綺麗なんだから


*早瀬side






 必要最低限の物しか置かれていないような質素な造りの一室で、横たわる彼女の白い手を取った。
 室内に灯る明かりは、彼女が手のひらに負った傷を色鮮やかに照らし続けている。鼻につく消毒液の匂いに顔をしかめながらも、ガーゼに染み込ませて傷口に当てた。
 治療方法なんて正直わからないし、このやり方で正しいのかどうかもわからない。それでも、菌が入り込んで破傷風になったら大変だから、そう自己判断してガーゼを貼り付けた。

 部屋の棚に置いてあった救急箱には、消毒液のほかにも包帯やガーゼ、絆創膏など、治療に必要な器具が細々と収納されている。
 中から取り出した包帯で巻いてはみたものの、正しい巻き方なんて全くわからず、なんとも無様な仕上がりに出来上がってしまった。
 いや、包帯の巻き方がわからないとか、そんなレベルじゃない、歪さだ。
 こういう時、手先が不器用な自分を責めてしまう。
 責めたところでどうしようもないのだけれど。



 ベッドへと視線を移せば、睡眠薬の効果で深い眠りに落ちている彼女がいる。
 初めて目にしたその寝顔は、疲労の色が濃く滲み出ていた。



 恐らくこの人も俺と同じで、もともと眠りの浅い人なんだろう。本来、睡眠を取ることで疲労回復する筈の人間の機能が、正常に働いていない。
 彼女自身はあまり意識していないかもしれないが、目の下にある消えないクマの存在が痛々しく見えて、複雑な気分にさせられた。

 ベッド下に落ちているハサミを拾い上げて、棚に戻す。無理やり飲まされた薬のせいで、襲い掛かる眠気をなんとか振り切ろうと、咄嗟に出た行動だったんだろう。
 だからって、ここまでする事ないのに。
 そうは思っても、こんな自傷行為に至るまで彼女を追い詰めたのは自分だと気付いて、自嘲気味な笑みが漏れた。

 自分の馬鹿さ加減に吐き気がする。

「……ごめん」

 自然と零れた、心の底からの謝罪。

「……傷つけることしか出来なくて、ごめん」

 どうして自分はいつもこうなんだろう。素直に好意を示せばいいだけの話なのに、いつも歪んだ愛情表現しか出来ない。
 それで幾度となく、過去付き合っていた子を傷付けて散々泣かせてきたというのに、自分はまた同じ事を繰り返そうとしている。


『何を考えているかわからない』


 そう告げられて別れを突きつけられたのは、まだ記憶に新しい。

 別に加虐趣味なんて持っていないし、相手を傷付けて、それでも尚、相手が自分を想ってくれてるか確かめたいとか、そんな面倒な事を考えたこともない。
 大事にしたいと想う心はちゃんとあるのに、感情がうまくコントロールできず、そのまま感情をぶつけて相手を傷付けてしまう。

 何度目かの失恋を経て、もう恋愛はしないと決めた。
 性格も根性もねじ曲がった自分はきっと、恋愛不適合者なのだろう。
 ひねくれた感情のままに相手を傷付けて、結果的に離れられてしまうのなら、恋愛なんてしたところで意味はない。

 なら、最初からしない方がいい。
 望まないほうがいい。
 『交際禁止』の校則を定めているこの高校に赴任できたのは、ある意味幸運だった。



 不幸だったのは、彼女と出会ってしまった事くらい。







 葉月先生に告白した時、校則違反になるから、そうはっきり断られた。
 まるで校則を言い訳にかざして、遠まわしに拒絶されているように聞こえて正直、腹が立った。
 校則で駄目だと定められているから、そう言われて納得できるはずがない。それで簡単に引き下がるような、軽い気持ちで安易に告白した訳じゃない。校則が、彼女を諦める理由にはならなかった。
 けどそれを、相手が理解してくれない。
 そうしてまた、納得できないまま怒りをストレートにぶつけて、挙句、手まで出した。
 最低だ。
 嫌われても文句は言えない。

 それでもこの人は───最後まで、教師の態度を貫いた。



 生徒を裏切りたくないから、教師を辞めたくないから校則を守る。さも当然のように、彼女は俺に告げた。
 あれは嘘偽りない言葉だと、直感的に悟った。
 自分達が優先すべきなのは自らの立場や感情ではなく、あくまでも生徒だと訴えたのも、彼女の、教師としての信念に基づいた主張なのだろう。

