敗北者の末路1


 セミナーで誰かが言っていた。ビジネスは競争だ、と。
 特に営業職は、業績と営業成績が数字としてはっきり現れる世界。他の職種に比べても競争意識が高く、互いに競い合わせることが社員のモチベーションに繋がる。ようは同期だろうと目上の先輩だろうと、数字で相手を出し抜けと。そう言っていた。
 でもそれは成功者の言葉であって、私達の心には何も響かない。成功者の発言は神のごとく崇められ、その裏では存外に扱われている者がいる。勿論そんな会社ばかりじゃないけれど、少なくとも私は、そんな世界しか知らない。

 競争は他人との比較だ。社員を競わせ、目先の勝ち負けだけに拘らせてライバル心を煽る。それを『切磋琢磨』だと言うのなら勘違いも甚だしい。
 そんな陳腐なやり方でしか社員の意欲を高められないのなら、顧客を獲得できないのなら、経済を回せないのなら、私達は全員人間をやめたらいいんじゃないかと思う。競わせることで妬みや僻みという感情を作り出し、営業成績の格差が憎しみの連鎖を生み出している。そんな組織の下に所属していれば、心が疲弊していくのも当然だ。

 ……くだらない。全部。



・・・



「……ん……」

 夢の底からふわりと舞い上がる意識。重い目蓋をうっすら開けた時、柔らかな光と白い天井が目に映る。視界が開けてくると同時に聴覚や嗅覚も鮮明になり、消毒液の臭いが鼻に付いた。
 顔を動かせば、見えたのは点滴の連結管。そこで、ここが病院だという事実にたどり着いた。

 病室内は静かだ。看護婦の姿もなく、他の患者のベッドも存在しない。殺風景な個室部屋の中、ひとつの気配がせわしなく動いていた。

 目を凝らした先に、誰かいる。
 カチャ、と静かな物音が聞こえてきて、サイドテーブルに置いた花瓶に花を生けている様子が見えた。

「……お母さん」

 掠れた声で呼ぶ。瞬間、ビクッと肩を震わせて、母親は勢いよくベッドを振り向いた。
 目が合った瞬間、表情がぱあっと明るいものに変わる。

「沙綾っ、」

 ベッドに駆け寄ろうとした途端、母親の肘が花瓶に運悪く当たってしまった。傾いた花瓶はガチャン! と派手な音を立てて倒れてしまう。

「あらっ!?」

 落ちた拍子に零れた水が、床に滴り落ちて水溜まりを作り出す。
 けれど母親は揺るがなかった。水浸しのままの花瓶を放置し、私の元へ一目散に駆け寄ってきた。

 ……放っておいていいのか、あれ。

「よかった〜。目が覚めたのね」
「うん」
「待っててねっ、お母さん看護婦さん呼んでくるから、っわ!?」

 今度は床の水溜まりで滑っていた。

「……ナースコールで呼べば?」

 ……相変わらずだな、この母親は。





 その後は病室を訪れた医師の問診が始まり、私が3日間も昏睡状態だったことを聞かされた。ホテルで気を失ってからの記憶はなく、数日間も眠り続けていたという事実に驚きを隠せない。救急搬送された時には既に意識がなくて、40度以上の発熱が続いていたことも聞かされた。
 急な発熱と喉の痛みの原因は急性咽頭炎。そう診断されたけど、医師の表情はまだ固い。血液検査の結果があまり良くなかったようで、過労による貧血の兆候が見られるとの事。絶対安静という指示と、数日間の入院検査を勧められた。
 検査なんて大袈裟だと思うけれど、3日間も眠り込んでいた要因がはっきりとわからない以上、医師の判断に従う他ない。どっちにしても、喉を酷使したことが倒れた原因のひとつであることは理解できた。声帯の異常は営業職の人間が起こしやすい症状のひとつだと聞くし、更に私は枕をやっていたことで体に負担を掛けすぎていた。その結果が咽頭炎なんだから笑ってしまう。
 結局私のやっていたことは、自分を苦しめるだけの結果しか残らなかった。

