたつはあるのだと思うと、巽先輩も神ではなくひとりの人間なのだと当たり前の事を考えてしまった。当然、巽先輩は神ではなくごく普通の人間だと分かっているけれど、玲明学園でのあの一年で、無意識のうちに巽先輩の事を神格化してしまっていたのだと反省せざるを得なかった。

「……光莉さん。食事が終わってまだ時間があればで構いませんので、どうか俺にご教示頂けますかな」
「正直、お力になれるか自信がありませんが……善処します」

 本来であれば想い人に自らの数少ない知恵を与えるなど、かつてないほどの幸運なのだけれど、スマートフォンが何たるかすら知らなかった事を鑑みると、私の説明力では無理だ――初めからそう諦めていた。



 結局のところ、私の説明下手が露呈する事になり、巽先輩は取扱説明書を熟読する事にしたようだ。最早何のために教会に来たのかも分からないと、本来の目的を完全に忘れてしまった私は、疲弊すると共に非常に落ち込んでしまった。

「光莉さん、すみません。俺の飲み込みが悪いだけですから、どうかそう落ち込まずに」
「違うんです、巽先輩が悪いわけではなく……私の説明が拙いばかりに、後輩への指導も上手く伝わっていないのではないかと反省点が見つかりまして」

 そう、決して巽先輩が悪いわけではない。というか端末操作する機会もない環境で生きて来た人間に対して、突然ホールハンズを使いこなせというのは無理がある。一日二日でどうにかしろという訳ではなく、少しずつ慣れていけば良いと思うし、事務所もそういう考えでいる筈だ。それに――

「それに、巽先輩は大丈夫ですよ。慣れないうちはユニットの皆様と協力すれば問題ないかと思います。支え合ってこその仲間ですから」

 巽先輩が『長話になる』と言っていたのは事実だった。今日あった出来事をざっと聞いただけで、それこそ巽先輩がスマートフォンの操作に困惑するのと同様かそれ以上に、私の頭も混乱している。

 巽先輩は、スタプロ所属のアイドル達とユニットを結成する事になり、来る八月末日に行われる『MDM』にて結果を出さなければ、強制的に解雇されるのだという。
 首の皮一枚繋がった、と仰られた意味がちゃんと理解出来たと同時に、こんな無理難題を押し付けるなんて、やっぱり天祥院英智という人は信用ならない、と怒りすら覚えるぐらいだった。結局解雇するのなら何故コズプロを追放された巽先輩を拾ったのか、という疑問はあるものの、過去の経歴と可能性に懸けたと考えれば納得は出来る。それにしても急遽結果を出せなど、無茶振りにも程があるけれど。

「光莉さんが大丈夫だと言い切るのならば、この先どんな苦難に見舞われても乗り越えていけそうですな」
「いえ、私の発言など何の効力も為しませんので。巽先輩の実力と人望があれば、自ずと道は開かれると思います」
「相変わらず俺の事を過大評価し過ぎではありますが……ただ、今日ばかりは光莉さんの言葉を素直に受け止め、明日から新しい環境で精進して参りましょう」

 その言葉に、私はほんの少し寂しさを覚えた。巽先輩が新たな一歩を踏み出したのは本当に喜ばしい事だというのに。
『明日から新しい環境』というのは、新しいユニットでアイドルとして動き出す事だけではない。巽先輩はこの教会を出て、明日からユニットの仲間と共に寮で暮らす事になったのだ。

「……光莉さん、どうされましたか?」
「いえ、巽先輩がこの教会を離れられるとなると、皆様寂しくなるのでは、と……」

 皆、なんて言ったけれど単に私が寂しくなるだけだ。巽先輩は皆から慕われているから、皆寂しがるのは間違いではないのだけれど。

「二度と戻らないわけではありませんし、離れて暮らしても俺はこの教会の牧師である事に変わりはありませんな。それに解雇されれば戻らざるを得ませんし」
「縁起でもない事を言わないでください、巽先輩なら絶対大丈夫です!」
「ふふ、やはり光莉さんをお誘いして正解でした。こうして今日話せたお陰で、これから前向きに頑張れそうです」

 巽先輩は穏やかな微笑みを湛えながら、そんな事を私に言ってのけたけれど、つい前に自分で言ったように、私の言葉なんて何の力もなければ何の価値もない。絶対、なんてものはこの世に存在しないけれど、それでも何の根拠もなしに自然とそんな言葉が口をついたのは、巽先輩がこんな所で終わるような人ではないと断言できるからだ。巽先輩が玲明学園で革命を起こそうとした事は現に無駄にはなっていないし、大怪我から一年以上の時を経て、アイドルとして復帰するチャンスを得ることが出来たのは、神の思し召しでも何でもない、巽先輩自身の力だ。巽先輩の止まっていた時間は、間違いなく今日という日に、漸く動き出したのだ。そして、二年前の世界に囚われたままだった、私自身の時計の針も。

2020/05/02

Dem Gerechten
muss das Licht

光は正しき人のためにさし出で
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