運命、あるいは絶望4


 そんなやり取りがあってから早2年。私が恐れていた事態が実際に起きることはなく、職場の人達ともトラブルなく、穏やかな日常を過ごしている。今年の春から新しい後輩もでき、私は今月に誕生日を迎え、26歳になった。あの鬱々とした日々とはうってかわって、充実した毎日を送っている。
 そしてこの先も、こんな平和がずっと続いていくのだと。信じて疑っていなかった。

 ……けれど、私はもうすぐ知ることになる。
 これは嵐の前の静けさに過ぎないことを。

 私の運命は非情にも───"アイツ"の運命と、再び交差しようとしていた。







「……雨じゃん」

 帰宅する頃には、天候はひどく荒れていた。
 大粒の雨がしとどに降り、窓ガラスには無数の雨粒が付着している。今朝はあんなに晴れていたのに、天気予報もなかなか侮れないものだ。のぼり旗が左右に大きく揺れ動いていて、雨風の強さを感じさせた。
 母親に折り畳み傘を渡してしまったことを思い出して後悔する。これじゃあ傘をさしたところですぐに折れてしまうだろう。後で電話しておこうかな……と考えながら、ロッカー室へと向かう。

「お疲れ様です」
「あ、吉岡さんお疲れ様。ねえ外見た? 雨すごいよ」

 退勤時間が同じスタッフと鉢合わせ、会話をしながら帰り支度を整える。窓を激しく叩きつける雨音は、私達に否応なく不安感を与えてくる。濁った灰色の濃い雲が、余計に恐怖を煽る。
 見ているだけで憂鬱な気分になりそうな光景にため息をつく。遠くから聞こえる雷鳴が、薄暗い室内を震わせた。

「なんか、雷近づいてきたね」
「風も強いですしね……外出たくないな」
「吉岡さん、電車?」
「はい」
「今日はタクシーで帰った方がいいかもね。駅まで行くのも大変そうだもん」
「そうしようかな……あ、」

 ショルダーバッグを手に取った時、ラインの着信音が響いた。
 急いで画面を確認すれば、そこには「孝之」の2文字が表示されている。通話ボタンを押して耳にあてた。

「……はい」
『沙綾? ごめんね急に。仕事終わった?』

 スマホの向こうから聞こえてくる優しげな声音が、一瞬だけ、嵐の気配を忘れさせてくれた。

「仕事なら今、終わりましたよ。どうしたんですか?」
『うん。ほら今、酷い天気でしょ。仕事中なんだけど、ちょうど近くを通ったから電話してみた。もし今上がりなら、自宅前まで送っていくよ』

 ……嘘だな、と瞬時に気付く。けどこの人の名誉の為に、口には出さないでおいた。孝之さんが働いている会社は此処から遠いし、この近くを通ることなんて滅多に無い。しかも私の帰る時間帯に、狙いすましたかのようなタイミングで電話をしてきたんだ。
 私の身を案じて迎えに来てくれたのかと思うと申し訳ない気持ちになる。

「……ありがとうございます。でも、仕事中なのにいいんですか?」
『何言ってんの。恋人相手に遠慮することないでしょ』

 ……恋人。
 その単語に、胸にズキンと痛みが走る。

『店の前で待ってるね』
「……はい。急いで準備して向かいます」
『いいよいいよ。ゆっくりおいで』

 クスクスと笑われて、通話はそこで途切れた。
 スマホ越しに届いた声音は、心なしか機嫌が良さそうな感じに聞こえたけれど。何かあったのかな。

「ん? 吉岡さんの彼氏?」
「……あ、まあ、そうです。なんか、店の前で待ってくれてるみたいで」
「えー、優しい彼氏じゃない。心配して彼女を迎えに来てくれるなんて、羨ましい限りだよ」
「……そう、ですかね」

 優しい、か。確かに孝之さんは優しい人だ。穏やかな性格で物腰も柔らかく、女の人に対しても紳士的に接することが多い。私にだけは砕けた口調で話すことも多いけど、それだけ孝之さんの中で私という存在が、その他大勢の1人ではないという特別感を匂わせる。
 私よりも7つ上の彼のことだ、さぞかし女の扱いには慣れているのだろう。恋愛経験もきっと豊富だろうし、その誠実な態度と巧みな話術で女にもモテているに違いない。そんな人を彼氏と呼んでいいのか、ずっと迷いがあった。何故なら私と孝之さんは、正式に付き合っているわけじゃない。あくまでも友達以上、恋人未満の関係でしかないのだから。
 孝之さんからのアピールを何度受けても、私はどうしても彼の事を、恋愛対象として見ることができなかった。

「うわ……」

 従業員入口の扉までたどり着いた時、まるで氷を割るような雨の音が、扉を激しく叩いていた。
 恐る恐る開いてみれば、轟々と嵐が吹き荒れている。この酷い有り様では、傘をさしたところで全く無意味だ。せめて濡れる範囲だけでも減らせたらと、身を屈めながら店の前まで走り抜く。停まっていた1台の車に急いで駆け寄った。
 私が近づくと同時に、運転席の窓が数センチ開く。

「遅くなってごめんなさい」
「いえいえ。ほら早く乗って。濡れちゃうと風邪ひいちゃうから」

mae表紙tugi



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