敗北者の末路2


 辞表は滞りなく受理された。

 退職の日。久々に出社するビルの中を一人で歩む。部署の誰にも会いたくないから、通常の出勤時間より1時間も前に出社した。
 荷物もまとめて車に積み込んだし、上司達への挨拶も済ませた。最後に交わした彼らとの会話は、お世辞にも感動的なものとは言い難い。でも、この先もう会うこともない連中だ。どんな罵倒を浴びせられようが嫌味を言われようが構わなかった。

 退院後はすぐ会社に出向き、不貞行為について謝罪した。上司から不当な扱いを受けていたことも訴えてみたけれど、案の定聞き入れてはくれなかった。枕なんてやっていた奴の言い分なんて信用できないと思われたのか、パワハラの実態を知っていながら、その事実を握り潰そうとしたのか。それはわからないけれど。

 たとえ上司からパワハラを受けていようが、不当な扱いを理由に枕をやっていいはずがない。枕をしたのは上司からの指示ではなく、自分の意思だ。だから不貞行為に関しては100%私が悪いし、私の訴えが信用できないと判断した会社の返答も、少しは理解はできた。

 昔から、上司のパワハラはよく聞く話だ。そして従業員から相談があった場合、会社側は事実関係を調査しなければならない義務がある。その上で事実が認められたなら、会社側に措置が取られる。
 けれど実際は措置どころか、事実調査がされた例はほとんどない。これが現実だ。パワハラの有無は関係なく、無かったものとして処理されてしまうのは珍しい事でも何でもない。

 けれどそんなこと、もうどうでもいい。
 どうでもよくなった。
 会社に見切りをつけた以上、この会社は私の中で無意味な存在になったから。今日を最後に出社しなくてもいいんだと思えば、喜びこそはないけれど安心感はあった。

 そして、秋山のこと。

 アイツから受けた陵辱に関しては、はなから無かったものとされている。私の口からは言いたくないし、秋山が自ら暴露するはずがない。
 私が不貞行為を働いていた事と、秋山から犯された事は別問題だ。だから秋山は、私の不正を上に報告する義務はあっても自分が犯した事まで報せる必要はない。だから会社側は何も知らないし、秋山は何の処分も受けない。

 秋山が私に施した陵辱の数々。私だけが処分を受けて、秋山だけが非難されずにのうのうと生きていく。不満がない訳じゃないけれど、私は文句を言える立場じゃないし、同期から乱暴されたことを母親に知られないで済むのは有り難かった。
 それに会社を去る身としては、秋山のことも「どうでもいい」存在になっていた。

 そんな秋山と、帰り際に廊下で鉢合わせた。

 会うのはホテルで乱暴されて以来だ。私は退職の日まで自宅謹慎中だったから、秋山と顔を合わせる機会がないまま今日を迎えた。このまま会わずに済めばいいと思っていたのに、まさか最後の最後で鉢合わせることになるなんて。神様も粋なことしてくれるじゃない。

 窓の外に視線をずらせば、ちらほらと早出社員の姿が見える。秋山もそのうちの一人なんだろう、分厚いコートを腕に抱えたまま、男はゆっくり顔を上げた。その瞳が私の姿を映し出す。

「………」

 秋山は何も言わず私を見つめている。その鋭い眼差しから目を逸らした。もう、話す必要もない相手に構うことなんかない。足を止めずに歩を進め、そのまま通りすぎた直後。

「おい」
「……なによ」

 秋山に背を向けたまま立ち止まる。背後で男が振り返ったのを気配で感じ取った。

「……辞めるのか」
「今日付けでね」

 わかってるくせに、わざわざ訊いてくるあたりウザったい。「お世話になりました」の一言でも言えっていうのか。言わねえよ。

「……吉岡、」

 覇気の無い声に違和感を覚えたのは、その時で。振り向いた先にいた男は、表情を曇らせながらその場に立ち尽くしていた。
 あの日、私を罵倒しながら陵辱した人物とは思えない程に弱々しい態度。気まずそうに顔を歪めながら、何も言葉を発しようとしない様子に眉を寄せる。まさかコイツ、私があの夜の事を訴えるかもしれないって恐れているんだろうか。

「心配しなくても、アンタのしたことは誰にも言わないから安心してよ」

 そもそも、誰に訴えるって言うんだ。
 上層部の人間が私の言い分を信じるはずがない。警察に訴えることもできるけど、秋山と共にホテルに入ったのは私の意思だ。強制連行された訳じゃないのに、婦女暴行として訴えるにはいささか主張が弱すぎる。

「……恨んでないのかよ」
「私が? 誰を」
「俺を」
「………」

 ……コイツは何が言いたいんだろう。このしおらしい態度は何事だよ。普段の暴君ぶりはどうした。
 まさか、あんな最低な行為をしておいて今更後悔しているとでも言いたいのか。本当に今更だ。

「恨んでないよ」
「嘘つけよ」
「嘘じゃないよ」
「なんで、」
「どうでもいいから」

 淡々と言い切った私に、秋山の表情が凍りついた。

「……どうでもいい、って、お前……」
「私にとってアンタはもう、どうでもいい人間なの。道端に転がってる小石と一緒。あの日のことも、別にもう、どうでもいいから」

 今までずっと、秋山が嫌いだった。どこにぶつけていいのかわからない不満を、コイツを妬むことで自己完結させてきた。けれど会社をクビになったことで不満が消化できた今、秋山は私にとって妬む対象でも羨む存在でもなくなった。ただの他人に成り下がったんだ。
 あの日の夜の事も、完全に許した訳じゃない。忘れることもできない。けれどもう、この男とは二度と会うことはない。そう思えてしまえば、あの日のことも一夜の過ちだったと割り切れる。私は、それができる人間だった。

 昔から私はこうなんだ。人にも物にも執着心がなくて、「どうでもいい」と割り切れてしまう。クールだと言えば聞こえはいいけれど、ただ単に無関心で、冷めた一面を持っているだけだ。それでも上司のパワハラには「どうでもいい」で割り切れなかったけど。

 それに私には、秋山を恨めない理由がもうひとつある。それは母親の存在だ。どんな理由があろうとも、私が誰かを恨むなんて母親はきっと望んでいないから。
 「こんな風にさせる為に育てたんじゃない」、そう言われた時、心臓を抉られたような痛みが走った。
 もう二度と、あんな悲しい台詞を母親に言わせない。母親が悲しむような生き方は、もう絶対にしないって決めたんだ。
 ……だから恨まないよ。

「……あ、そうだ。もう会うこともないだろうから、一応言っとくけど」

 下の階が賑わってきた。出社してくる人達が増えてきたんだろう。あまり長居はできない。
 だから最後に、この男に教えてあげないと。この先、私みたいな被害者女性が増えないために。

「アンタさ、玩具の使い方下手すぎ」
「……え」
「ああいう類いのモノ、今まで扱ったことないでしょ? あれはね、ガツガツやればいいってもんじゃないの。あんなに乱暴な使い方したらすぐに壊れるし、女の身体を傷つけるわよ。私みたいに」
「………」
「ヤるならもっと経験積んで腕磨きな。じゃあね」

 それだけ言い残して前を向き直す。秋山の顔はずっと曇ったままで、結局アイツが何を言いたかったのかはわからなかった。
 けど、わからないままでいい。どうでもいい。
 だってもう、会うこともないんだから。

 どうでもいいのよ。お前なんか。

mae表紙tugi



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