縋りつく1


「なにそれ? どういうこと、」

 言いかけて、ハッとして口を噤んだ。つい聞き返してしまったことに驚いている自分がいる。今まで築き上げてきたものが壊れた、そう告げた秋山の声は絶望感に打ちひしがれていて、つい好奇心が顔を出してしまった。
 そこにあるのは紛れもなく、相手の不幸を喜ぶ人間の本能が備わっている。

 ……最低だな、わたし。
 良い子ぶっておいて、心の奥ではしっかりと、コイツが不幸になるのを望んでいたんだ。

 秋山なんて落ちぶれてしまえ、なんて思ったことは一度もない、と思っていた。不幸になればいいと願ったこともない、と。私はただ、この男が存在しない環境で生きたかっただけたから。
 競争意識に囚われた世界とは切り離された職種で、私の存在をおびやかす輩なんて存在しない場所で。私の事を誰も知らない世界で平穏無事に過ごしたかった。そう願ったのは私の過去を知る秋山から離れることで、自分が犯した過ちから目を背けたかった理由もあるけれど。

 どちらにしても、この男と一生関わらないで生きていけるなら、コイツにやられたことも水に流そうとした。ホテルでの一件で傷ついたのは確かだし許せない部分もあるけれど、だからってあの日を境に人生が狂った訳でもない。長い長い人生の中で、たった1日の出来事でしかないんだ、私にとっては。

 もう関わることがなければ、秋山も私の存在なんてすぐ忘れてしまうだろう。今の選ばれし地位を築いて、瞬く間に出世してエリートコースの道を進んでいくんだろうと勝手に思っていた。でも実際は違ったんだ。私がよその土地で新しい仕事に就き、恵まれた環境と優しい恋人のような存在に癒されていた間、秋山は光に満ちた出世とは真逆の道を進んでいたのだから。

 今の秋山に、かつての眩さは微塵もない。背中を丸め、表情も暗く、口数も少なく発する言葉も弱々しい。すっかり落ちぶれてしまった姿に、私は同情するどころか異常なまでの昂りを覚えた。初めてこの男に打ち勝ったような、卑しい優越感が胸を満たした。

 人の不幸は蜜の味だと言う。その言葉通り、私も秋山の落胆した姿を見て内心微笑んでいた。そして秋山の身に何があったのか、俄然興味が湧いた。
 誰よりも輝いていた筈のこの男が、どんな風に地位を堕とされて、どう腐ってしまったのかを全て知りたい。それは純粋な好奇心だけではなく、この男を見下したい、嘲笑いたい気持ちから湧いて出た感情だった。
 同時に気付く。秋山が私に会いに来たのは、かつての上司の話を聞きに来た、だけではないことを。

 多分、秋山は私に救いを求めてる。自分の中にある苦しみを誰かに聞いてほしい、と。
 理解してほしいと願う承認欲求は、誰もが当たり前に持つ自然な心の動きだ。

「……何かあったの?」

 だから、そう尋ね返してみた。
 けれど秋山は何も言わない。眉をひそめたまま、固く口を結んで沈黙を貫いている。その険しい表情に苛ついた。何を被害者ぶってるんだ、本当は内に秘めている辛さを解放したいだけのくせに。
 まさか、何も言わずとも私が全てを理解して、受け入れてくれるとでも思っているのか。そんな都合のいい話がまかり通る訳がないのに。

 ───そう悪態ついた直後、
 ふわっと下りてきた考えが、瞬く間に私の思考を支配した。

「ねえ」

 秋山の腕を引き寄せて、滑らせるように手の甲に触れる。しなやかな指に自分の指を絡ませれば、秋山は驚いた様子で私を見返してきた。

「私の部屋に来てよ」

 一方的に誘えば、秋山は明らかに困惑していた。驚きで見開いた目は、私の言葉が信じられないとでも言いたそうな意思を宿している。
 まあ疑われるのは仕方がない。私はさっきまで、秋山と話をするのも不快だと露骨に主張してきたんだから。その男を部屋に誘うなんて、血迷った選択以外の何者でもないだろう。

「……いや、此処でいい……話終わったら帰るから」

 秋山は頑なに頷かなかった。付き合ってもいない女の部屋に、足を踏み入れること自体に躊躇いがあるのか。それともホテルへ連れ込んだ挙げ句、乱暴を働いてしまった私に対しての罪悪感から踏み止まっているのか。さすがに馬鹿ではないようで、秋山なりにこの展開を危惧し、私の誘いの意図を考えあぐねているように見える。
 でも私には、この男を部屋に誘うことで信頼を得たい、得なければならない理由があった。

 秋山を傷つけたい。
 傷ついて、ショックを受けている顔が見たい。
 今だけ優しさを見せつけておいて、この男の信頼を得た後に裏切ってやりたい。
 最低な感情なのは承知の上だし、復讐なんて大それたことを実行するつもりはないけれど。

 ただ、見下したいだけ。
 傷つけてやりたいだけ。
 私はあんな酷い目に遭ったんだから、こんな小さな仕返しくらい許されてもいいでしょ?

「話だけでいいの?」
「……え」

 私がそう問えば、秋山はわかりやすく顔色を変えた。

「秋山さ……上司の話がしたいって言ってたけど……それだけじゃないよね? 他にも言いたいことがあるんでしょ?」
「……っ」
「いいよ、全部聞いてあげる」

 核心をつく言い方をすれば、秋山は長い沈黙の後に微かに、小さく頷いた。

mae表紙tugi



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