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耳を塞ぎたくなる声


 毎日必ず聞こえる、碧を誹謗する囁き。耳にする度に眉間に皺を寄せるが、碧本人はほとんど気にする様子も無く、まさか気付いていないのではないだろうかとも思った。しかしそんなはずは、やはり無かった。


 耳を塞ぎたくなる声



「…………最近、多いなぁ……」
「? 何がだ」
「……陰口」
「……」

 気にしていたのか。今まで一度だってその事を話題に出したことは無かったのに。唐突に切り出したと言うことは、少なからず気にしていて、それが限界近くなっているということだろうか。それとも、聞かないようにしていても、耳に入ってしまうほど数が多くなっているということだろうか。

「…………耳栓でも買おうかな……」
「……完全に授業聞く気ないな」
「うん……」

 階段の一番上の端に座って、弁当を持って来たものの広げもしない。そんな碧を少し心配に思いながら、隣でおにぎりを一口頬張る。家でもこの調子なのだろうか。だとしたらカロリー摂取用のゼリーなんかでも良いから食べた方が良い。

「……寝てれば聞こえないんだけど、なんかあれから先生に目を付けられてるみたいで寝にくいし……」
「……そりゃ、あんだけ頻繁に寝てればな」
「……んー……」
「……」

 弁当は横に置いて、揃えた膝の上で手を結ぶ。あまり食べないせいだろうか、こいつの腕は細い。指も手も手首も細い。はっきり言って健康体の細さじゃない。初めて喋ったあの日から、あれ以上自身の身の上は話さないから、何があって今こんなことになっているのかは知らない。俯き加減の碧は、自分の細い手をぼんやりと見ている。

「…………も、ガッコ来たくないな……」
「! 来ないのか……?」
「あ、……それじゃサスケ君にも会えないか……」

 へら、と無理に笑って、また俯いた。ヤバい、重症だ。今までそんなことを言い出したことは無かった。何とかしないと、本当に学校に来なくなるだろう。それは嫌だ、またどちらも独りになってしまう。

「……教師に言うか? 薄々にくらい気付いてるだろ」
「……ぅー……でもそんなことしたら……余計酷くなるかも」
「けどこのままにするわけにも……」
「…………やっぱり耳栓、買おう……」
「……」

 最近は親しくなったからか、ある程度声が聞き取り易くなっていた。しかし今は、初めて話した時のように小さくぼそぼそと喋る。かなりダメージが溜まっているようだ。
 何とかしてやれないか、と色々考えるものの、思い付かず、取り敢えず撫でてやるしかできない。俺は無力だ。

「……ありがと、サスケ君……」
「……悪い、何もしてやれなくて……」
「ううん、ちょっと元気貰ったよ」
「……」
「……そんな顔しないで。……ね、お願い……」

 さっきよりも不自然さの減った笑顔で、そう言う。それに勇気づけられるようにして、無理矢理表情を変えた。
 碧が作り笑いをする時は、いつもこんな気持ちなのだろうか。辛い。それから、少し苦しい。

 また頭を撫でてやり、茶を飲むらしいから手を退けた。しばらくしたらまた教室に戻らなければならないことが、酷く億劫で、嫌だと思った。





 午前に続き、教室での授業。一番後ろの席だから、碧の前の席の奴らが何か話しているのがよく見えた。あんなに近くで、また誹謗だろうか。碧は体を伏せて、窓に顔を向けていた。少し身動ぎして耳を隠すように体勢を変えるのを見て、何かを囁いている二人を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。奥歯をギッと食いしばって、鉛筆を持った手をギッと強く握って、鉛筆が折れそうにキシキシと悲鳴を上げるのにも気付かないで、それを我慢した。

 本当は我慢なんかしたくない。授業中だろうと何だろうと、いつだって殴り飛ばしに行きたい。教師が止めるから何だ、誰かに嫌われたって何だ、あいつを助けてやるのに代償が要るなら払ってやる。でもあいつがそれを望まないなら、不本意でも我慢する。

「……クソッ……」

 隣の席の奴が不思議そうに一瞬こちらを見たが、気にしない。

 どうしてあの教師は今この瞬間にも起きている暴力に気が付かない! どうして俺にはあいつを助ける術が無いんだ! 悔しい……悔しくて堪らない……!

