ESビル内であれば、例え周りに誰もいなくても、その場で叫んで助けを呼べば誰かが来てくれるかもしれないし、相手も怯んで逃げるかもしれない。いくら気が動転していてもそれぐらい反射的に出来るはずなのに、どうしてか大人しく相手の指示に従ったのは、この人は私に危害を加えるようには思えなかったからだ。決して乱暴に扱うわけでなく、まるで壊れ物を触るような手付き。強引に連れ去ろうと思えば出来る筈なのに、寧ろ私にお伺いを立てるような話し方から、きっと何らかの事情があり私と二人きりで話がしたいのだ――そんな風に捉えるなんて我ながら平和惚けしていると改めて思うけれど、どうにも悪い人には思えなかったのだ。

 後ろから口を塞がれたまま、誰かも分からない相手と共に歩を進め、気付けば視界は真っ暗になっていた。相手に何かされたのではなく、灯のない暗い場所へと辿り着いたのだ。ESビルから離れるほど長い時間歩いたようにも感じず、恐らくはビル内部なのだろう。立ち入り禁止の場所、あるいは誰も知り得ない場所。

 そして、漸く私の口許が開放された。この暗さでは相手の顔を認識するのは困難だ。尤も、まずはこんな事をした理由が不明では、私もどうしたら良いか分からない。
 ここが何処なのかも分からない。当然、逃げるにしても出口が何処にあるのかも、どの方向に行けば良いかも分からない。手荒な真似はしないようだから大丈夫だと思っていたけれど、悪い意味で危機回避能力が働いたのだろうか。
 相手は善良な人間であると思い込む。
 今の自分が最悪な状況にあると認識しない為の、一種の逃避だ。

 物音ひとつしない、静かで暗く、真夏だというのに寒さすら感じる空間。
 そんな中で、相手の息遣いだけが聞こえる。
 一体何をされるのか。
 ――いや、そもそもこの人が何をしたいのか、まるで見えて来ない。
 変に刺激したら最悪の事態が訪れるかもしれない。けれど、このままじっとしていても好転する事はない。
 ここは一か八か――これでも学園側の命令で、『いつも笑顔で頭が弱い子』という設定のアイドルを演じているのだ。いかに相手を刺激せずこの窮地を逃れられるか、最大限頭を働かせ、相手の望みを引き出して、お互いにとっての最適解を見つけ出さなくては。
 決意してしまえば後は簡単だった。ゆっくりと深呼吸して、恐る恐る、見えない相手へ問い掛けた。

「――あの、ご用件は何でしょうか」
「ヒィッ!!」
「え?」

 私が話し掛けるや否や、相手は怯えた声を上げた。この状況下、どう考えても怯えるのは私のほうなのだけれど、何故か一瞬にして立場が逆転した――ように見えた。

「あなたの目的が分からないと、私もどうしたら良いか分からないので……話が先に進まないと思いませんか?」
「ご、ごめんなさいごめんなさいぃ! 決して疚しい事をしようと思ったわけでは……いえ、ちょっと思いましたけど!」
「は?」
「すすすすみませんすみませんっ!!」

 気のせいかもしれないけど、ついさっきまでは相手の呼吸音が耳元で聞こえていたのに、今度は相手の声が足下から聞こえているような気がする。
 よく分からないけれど、とにかく相手を刺激せず、そして一時的で構わないから、相手から信頼を得るべきだろう。そうしないと、仮に相手が私を置いてここから離れてしまったら、多分、二度とここから出られない。
 とりあえず、自分の勘を信じてその場にしゃがみ込んで、冷たいコンクリートの床に手を這わせた。
 暫く適当に動かしていると、何かに触れた。瞬間、「ヒッ」と小さな悲鳴が聞こえる。
 私は迷わず、触れた何か――相手の手を両手で優しく包み込んだ。

「信じて貰えないかもしれませんが……私、あなたを悪いようにはしません。なので、話を聞かせて貰えませんか? 焦らず、ゆっくりで良いですから」
「うぅ……」

 相手の手を握ったまま、右手だけ離して自分の鞄をまさぐった。すっかり扱い慣れた事務所貸与のスマートフォンを掴めば、そのまま鞄の外から自分の目の前へ移動させて、真っ暗で見えない端末を片手で勘を頼りに弄り、そしてライトを起動させた。

「ギャアアアアアッ!!」

 別に危害を与えたわけでも何でもなく、ただライトを起動させただけだ。突然停電に見舞われた時や災害時に備えて、スマートフォンを懐中電灯代わりに出来るよう、自分なりにこの端末の機能を使いこなせるようにしていた。それがこんなところで有効活用出来るとは思わなかったけど。
 端末のライトに照らされた相手の顔は、見覚えのある人物だった。ゆるく結われた長い髪、遠目では女性にも見える美しい容貌。間近で見て漸く把握出来た、口許のほくろ。つい先日、舞台で見た『あの人』だという確証を得るのは容易かった。