「……大丈夫?」

 夕暮れで紅く染まり始めた空間。医師が去った後の病室は、元の静けさを取り戻していた。
 パイプ椅子に腰を下ろし、冷えきっている私の手をぎゅっと握りしめた母親は、優しく労るように私に語り掛ける。

「入院が長引きそうなら、また準備しなくちゃね。着替えとタオルと、洗面道具も色々必要だし。あ、あと充電器もかな? 色々買い込んでおかなきゃ」
「……ん。迷惑かけてごめんね」

 熱もかなり下がったし、声もちゃんと出るようになった。喉に違和感も感じない。血液検査の数値も、あまり良くなかったとはいえ過度に不安がる必要はないらしい。安静にしていればすぐに退院できると医師は言った。
 それでも母親の表情は不安そうで、ただ単に、私の体調のことを心配しているだけではなさそうだ。それはそうだろう。自分の娘が過労で倒れる程の状態に陥るなんて、親なら黙っていられないはずだ。

「……もう、辞めていいのよ。今の会社」

 訴え掛けるように告げた声は、私を非難しているような響きはない。手を包み込む優しい体温は、傷ついた私の心に優しい光を灯す。

「……こんなにボロボロになって」

 悲痛そうな声が耳に届く。
 溢れ出しそうな涙を隠すように俯いて、肩を小さく震わせる母親の姿に胸が痛んだ。

「こんな風にさせる為に育ててきたんじゃないのに……っ」

 静かな室内に、母親のすすり泣く声が響き渡る。いつだって私に優しくて、どんな時でも絶対に私の味方でいてくれた、そんな人にこんな悲しい台詞を言わせてしまったことが辛い。

 私が眠り続けていた間、母親は会社側から、私に不貞行為があったことを聞いたはずだ。秋山を通じて上層部に報告が届いている筈だし、部署内でも私のことは問題になっているだろう。既に解雇通告もされたかもしれない。秋山の言う通り、これは自業自得なのだから当然の報いだ。
 けれど母親の考えは違った。不貞行為をしていた私が悪いのは当然だけど、社員をそんな風に育てた会社側には何の罪もないのか。成績の良し悪しだけで社員を蔑み、給料泥棒だという烙印を押され、差別を煽る発言をして部署の晒し者に吊し上げた、そんな職場環境に身を置かざるを得なかった人だけを責めるのはおかしいというのが母親の主張だった。それが自分の娘なら、庇いたいと思うのも親心だ。

「……ごめん、お母さん。応援してくれてたのに」

 私は直接、会社の不満を母親にぶつけたことはない。営業成績が悪いことも、上司から酷い扱いを受けていることも、枕をやっていることも知られたくなかったし心配させたくもなかったから。
 でも、さすがは母親というべきか。私が会社の待遇の悪さに傷つけられていることも辞めたいと思っていることも、母親は薄々感づいていたみたいだ。だから一言も私を責めずに『辞めてもいいよ』と逃げ道を与えてくれた。
 誰にも理解してもらえなかった辛い気持ちを、ちゃんと理解してくれる人がいる。母親の想いが、私の心を救ってくれた。

「……家に帰ってきたら? 今のあなたには休養が必要だと思うの」

 涙を拭いながら、お母さんが私に微笑み掛けてくれる。その穏やかな笑みにつられるように、私も笑った。

「……そうだね。そうしようかな」

 親の元から離れて1人暮らしを始めたのは、今の会社に入社した頃。その頃は休日になれば実家に帰ることも多かったけど、今ではそんな余裕すらなかった。休日となればクライアントの性接待に付き合わされることも多く、実家に帰るなんて到底無理な話。母親とはよく連絡を取り合っていたけれど、こうして顔を合わせるのは、実のところ久々だ。

 今の会社を辞めて実家に帰る。そんな考えは何度も脳裏を掠めたけど、実際は辞めることなんて出来なかった。母親が落胆する顔を見たくなかったからだ。
 けれどもう、我慢する必要はなくなった。
 会社に居続ける理由もなくなった今、会社の呪縛から解き放たれたような気がする。

 やっと私は、自由の身になれるんだ。

mae表紙tugi



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