 不意に碧が体を起こし、教卓の前で授業を進める教師に目を向けた。どうしたのかと思う前に碧が手を上げ、教師を呼んだ。しかし一度目は声が小さ過ぎて届かない。再度試みるが、やはり聞こえていない。それを見兼ねて、手を貸してやる。

「先生、……桜庭が呼んでる」
「ん? おぉ、すまんサスケ。で、どうしたんだ」

 碧は少し驚いたような顔をして、一瞬こちらを見た。しかしイルカが質問したので答えるためにまた前を向く。
 ここで下の名前で呼んだりすれば、変な勘繰りをする奴が居るかも知れない。そう思って苗字で呼んだことに驚いたのか、それともこの状況で俺が助け船を出したことが意外だったのかは分からない。
 俺だって助けてやりたいと思う、本当はもっと助けたい。なのに、やっとでこれだけの助けしかできないなんて。

「えっと……気分が優れないので、保健室に行っても良いですか……」
「……またサボる気じゃないだろうな」
「……そう見えますか?」

 少なくとも俺には嘘を言っているようには見えない。教師の方も一応聞いてみただけで、すぐに申し出に許可を出した。ストレスが身体に来たのだろうか。付いて行ってやりたいが、それは後々を考えると逆に迷惑だろう。
 ぐっと堪えて、碧が後ろのドアへ歩くのを振り返らない。

「どうせ仮病でしょ?」
「気味悪い上にサボり魔なんて、最低よねー」
「……っ!」

 俺の目の前の席から、小声でそう聞こえた。思わず見開いた目、殺気まで俄かに湧いた。怒鳴るのを息を止めて押さえ、殴るのを鉛筆が折れることで押し止どめた。眉間の皺はどうしても取れず、隣の奴が折れた鉛筆を気にするのも無視して、前の女たちを睨まないように取り敢えず黒板を見た。食いしばり過ぎた歯列からは、血が滲み出ている。イルカが一瞬ちらりとこちらを見たのに気付き、目を逸らした。

 女子の陰口は今まで少なかったのに、急に増えた気がする。この間二人一緒にサボったのが何か関係しているのかも知れない。妬み嫉みの恨みなら、あいつに向けるな。そんな自分勝手な感情をもろにぶつけては、傷付いてしまうだろう。ただでさえ脆いように見えるのに。

 どうして皆 あいつを責めるんだ。
 あいつが何をしたんだよ。
 あいつに何をしたいんだ。
 追い詰めるような真似だけは、しないでやってくれよ……!

 祈るように願う。
 今はそれしか、してやれない。




 授業が終わって放課後になったけれど、碧は戻って来なかった。碧の席には授業中に出したままの筆記用具類と、鞄が残っている。
 他の生徒たちが好き好きに去っていく中、俺はいつも通り荷物を放ったまま演習場へ向かう。本当は真っ直ぐ保健室へ行きたい。だが周りにはいくつもこちらを見る目が有る。そんな状態で健康体が保健室に行っては、怪しまれることは明らかだ。

「今日も頑張ってね、サスケくん!」
「気を付けてねーっ!」
「応援してるから!!」

 違う。
 俺が聞きたいのはお前らの声じゃない。
 今お前らに傷付けられて参ってしまってる、碧の声が聞きたいんだ。
 あいつの笑顔が見たいんだ。
 テメエらのなんかじゃない!

