たられば
脳味噌をフル回転させて記憶を辿る。
以前、私はこの神様に会ったことがある。あの、堀川さんの鍛刀の許可をもらう時。滅多に使う事のない大広間で、鶴丸さんを筆頭にした彼ら全員と私は対峙した。
ー燭台切、光忠。
そう、彼は怯えたような様子で、ちらりちらりと此方を伺いながらそう呟いていた。
今の彼も何処か挙動不審で、こちらをしっかりとは見据えない。
部屋のどこかしらを見つめては直ぐに視線を移すその様は、よく言う借りてきた猫、といった様子だ。
私はベッドから降りる。ベットと柱の間にしまっておいた小さな簡易ちゃぶ台と、部屋備え付けのお座布団を2枚取り出した。
ベットのテーブルの上に置いておいた魔法瓶には、朝に三日月さんにお出ししたジャスミン茶が入っていて、後で飲もうと思っていたので湯呑みもある。まだ口をつけていなかったのでまだ中身は熱々のたっぷりだ。
それを湯呑みにコポコポと注ぎ、ちゃぶ台の上に置いた。
「さ、立ち話もなんですし、もし良ければ。」
私がそう言うと、彼はびくりと震えて、おずおずとそのお座布団の上に座る。
いい香りの湯気を出すお茶をじっと見つめて、手にかけようとして、彼はやめた。
「…全部、見てきたんだ」
正座をした彼の足にお茶に手をかけようとした手を握り乗せる。
…どうやら、信用は、されていないようだ。
勿論毒なんて入っていない。私の方にもお茶を淹れてある。でも、それを疑わずにはいられないのだろう。
私は彼を見やる。部屋を温めた方がいいかな、なんてぼんやり考えながら。しっとりと濡れる彼の震えは、きっと寒さから来るものでは無かった。
どんな思いで、彼はこの部屋に来たのだろう。それを考えると、どこか腹の中が絞られるような、そんな変な感覚に襲われた。
「粟田口や来派、左文字、今剣を治したとき、加州を救った時、和泉守を救った時、
それに、今回の、太郎太刀と次郎太刀を救った時。君がいつだって、優しく、暖かく笑っていて、時に怒って、時に泣いて。
僕達のために尽くしてきてくれたのを、僕は見てきた。
だからこそ、どうかもう諦めて欲しい」
「君が考えている以上に君が苦しんでしまうのが、この戦争なんだ。
決して親元に帰れず、僕達の為に生涯を費やさなきゃいけない。命も何もかも捧げて。
それだけじゃない。この本丸にはまだまだ沢山の刀剣が居る。皆息を潜めて、君の首を狙うだろう。
皆が皆、救いを求めているわけじゃない。もう手遅れなくらい歪んだ者だっている。これからだって君は辛い思いをすると思う。時には死にたくなるような事だってあるかもしれない。
一つ、願いを叶えてくれるのだと聞いた。
だから、僕はそのお願いをしにきたんだ。」
「…この本丸を諦めて、どうか、この本丸を去って欲しい。」
お願いだ。
彼はそう言って頭を深く深く下げた。
私はその急過ぎる展開に、頭が付いていかない。彼はあまりにも突然現れた。
なにも心の準備すらしていないし、お願いをされるなんて思ってもみなかった。
口を開けずにいる。
何も、言葉が出なかった。
彼は、私のことを考えて願いを言っていたからだ。私のことを認めた上で、私の事を案じて提案をしていた。長い長い沈黙、
どうするのが正解なのかは分からない。
でも、答えは決まっていた。
「…私は、みなさんともうお約束をしています。
私がみなさんを幸せにしますと、離れないと。
なので、それだけはしてはいけないんです。」
本丸に来て、幸せなことしかないといえば嘘かもしれない。
辛いことも沢山あれば、満たされないことの方が多い。
それでも私はこの場所に選ばれた。
沢山の審神者の中から、沢山の本丸の中で、私は、此処に配属になったのだ。
それはなにかの縁なんだと思う。
私があの日、今みたいに雨の降る朝。
審神者になりたくないと駄々を捏ねたら?
あの研修の時、そんな面倒な本丸は嫌だとわがままを言えば?
もっと言ったら、預金を全部下ろして、海外に逃げる事だって出来たのだ。
でも、私はそれをしなかった。
したくなかったとか、出来なかったんじゃない。
私はそれを選んだのだ。
私が此処に来なければ、もっと経験豊富な審神者が来て私なんかより早く問題を解決したのかもしれないし、
私が此処に来なければ、もしかしたらこの本丸は解体されて、みなさんは何も思うこともなく本霊に還ったのかもしれない。
薬研さんの作る卵焼きは美味しいとか、堀川さんの洗濯したものはすごくフカフカになるだとか、和泉守さんはお馬さんにすごく好かれていただとか、
江雪さんの和食の盛り付けは見事だとか、一期さんの畝作りは見事だとか。
加州さんの爪紅塗りはすごく上手いとか、
他にもいろいろ、そんな、そんなちょっとした沢山の幸せのことを知らないままだったのかもしれない。
そんな沢山のたらればに囲まれて、私は此処にいる。私はそれを思い返して、少し笑った。
「私を心配してのご提案、とても嬉しいです。感謝します。でも、そのお願いはどうかご自分のために使って下さい」
今度はこちらから頭を下げる。
すぐに顔を上げれば、燭台切さんはとてもとてもホッとしたような、それでいて泣きそうな、そんな顔をされていた。
→[
back]