地に堕ちた成功者4


 私の提案に、秋山がしばらく黙り込む。そして、「わかった」と静かに頷いた。

 自宅前に辿り着き、秋山が運転席から降りる。後部座席のドアを開けてくれて、差しのべられた手に掴まりながら車を降りた。
 右足からズキズキと襲う痛みが辛い。秋山に支えられながら玄関まで歩き、ドアノブを握り締めたまま一瞬、躊躇した。

 迷いが生まれる。この先にこの男を入れてしまったら、今度こそ引き返すことはできない。この男と2人きりになる事がどんな危険を孕んでいるか、想像するだけで体が震えた。やっぱり車内の方がいいんじゃないのか───脳裏を掠めたその考えを、私はすぐさま打ち消した。

 駄目だ。車内にしろ外にしろ、秋山と一緒にいるところを人に見られたくない。母親に知られたくないし、万が一、孝之さんの耳に入ったらそれこそ大変だ。
 今日だけ。今日だけ我慢すれば、もうこの男とは2度と会うことはない。結局は身の危険より、この男から離れたい思いの強さが上回った。

 そもそも家の中に引き入れたからって、必ず襲われると決まったわけじゃない。用件が終わればすんなり帰ってくれるかもしれないし、もしもの事態が起きたとしても、秋山を追い払う手段はたくさんある。包丁とか鋏でも持ち出せば、身の危険を察知して逃げ出すかもしれないし。
 そんな最悪な事態はできるだけ避けたいところだけど、身を護る為には相手に刃を向ける覚悟が必要な時もある。大袈裟だなんて思っちゃいけない、それだけの事を2年前にやられてるんだから。
 それに、玄関前には防犯カメラだってある。私に何かしようものなら、翌日には証拠品と一緒に警察へ突き出してやればいい。私だけが不利な状況に追いやられているわけじゃないとわかれば、覚悟も決まる。
 意を決してドアを開け、足元に視線を落として───私は硬直した。

 そこにあったのは、ある筈のない靴が2足。
 見覚えのあるものだった。

「あら、沙綾帰ってきたの?」

 リビングの奥から聞こえてきた声に、早速頭を抱えたくなった。それは紛れもなく母親のもので、自分の想定していた事態が早くも覆されたことに衝撃を受ける。絶対にいないと思っていたのに、今日に限って早く帰ってきてるなんて聞いてない。思えば玄関の鍵も開いていたじゃないか、母が不在ならドアは締まっているはずだ。
 咄嗟に後ろを振り返り、秋山の体を押し返そうとしたけれど。

「ごめん秋山っ、今日はやっぱり無理、」
「やだっ、ちょっとどうしたのその足!」

 ……遅かった。秋山を追い返すより早く、母親がこの場に姿を現してしまった。

 包帯が巻かれた私の右足を見て、小さな悲鳴を上げた母親の視線が、今度は秋山に逸れる。第三者の存在に、不思議そうに首を傾げていた。

「……? 誰かいるの?」

 ああもう、最悪だ。秋山の姿を見られたからには、この場から追い返すことも出来やしない。そんなことをすれば、母親から不審な目で見られてしまう。諦めるしかない。

「……突然すみません、お邪魔します」

 この状況をどう説明しようかと思考を巡らす私の隣で、秋山が遠慮がちに口を開いた。

「……沙綾、この人は? それにあなた、その怪我……」
「や、お母さん違うの。これは、」
「申し訳ありません、彼女が怪我をしたのは俺の不注意です」
「え……」

 あわてふためく私を庇う形で、秋山が前に出る。凛とした表情で母と向かい合い、ゆっくりと頭を下げた。驚きで言葉を失っている私をよそに、秋山が経緯を説明し始める。

「娘さんに怪我を負わせてしまったのは俺の責任です。すぐに病院で処置を施してもらいましたが、まだ思うように歩けないようですので、自宅の方まで車で送らせて頂きました。軽い捻挫ですが腫れる可能性もありますので、3日ほどは安静にするようにと医師から言われてます」
「え、そうなの沙綾? 大丈夫?」
「………」

 なに勝手にしゃしゃり出てきて、好き放題喋ってるんだこの男は。

「本当に申し訳ございません」
「あらっ、いいのいいの! こちらこそ、うちの娘の為にここまでして頂いてありがとうございます。沙綾、ちゃんとお礼言った?」
「…………、言った」

 言ってないけど。

「あ、そうだわ。こんな所で立ち話もなんだから、よかったら上がって?」
「ちょ、お母さ、」
「お茶でも用意するわ。それともコーヒーの方がいい……かしら……」

 ふと、母の様子がおかしくなった。
 途中で言葉を止め、訝しげな表情を浮かべながら秋山を見つめている。数秒前までキラキラした眼差しを向けていたのに、その輝きは徐々に薄れて曇っていく。秋山に視線を移しても、母の異変に困惑している様子だった。
 妙に張り詰めた空気が漂う中、突然、「あっ」と母は声を張り上げた。

「そうだ、思い出したわ。あなた、以前にも私と会ってるわよね? ほら、沙綾が2年前に入院してた病院で。この子の病室の前に立っていたあなたの姿を、何度か見たことがあるわ」

mae表紙tugi



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