「サスケく……」
「うるせえ!!」
「!」
「鬱陶しいんだよ、付いて来るな!」
「、……」

 周りがしんと静まり返る。その中をドカドカと歩き、廊下の角を曲がると誰かに突き当たった。小さく謝罪すると直ぐ、立ち去ろうと足を動かす。顔も背格好も目に入らない。

「ちょっと待て、サスケ」
「! ……」

 急に呼び止められて振り返れば、そこには担任の教師の姿があった。ぶつかったのはイルカだった。さっき叫んだのが耳に入ったのだろう。気まずい。

「……何だ」
「どうしたんだ、お前らしくもない」
「……」
「そんなんじゃ、嫌われちまうぞ?」
「……どうでも良い」

 何を言いたいのかよく分からない。重要なことが無いなら、とまた足を進める。すると慌てたように再び呼び止め、話し始める。廊下で教師と俺が立ち話をするのが珍しいのか、近くを過ぎる生徒がこちらを見ながら去っていく。

「サスケ、オレもそこまで抜けちゃいない。……ちゃーんと気付いてるぞ」
「! ……何に」
「そうだな……ここじゃ話し辛い、保健室に行くか」
「……」

 イルカはニカッと笑うと、俺の背をトントンと叩き、促した。教師なんかと一緒に行っては余計に目立つと思うが、他にそこへ向かうタイミングが有るとは限らない。口振りからいって、本当に気付いているようだ。それに少しほっとしながら、促されるまま階段を降りた。



 イルカがドアをノックして、横に滑らせた。中は全体に白で統一されていて清潔感を感じる。一回り首を巡らせると、カーテンの隙間からベッドの上に誰かが横たわっているのが見えた。碧だ。

「!」
「はいはい、誰が来たのー? あぁ、先生」
「はは、どうも」

 大人二人が話す間に、俺はベッドへ近寄る。カーテンを掻き分け、見付けて、こちらに背を向けて寝ている碧を見詰める。碧はゆっくりと体をこちらに向け直し、ぼんやりした眼をしたまま髪をちょいちょいと直した。近くにあった椅子に座り、気遣いながら碧を窺う。

「……サスケ君……」
「……起こしたか?」

 ふるふると首を振る。するとここでさえ安眠できないということか。碧は徐に体を起こし、抱き締めていた掛け布団を膝の上に置いた。

「サスケ君、いつもの修業は……?」
「……すぐ来ると怪しまれるからよそうと思ったんだが、イルカに連れて来られた」
「……誰だっけ、……“イルカ”って……」
「……担任」
「あ、あー……そっかそっか」

 えへ、と苦笑して、頬を掻いた。まさか担任の名前まで覚えていないとは。そこまで来ると興味とか以前の問題になってくる。誰が何を話していようが取り敢えず聞かないようにしなければ、そこまではいかないだろう。

「……大丈夫なのか?」
「うん、ちょっと落ち着いた」
「眠れたか?」
「家よりは……ね。机で寝るより寝心地は良いし」
「そりゃそうだ」

 綻ぶ表情にほっとして、少し気持ちも緩む。
 そこで大人の話も終わったらしく、イルカがカーテンの隙間から顔を覗かせた。碧はそれに驚いて、俯いて膝の上の自分の手を見る。

「調子、どうだ?」
「……」
「……碧、お前のことだぞ」
「えっ、あ、……すみません……」

 やはり慣れていないと咄嗟に返事ができないらしい。じっと観察するように見るイルカに対して一枚の壁を作っているようにも見える。いや、イルカに限らず他の人間に対して少なくとも一枚、壁を置いている気がする。(その中に俺も含まれているのが悲しい)

「……調子は……そんなに良くはないけど、さっきより大分マシです」
「そうか。それなら話もできそうだな」
「……?」
「……」

 本当にここで話をするつもりらしい。せめて、もう少しくらい落ち着いてからでも良いと思うのだが。しかしこのまま放っておいても事態は好転しそうにない。ならばなるべく早く、ということだろうか。
 近くにあるもう一つの椅子に座って、イルカは重々しく口を開いた。

「話ってのは他でもない、お前と他の生徒たちの間での心配事についてだ」

 単刀直入に、けれど少し間接的に、用件を述べた。

「……やっぱり気付いてましたか……」
「オレだって忍だからな、それなりに物事は見てるんだよ」

 舐められてるな、と苦笑して、イルカは頭を掻いた。こほんと咳払いをしてまた口を開く。

「それからサスケ、心配するのは良いが、殺気はいかんぞ、殺気は」
「……」
「……殺気……?」
「ああ、そりゃあ凄い形相でな、目の前で話してた女子を睨んでたよ」
「……へぇ……」