「ごめんなさいごめんなさい!! この通りです!! どうかお許しください……!!」
「あの! 礼瀬マヨイさまですよね!?」
「どうか……――えっ?」

 ライトに照らされながら土下座する長髪の男性に向かって、彼の名前を紡ぐと、相手はびくりと肩を震わせれば顔を上げ、狐につままれたように呆然とした表情でこちらを見上げていた。
 やっぱり、あの人で間違いない。巽さまと苦楽を共にする事となったユニットのメンバーであり、新たな仲間。

「『ALKALOID』の礼瀬マヨイさま……私、あなたに一度お会いしたかったんです!」





「ここに連れて来た私が言うのもどうかと思いますが……光莉さん、もう少し警戒心を持たれた方が良いのではないかと……」
「きっとマヨイさまが危険人物ではないと本能で感じたから、私も素直に従ったのだと思います」
「……何というか……巽さんと系統が似てますね……ううっ、眩しすぎて直視できないですぅ……」

 どうやらここはESビルの隠し通路らしい。一般に周知されている避難経路というわけではなさそうだし、どうしてこんな場所が存在するのか私の知るところではない以上、考えても無駄だろう。
 それに今となっては、得体の知れない怖さはすっかり消え失せ、逆にこのビルの秘密を知り、網羅しているであろう礼瀬マヨイという人を、単純に凄い人なのだと無意識に認識し、自然と羨望の眼差しを向けていた
 ただ、彼は人に見られている事に慣れていないようで、私と目が合う度に逸らしていた。
 盂蘭盆会でも巽さまと手を繋がれていたし、その時はパフォーマンスだと思ったのだけれど、もしかしたら彼の不安を取り除く為に巽さまがそうしたのかも知れない。巽さまは損得勘定など考えず、誰に対しても手を差し伸べる、自然とそういう事をする人だからだ。

「さすがに私と巽さまが似てるなんて言ったら、各方面から叩かれますよ。私が巽さまの影響を受けているというのなら、大いに考えられる……というか、とても光栄な事ですが」
「無名の我々ならともかく、光莉さんが叩かれるのは考え難いですが……ご自身を過小評価するところも、なんだか巽さんに見えて来ます……」
「なんか、徐々にこじつけになってません?」

 コンクリートの冷たい壁に背を預け、ひとまず雑談に興じて、彼が何を目的としているのか少しずつ探っていく。それが今の私に出来る最大限の事だ。
 私たち以外誰もいない、静かで寒さすら覚える場所だからこそ、自然と冷静に物事を考える事が出来ている。

「それにしても……どういう運命の悪戯か分かりませんが、マヨイさまとお会い出来て、私、本当に嬉しいです」
「ヒィッ! ど、どうしてそんな……」
「私、何かおかしな事を言いましたか? すみません、失言があれば訂正させて頂きます」
「い、いえ……光莉さんが悪いのではなく……私など『さま』と呼ばれるような存在では……」

 つい玲明学園での生活の癖で、敬意を感じる相手には意識せず自然とそういう呼称を使ってしまうのだけれど、巽さまも嫌がられていた事だし、あまり口にしない方が良いのかも知れない。
 相手は悪くないと言ってくれてはいるけれど、ここは謝った方がいい。私は彼に向かって頭を下げた。

「申し訳ありません、マヨイさま――う、ええと、マヨイさん。学園の古臭い体質が抜けず、つい敬称を」
「すすすすみませぇん! こんな……光莉ちゃんに頭を下げさせるなんてぇぇっ」
「光莉『ちゃん』?」
「ヒィッ! ち、違うんですぅっ! 決して光莉さんのアイドル活動の映像を個人的に楽しんでいるわけではなく、あくまで巽さんが気に掛けていらっしゃるからであって……!」

 顔を上げると、マヨイさんは酷く狼狽えていて、正直何を言っている事の半分も理解出来なかったけれど、これだけは分かる。
 巽さまと私の関係を、ALKALOIDのメンバーも把握し、皆に心労を掛けているという事だ。

「……マヨイさん、本当にごめんなさい……私が巽さまを傷付けたせいで、皆様にご迷惑を……」
「いえ、別に迷惑では掛かっていませんが……ただ、お二人が接触する機会がなかなか無いせいか、巽さんもここ最近上の空になる事があって、何か力になれないかと考えた結果が……」

 マヨイさんは心底申し訳なさそうに言葉を紡ぎ、今にも泣きそうな顔で目を伏せて、深々と頭を下げた。スマートフォンの明かりぐらいしか光のない薄暗い空間だからだろうか、その一連の動作すら美しく見えてしまった。外見の美しさだけではない。内から醸し出す色気がより一層そう思わせるのだろうか。

「すみません、拉致のような事をしてしまい……というか完全に拉致ですが……。私も光莉さんがどんな方なのか興味があり――いえ! ゆっくり話したいものの、邪魔が入って欲しくないあまり……」
「マヨイさんが私を傷付けないよう気遣われていたのは分かっていたので、大丈夫ですよ。私が抵抗しなかったのも、そういった裏付けがあっての事ですから」

 本当にマヨイさんの言う通り、少しは警戒した方が良いのかも知れないけれど、悪意があってESビル内で拉致をする人間がいるだろうか。例え防犯カメラに死角があったとしても、外に連れ出すとなると必ずどこかのカメラが捉えるだろう。こんな隠し通路なんて、それこそマヨイさんのようなごく一部の人間しか知り得ない事だ。

