運命、あるいは絶望7


「俺は待つから。沙綾の気持ちが俺に向くまで」
「………」
「その時がきたら、お母さんに俺のこと紹介してね」
「……その時が来なかったら?」
「大丈夫。沙綾はきっと俺を好きになるよ」
「………」

 そんな自信たっぷりに言われても反応に困る。

「沙綾、手」
「え?」
「手出して」

 促されるままに片手を差し出したら、運転席から少しだけ身を乗り出した孝之さんも手を伸ばしてきた。ぎゅっと握られて、何故か握手されて首を傾げる。

「……なんですかこれ?」
「ん? 握手」
「それはわかりますけど」
「これからもよろしく、て意味で。ダメ?」
「……ふふ、いえ。こちらこそよろしく」

 茶目っ気たっぷりに笑う姿につられて笑みが浮かぶ。この人の、こういう所がとても好きだ。私に対する気持ちは真っ直ぐ伝えてくれるけど、絶対にがっついてこないところ。常に余裕があって、引くべきところはちゃんと引く。心の距離を図りながら寄り添ってくれるから、安心できるんだ。

「あの、タオル、ありがとうございました。次に会う時までに洗ってお返しますね」

 私がそう告げれば、孝之さんは驚いたように目を見張る。私の一言が想定外だったんだろう、嬉しそうに表情を綻ばせた。
 その穏やかな笑顔に心が満たされる。次に会う約束を交わそうと口を開くのは、いつも彼の方が先だったから。私はいつも断れ切れずに頷くのが精一杯だったけど、いつまでも消極的なのは私達の関係の為にも良くないことだ。彼と会うことに積極的な私の姿を見て、孝之さんも安心したようだった。

「それじゃあ、またね。帰り道気をつけて」
「はい、孝之さんも」

 控えめに手を振り合って、運転席の窓が閉まっていく。そのまま静かに走り去っていった。
 静まり返った市街地にひとり立ち尽くす。ぽつぽつと降り続ける小雨が頬に滴り落ちて冷たい。傘をさすのも億劫に感じて、その場から歩き出した。小さな水溜りを避けながら思うのは、孝之さんのこと。

 彼とあのバーで出会ってから随分と日が経った。指折り数えてみれば、もう半年以上は過ぎている。孝之さんの印象は、出会ってから随分と経った今でもまったく変わっていない。本当にいい人で、優しくて思いやりもあって。さりげない気遣いも出来るところが大人の余裕を感じさせる。
 知識も豊富だから話の引き出しも多いし、彼と話していると学べることが多くてとても楽しい。女心もわかっているから紳士的だし、ひとつひとつの仕草も上品で、まさにジェントルマンって感じ。恋人の理想像としては完璧で、申し分ないほどに素敵な人だ。
 なのに、どうしても異性として見ることが出来ない。人としてはとても惹かれるけれど、どれだけ愛の言葉を囁かれてもキスされても、優しく抱かれても心が揺れ動かない。凪いだままだ。

 好きだけど、恋愛感情ではない。
 でも、他人への関心が薄い私がこれほどまでに絆されて、心許せる男の人というのは、過去の記憶を探っても彼以外にはいない。
 傍にいてもしんどくない人というのは本当に貴重な存在だ。今孝之さんを失ったら、彼以上の存在は2度と現れない気がする。卑しい感情だけど、熱心に私を想ってくれている彼を手離すのが惜しいと、そう思っている自分がいるのも確かだった。

 交際の形は人それぞれだ。恋愛感情がなくても成り立つ関係もある。一緒にいれば、いずれは彼に心を寄せられる日が来るかもしれない。彼となら結婚しても、生涯穏やかで健やかな未来を描くことも可能なんだろう。孫が出来て喜ぶ両親の顔も見てみたいし、家族や親戚と集まって賑やかに食事したり、旅行に出かけるのもいいかもしれない。それはとても幸せのことのように感じた。

 そんな未来予想図を描いていた時、前方から車のライトが照らされていることに気が付いた。顔を上げれば、私の家の前に1台の車が停まっている。その形状や色合いからして孝之さんの車じゃない。そして父親の愛車でもない。見知らぬ車の運転席には、確かに人が乗っている姿が見えた。
 その黒い影がゆらりと動き、静かにドアが開く。開閉音に私は足を止めた。
 何となく視線を感じて目を凝らせば、相手も私を見ている。ゆっくりとした足取りが近づく度に、その顔がはっきりと瞳の中に映し出される。体型や背格好からして男だ。それが誰なのかを認識した時、脳天に雷が落ちたような強い衝撃を受けた。

 驚きで目を見開く。
 視線の先にいたのは、私がよく知る男の姿。
 でも、二度と会いたくないと思っていた人。
 二度と会うことがないだろうと、忘却の彼方に記憶を追いやっていた男が今、私の目の前にいる。

「……な、んで」

 搾り出した声が掠れた。
 心臓がバクバクと、痛いくらいに暴れだす。

「……吉岡、」

 2年ぶりに聞いた低い声に、フラッシュバックする過去の光景。
 絶望的な再会に絶句している私の前で、男───秋山は、弱々しい声で私の名を呼んだ。

mae表紙tugi



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