 相手が気付かなかったから良いようなものの、と零すイルカを横に、碧は目をぱちくりさせながら感心している。少しすると照れたように顔を下げた。嬉しそうだ。こっちも少し頬が緩む。

「……そんな顔もできるんだな、お前ら」
「! 、……」
「……」
「おいおい、隠すこたあないだろう」

 二人して、言われた瞬間に表情を変えた。またも苦笑するイルカだが、どこか喜んでいるようにも見える。

「……仲良しだな、お前ら」
「!」
「!」

 その発言に、顔が少し紅潮するのが分かった。碧も同じく頬や耳が赤くて、恥ずかしさからか更に俯いている。

「話が逸れてるぞ、イルカ!」
「はは、呼び捨てか……。威厳無いのかなぁ、オレって」
「おい……!」
「そんなに怒ることじゃないだろう」

 笑いながら、宥めようと頭に手を置いた。ガキ扱いされたのが嫌で、直ぐにその手を払う。また苦笑しながら、椅子に座り直し、今度はやや真面目な表情になる。ようやく本題か、と小さく溜息を吐く。

「……桜庭、お前はこの状況をどう変えたい?」
「……ストレスを溜めることなく教室で眠れるようにしたいです」
「おいおい……。まあ良い、陰口は嫌なんだよな?」
「当たり前ですよ……」

 イルカの方は見ないで、俯いて布団を見たまま答える。髪が横から垂れていて、表情は見え難い。少なくとも良い表情でないことは確かだ。布団の上に載せた手は軽く握られていて、そこを中心に皺が広がっている。

「あたしは一人で居ただけなのに……何で陰口なんか言われなきゃいけないのか……」
「……」
「家に帰って独りぼっちなんてことない癖に……頭ぼけてるんじゃないのかな、優しい家族に囲まれてさ、……」
「……碧」
「っ、…………言い過ぎたかな……」

 緩くかぶりを振る。間違っちゃいない。
 碧の本音は、キツい言い方ではあるが、何一つ間違ってはいなかった。少なくとも俺はそう思う。イルカも少し渋い顔をしてはいたが、否定の言葉は結局一つも言わなかった。

「……遊んで、ふざけてるつもりなんだよ、あいつらは」
「……そんな軽い気持ちだからこそ、……余計頭に来るんですよ」
「……」
「……許してやれないか?」
「許すって……!」
「そうでなければ、戯言だって聞き流せないか?」
「……できればそうしてる。現にしてきましたよ、あたしは……」
「、……そうか」

 わざと敬語にすることで、余計に棘があるように感じる。手は更にキツく握られていて、ただでさえ白い手がもっと白くなっていた。

「……みんな……居なくなっちゃえば、良いんだ……」
「!」
「……」

 イルカが、驚いた顔をして、眉を八の字に寄せた。困ったような、悲しいような、どちらものような。きっと俺も似たような表情になっているだろう。
 『みんな居なくなった』過去が、一瞬にして脳裏に蘇った。
 それを抑えるため、少し目を閉じる。開いても、まだ残影があった。

 軽く拳を作って、碧の頭を一度軽く叩く。ビクッとして、おずおずと顔を上げる間、拳は頭の上に置いたまま。

「……」
「……ごめん、なさい……」
「……」

 拳を開いて、少しだけ頭を撫でる。

 そう思うことが悪いことだとは言わない。思わせているのは、アイツらなのだから。だからと言って、思い続けて良いことでもない。仮にもしそうなったならば、哀しむ人間が生まれるのは目に見えているから。その辛い気持ちは、お前も充分に分かっているはずだ。