 とりあえず、漸く今回の事態に至った経緯が見えた。掻い摘んで言うと、こうだ。

「つまり、マヨイさんは私が巽さまに謝る機会を何とか設けたいと思って、今回行動に移された……という事でしょうか?」
「謝る……? いえ、私も詳しくは把握していませんが、巽さんもあなたに謝りたいと言っていましたよ。どうやらお互いに気持ちがすれ違っているようなので、MDMが始まる前にお話された方が、巽さんも晴れやかな気持ちで舞台に立てるのではないかと……」

 最悪の事態が起こってしまった。
 これまで、単に私が一方的に巽さまに謝りたいと思っていて、別に向こうはそんな事望んでもいないし、かえって迷惑かもしれないとすら考えていた。それが、どうして巽さまが私に謝りたいなんて言っているのか。まさか、以前のように『偶然出くわす』機会が何故かぱったりとなくなってしまった事を、私が巽さまを避けていると思って、気に病まれているのだろうか。
 私が巽さまに会えないのは単なる偶然で、寧ろ私は会いたいばかりに、馬鹿みたいな行動をずっと取っていたというのに。
 その『馬鹿みたいな行動』を取り続けた結果が、先日の七種副所長からの通告だ。

 もう、巽さまに会ってはならないのだと。

「マヨイさん……本当にごめんなさい!」
「え?」
「私……事務所から巽さまに会わないよう命令されているんです。もし個人的に会えば、解雇すると……」
「……え?」

 呆然とするマヨイさんをよそに、今度は私の方が泣きそうになってしまった。
 巽さまに会えないからではない。自分が馬鹿な事をやらかしたせいで、巽さまに余計な心労を掛け、それを解く術すらないからだ。





 隠し通路から出て、元の見慣れたESビル内に戻って来ると、安堵感よりも夢から現実に引き戻された感覚を覚えて、無性に寂しく感じてしまった。

「マヨイさん、折角ご足労頂いたのに、本当に申し訳ありません……」
「いえ、私は楽しかっ……ではなく、私が好きで勝手にやった事ですから、どうか謝らないでください……」
「馬鹿な事をたくさんやらかして、その結果、巽さまに会えなくなるなんて……私個人の問題ならともかく、巽さまも悩まれているのなら、事情を説明しないとなりませんね。詳細は伏せて『事務所に缶詰状態で外に出る機会がない』とか、適当にでっち上げて頂ければと」
「それは構いませんが……私としては本当の事を言った方が良いと思います……いくらなんでもコズプロのやり方は横暴ですし……」

 マヨイさんが私を庇ってくれるのは有り難いけれど、事務所の悪口は下手に言わない方が良い。事務所が守ってくれるかも分からない、駆け出しのユニットなら尚更だ。
 私はマヨイさんの口許に人差し指を当てて、それ以上は言わないよう制した。

「どこで誰が聞いてるか分からないですし、下手な事は言わない方がいいです。気持ちだけ有り難く頂いておきますね」
「うぅ……」
「ふふっ、マヨイさんがとても慈愛に満ちた方で、私まで嬉しくなります。やっと、巽さまは私利私欲のない、清廉潔白な方々と巡り会えたんですね」
「そ、そんな……! 私なんて清廉潔白とは程遠い、醜い存在ですぅぅっ」
「私利私欲に走る人はそんな事言いませんから」

 きっと、ALKALOIDの他の二人のメンバーも同じ心の持ち主だろう。やっと巽さまは素晴らしい仲間と共にアイドル活動に戻る事が出来たのだと思うと、自然と胸が熱くなった。

「マヨイさん、本当にありがとうございます! 正直、巽さまにお会い出来なくて心が折れかけていたんですが……こうしてマヨイさんとお話出来たお陰で、やっと前を向く事が出来そうです」
「そんな……別に光莉さんは悪い事してないじゃないですか……寧ろ私はとてつもない親近感を覚えましたし……」

 この期に及んで私をここまで庇ってくれるなんて、マヨイさんはなんて良い人なんだろう。例えそれが巽さまの為であっても、大して知りもしない女の為にここまで優しくしてくれるなんて、根が善良だとしか言いようがない。

「初対面で巽さまへの伝言を頼むなんて、本当に申し訳ないのですが……マヨイさんだけが頼りです。どうか、よろしくお願い致します」

 改めて深々と頭を下げて、顔を上げると、マヨイさんはまるで愛らしいものを見るように目を細め、穏やかな笑みを浮かべていた。

「ええ、出来る限りの事はさせてください。ですが……私としては、やはり直接巽さんと会って欲しい気持ちに変わりはありません。厳しい事務所だと難しいとは思いますが……光莉さんと巽さんが気兼ねなく会える時が来る事を願います、心から」

 大袈裟だけれど、ここまで良い人がこの世に存在するのかと思ってしまう程、今の私にとって、礼瀬マヨイという人はまさに神様のように見えたのだった。

2020/11/03

Nun komm,
der Heiden Heiland

いざ来ませ、異邦人の救い主よ
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