 この人にとって、俺の告白など最初から眼中になかったんだ。
 自分の存在意義は養護教諭であり続ける事と、そして何より、生徒の立場に寄り添う事だけだったから。
 それ以外は意識外。
 そう断言する程に、教師としての自覚を持てと告げたあの言葉に、重みを感じた。


 心臓を鷲づかみにされた気分だった。


 男に睡眠薬を飲まされ、ベッドに組み敷かれ両手まで拘束されている状況で、彼女は一瞬たりとも俺に弱さを見せなかった。
 恐怖だってあっただろうに、そんな素振りも一切見せず、毅然とした態度で俺と向かい合った。
 その姿があまりにも綺麗で、強くて。
 強烈に惹かれた。
 本気で手に入れたいと思った。
 同時に、教師を続けたいと告げる彼女の立場や意思を尊重したい、とも。



 手こずりながらも手当てを終えた後、毛布を引っ張って彼女の肩まで掛け直す。
 頬に指を滑らせて、柔らかな肌の感触を味わった。

 ……消えるといいな、これ。
 せっかく、綺麗なんだから。

 目の下にうっすらと浮かぶクマを親指でなぞれば、彼女は僅かに身を捩った。
 手を離せば、すやすやと気持ちの良さそうな寝息を立てて眠りに入る。
 その様を見届けてから、救急箱を片付けて元の位置に戻し、明かりを消して部屋を出た。



 誰も部屋を出入りする気配すらない寮の中を、ひとり歩く。
 初めて足を踏み入れた教員寮の中は、想像していたよりも部屋は綺麗で明るくて、静まり返った通路からは時折、生活感の漏れる微かな物音が各部屋から聞こえてくる。
 有名校とはいえ、ここは公立高校だ。数年で転勤になる可能性も当然ありえるわけで、だから殆どの教員はこの寮を利用している。俺のように、学校から離れた場所にあるマンションで一人暮らしをしている同僚は少ない。

 仄かに照明を浴びるホールを抜けて、外に出る。
 秋の夜風は肌にひんやりと冷たくて、体の熱を一気に奪っていく。
 それでも、自分の中に芽生えた熱は冷める事はなかった。






 ───今のままでは駄目だ。


 相手の立場や迷惑も弁えず、ただ強引に気持ちを押し付けているだけの自分を、あの人が好きになってくれるわけがない。
 あの人が理想としている教師に、少しでも近づきたい。
 自分を変えるなんて、1日や2日で出来るようなものじゃないし、生まれ持った性格や意地の悪さはそう簡単には変わらない。
 けど、変えていこうとする努力はできる筈だ。

 そうやって少しずつでも変わっていけたら、そんな自分の姿に、彼女も気付いてくれるかもしれない。気持ちが、揺れ動くかもしれない。
 長期戦になるかもしれないけれど、彼女に歩み寄るのはそれからでも、きっと遅くはない。



 あの人に振り向いてほしいから、変わる。
 そう決めた。

 ………決めた、けど───







「───自分を変えるやり方なんてわからない」
「それはね優クン。俺に聞かれてもわからないよ」

 涼しい笑顔で切り返されて、思わず押し黙る。



 教員寮を出た後、そのまま友人が住むマンションへと向かった。
 時間はすでに22時半を回っていたけれど、夜遅くに訪問した俺を、友人は追い出すこともなく部屋に招き入れてくれた。
 高校で知り合って以来の付き合いでもあるこの男も、俺と同じ教職員に従事している身。
 ただ、勤務先は俺とは違う。普通の一般高校だ。

「お待たせしました〜」

 部屋にいたのは友人だけじゃなかった。

 軽やかに駆け寄ってくる足音が近くで止まり、テーブルの上にガラス素材の小鉢を置く。
 その中身を覗き込んだ友人───千春が、あれ、と一言漏らした。

「莉緒、ドレッシング変えた?」
「はい。野菜嫌いの優さんの為に、和風しょうゆドレッシングを柚風味に変えて、味付けをがらっと変えてみたのです」
「ほんとだ。柚のいい匂いがする。食欲そそられる香りだね」
「ちょっと酸味を足して、優さんの好きなスモークサーモンも一緒に添えてみました」
「莉緒はいいお嫁さんになるねー。俺の」
「えへー」
「………」

 目の前でイチャつくのは止めてほしい。気まずい。

mae表紙tugi

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