「……碧、……逃げたいなら、逃げたって良いんだ」
「! ……」
「怖いなら怖いって叫べ。嫌なら嫌って言え」
「……」
「直接相手に言えないなら、俺に言え」
「! ……サスケ、君……」
「……そうすりゃ少しは楽に、……!」

 そう話していると急に、碧の目から涙がほとほとと零れ始めた。もう何度目かだから俺は割と冷静だが、イルカは慌てふためいて何か言っている。手で拭う間にも撫で続け、なるべく優しく待ってやる。本当ならその涙は俺が拭ってやりたいのだけど。

「ご、ごめん、……いちいち泣いて……」
「……気にしてない。泣いとけ」
「ぅっく、……んーん、止める……」
「……無理すんなよ」
「うん、ありがと……」

 久しぶりに見た気がする本物の笑顔。目を細めてポンポンとあやすように撫で、碧が拭いそこねた一筋の涙を指で掬う。
 なにやら呆然とするイルカにちらりと目をやれば、照れたように苦笑して鼻の頭を掻いた。

「……んだよ」
「はは、……なんか、ホントの恋人同士みたいだな、と思ってな……ははは」
「!」
「!」
「ぅ、……ぁ……えうぅ……」
「え、……まさかホントにか……?」

 火が出そうなほど真っ赤になった碧を見て、イルカは心底意外そうに言った。さっき気付いてたんじゃなかったのか、アンタ。『仲良し』って、友達としてだと思ってたのか。心外だ。

「……そうじゃなきゃこんなことしねえよ」
「まあ、そうだろうな……。はは」
「……サ、サスケ君、そんな堂々と……」
「こいつにくらい大丈夫だろ」
「そゆ問題じゃなくて、……恥ずかしいのっ」
「あぁ……」
「“こいつ”は無いだろう、サスケ……」

 気付けば碧の涙は止まっていて、恥ずかしそうに上目遣いでこちらを窺っている。その表情に思わず動悸を速めながら、同時にほっと安心する。話は大幅にずれているが、まあ良いだろう。それを元に戻すようにイルカが口を開く。

「オレがどうにかできれば、お前らにそんな思いをさせずに済むんだけどな」
「……むしろ、今まで何もしてくれなくてありがとうございます、です……」
「……」
「弱いと思われたくは、なかったので……。あ、実際弱いですけど……」
「……そうか」
「先生やサスケ君の口からあたしを庇うようなこと言うと、確実に逆恨みにあいますしね……」

 乾いた苦笑を零して、膝の上で手を組みそれを見詰めた。さっきまでよりは憂いや悲しみが減っているように見える。少しでも元気が戻ったなら、良かった。

「……なるべく我慢はするが、俺がキレた時は止めるなよ」
「えっ、だ、ダメだよそれはっ……止めるよ流石に」
「止めんなよ」
「ぅ、うー……」

 困ったように唸りながらも、表情からは僅かに喜びも読み取れる。なかなか器用なことをする。
 ホントに可愛いやつだな、こいつは。

「あー、……ごほん。じゃあオレは職員室に戻るからな。早めに帰れよ」
「あ、はい……ありがとうございました、わざわざ……」
「何言ってんだ、オレはお前らの先生なんだぞ! これくらい何度だってしてやるさ」

 ニカッと優しく笑うと、イルカは立ち上がって出口へ行ってしまった。
 どうやら気を使わせてしまったらしい。仮にも教師に。元々気の良い人間だとは思っていたが、生徒にまでそんな気は使わなくて良いと思う。が、有難い。

「な、なんか……悪いことしちゃったかな……」
「大丈夫だろ。……まあ、もう一人居るけどな」
「え、あ、保険医さん……」

 保険医はずっとこの部屋に居たから、もちろん一部始終を全て聞いていた訳だ。その気配はギクッとでも効果音が付きそうな緊張をして、あわよくば生徒の恋路を見守ろうという計画を白紙にした。そこで気付いたように保険医が声を掛ける。

「そうだ、一応言っておいた方が良いね、彼氏くんに」
「っ……」
「……?」
「桜庭さん、胃にきたみたいで、吐いちゃったのよ」
「! ホントか?」
「……うん」
「何で言わなかった……!」

