運命、あるいは絶望1



 ───人の不幸を、自分の思い通りにならない事を、全て「運命」なんて言葉で片付けられてしまうのなら。
 生まれた瞬間から決められていた定めなんだとしたら、私達が生きていく意味なんて、最初から何処にも無いのにね。





「お母さん、今日帰り遅いんだっけ?」

 玄関まで見送りに向かえば、母親が振り返って私を見上げて頷いた。引戸の取っ手を掴み、今まさに飛び出していこうとする華奢な背中を呼び止める。

「町内会の集まり?」
「ううん、今日は婦人会の集まりなの。帰りは7時過ぎになりそうだから、お腹が空いたら先に食べちゃって?」

 母親は数年、地元のスーパーで働いている。私が幼い頃は専業主婦だったけど、父親と離婚してからはパートで働き始めた。生活費を稼ぐために。
 離婚したといっても、父親との仲は悪くない。もともと幼馴染みだった2人は、休日になれば、今でも一緒に出掛けることもあるくらい仲がいい。私自身も父親と連絡を取り合ったりするし、3人で夕飯を共にすることもある。
 どうして離婚したのか毎度首を傾げるけれど、私にはわからない2人の事情があるんだろう。個人的には再婚してほしい気持ちもあるけれど、2人にはそんな意思はないようだ。

「大丈夫だよ。帰り遅くても、夕飯作って待ってるから。それより気を付けてね、今日の夕方から雨らしいから。傘持っていった方がいいよ」
「あら、そうなの?」

 母親が出ていく前に天気予報を見ておいてよかった。折り畳み傘を手渡せば、満天の笑みを返してくれる。

「じゃあ行ってきます〜!」
「あ、お母さん前っ、」
「ぎゃんっ!?」

 ガツン! と鈍い音が響く。
 まだ閉まったままの玄関扉に、思いきり顔をぶつけていた。

「痛〜……」
「……大丈夫?」

 額を押さえながら蹲る姿に溜め息をつく。
 この人の注意力散漫なところは一生治らないんだろうな、そう思いながら、仕事場へ向かう母親の後ろ姿を見届けた。

「……さて、私も出勤の準備しなきゃ」



 あの会社を辞めてから、2年が経った。
 あれから実家に戻った私は、縁があって、知人が勤務している店で働かせてもらっている。
 場所が原宿だし、海外ブランドのおしゃれなインテリア雑貨を扱っているせいか、来客する人は若い世代ばかり。常連客も多く抱えていて、顧客から愛されている店なんだろうとわかる。
 そんな店で働けることになったのは、幸運だったと言うべきなのかもしれない。
 こういう華やかな店舗で働くのは初めての経験で、けれど案外悪くないものだと感じる。接待の場は数えきれないほどこなしてきたから、客の対応は手慣れたものだ。営業職で培ってきた会話スキルや接客が、こんなところで役に立つなんて何とも皮肉な話だけど。そのお陰で、新しく就いた仕事でつまづく事もなかった。
 営業する必要もないし、個人成績もないから社内で競う体制がない。残業もなければ早出もなく、5日以上の連勤は基本的に禁止。それが普通なのかもしれないけれど、少なくとも前の職場より、社員を大事にしている職場なのはわかる。
 それに、可愛い雑貨達に囲まれて仕事をするのは、それだけでテンションが上がるものだ。

「……いい天気だけど、本当に雨降るのかな」

 頭上に広がる青空に向けて呟く。勤めている店舗横の、狭い路地に足を踏み入れた。
 通りの先に従業員用の入口があって、ここから私の1日が始まる。10時から17時までの勤務で、休憩を1時間挟んでの6時間勤務。パートではあるけれど、給料自体に不満はない。職場環境もいいから、この店を離れたい気持ちもなかった。

 働く場の環境や人間関係って、収入以上に重要視しなきゃいけない要素だと思う。前の会社は歩合制だから、営業成績が良ければ給料も当然跳ね上がってくるけれど、実際に収入が上がっても私はあの会社を辞めたかった。
 この店舗で働き始めてから2年、稼ぎの面で言えば下降したとはいえ、それを理由に辞めたいと思ったことは一度もない。それは、一緒に働く人達やお客さんの質が良いというのが一番の理由だった。
 そして何より、上司にあたる人が尊敬できる人だから、この人の下で働けるなら、この先も頑張れると思えたんだ。

「おはようございまーす……」

 従業員入口からバックヤードを通り、ロッカー室へと歩を進める。私の挨拶に応える声はなく、室内は静かだ。他のスタッフはまだ来ていないようだけど、微かに人の気配を感じる。キーボードを静かに打つ音が事務所から聞こえてきて、音の方へ足を向けた。

「……おはようございます、七瀬さん」

 顔を覗かせて声を掛ければ、パソコンとにらめっこしていた人物が振り向いた。
 なびく髪からふわっと漂う、清楚感のある甘い香り。ああ、この人に合った香水だな、なんて心の片隅で思う。

mae表紙tugi



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