 保険医の言葉に思わず顔を険しくし、碧に問いを投げ付ける。少し乱暴な質問に怯えた様子を見せながら、小さな声で謝った。

「……ごめん……。でも、……言っても心配させるだけだから……」
「だからって隠すな、そういうことは! 吐いたって、そんなに辛かったなら、どうしてもっと早く言わなかったんだ……!」
「……、……ごめんなさい……」

 小さく身を縮めて、怒る俺との間に壁を作る。距離を置かれているのが悲しくて、悔しくて、怒りが生まれる。頼りにして欲しいのに、どんなに言っても一定の距離を保たれる。言われて嬉しくても、実際そうやって頼ろうとは思ってくれないのか、お前は。

「確かに俺は、……傍に居るくらいしかできない。……助けてやれてない。けど、……心配くらい、させてくれよ……」
「! ……、」
「……俺は、……何なんだよ」
「……っ……」
「はい、落ち着こうねー。特に彼氏くん」

 突然割って入った保険医の言葉に、驚いて顔を上げる。いつの間にか俯いてしまっていた。ふくよかな体の保険医は、少し強めに俺の肩を叩いて、碧を見るよう顎で示した。碧は再び泣きそうな顔になっていた。あ、と口から零して、少し冷静になり罪悪感を感じた。
 俺が、こんな顔にさせたのか。

「……」
「彼氏くんはもう少し乙女心を理解する必要があるみたいねぇ」
「……?」

 保険医は少々荒っぽく碧の頭を撫で、次いでぽすんと軽く叩いて碧に自分を見るように誘導した。視線が合いそうで合わないが、碧の気持ちを和らげるようににっこりと笑った。

「そんな、“吐いた”なんて好きな男の子に向かって言えるわけないでしょうに」
「……どうして」
「そりゃ恥ずかしいからよぉ。吐くなんて、汚いことだもの」
「…………それだけか?」
「“それだけ”なんて問題じゃないの。女の子にはね」
「……」

 本当なのか、と碧を見れば、頬に朱色を滲ませて恥ずかしそうに俯いていた。保険医の言う通りらしい。汚いだとか、俺はそんなこと気にしないのに、碧は違っていた。

「好きな人に汚いやつだって思われたくない、嫌われたらどうしよう、……ってことなのよ」
「……そう、なのか……」
「まだまだねぇ、彼氏くんも」
「……」

 碧が一度も保険医の言葉を否定しないところから、本当にそうらしいことが分かった。女の気持ちなんて一つも考えたことがなかったから、そんな些細なことを大事件だと捉えるなんて知らなかった。

「……そんなに怒るなんて、思わなかったから、……恥ずかしかったし、……嫌われたらヤだったから、言えなかった、の……」
「それくらいで嫌うわけない。……ただ、心配するだけだ」
「……うん……もう、分かった。今度からはちゃんと、言う。恥ずかしいけど……」
「ああ……」

 なんだ、頼りたくないわけじゃなかったのか。
 距離を置かれたわけじゃなかったのか。
 ただ、恥ずかしいだけだったのか。
 酷く安堵して、小さく溜息を吐いた。

 自分の不安で碧を怖がらせてしまったことを詫びるが、碧は直ぐに首を横に振った。保険医は微笑むと事務机に戻り、パイプ椅子に座った。安堵しながら、碧と少し笑い合った。

「さあさ、そろそろ元気になったでしょ! 元気な人はお手手繋いでお帰り下さいませ!」

 保険医のその言葉に逆らわず、碧と二人で保健室を出た。すっかり夕方になっていて、やはり校内に生徒の姿は少なかった。これから修業する気にはなれず、教室に荷物を取りに戻る。
 そして保険医に言われた通り、碧と一緒に帰ることにした。初めて話した日以来の、二度目だ。本当は止した方が良いのだろうが、いつまでも人の目を気にしていてもきりがない。

 せめて、手を繋ぐくらいはしたかったのだ。



(20080112)


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