俺のものにしたい


 彼に飲まされた睡眠薬は、おそらく市販薬か病院で処方されるような、安全性の高いもの。眠気は緩やかに襲ってはくるものの、麻酔薬のような急激な催眠効果は無い。
 そんな危険性の高いものは、今では一般的に処方されていない。彼が持っていたのは恐らく、デパスかハルシオンあたりだ。処方の仕方さえ間違えなければ、副作用も当然ない。

 だけど。
 今、彼が私をベッドに組み敷いて施してるこの行為は、間違った処方以前の問題だと思う。





「っ、も、やめて……」
「……3錠飲みました? 4つめいっときます?」
「頭沸いてんの……っ」
「ほんと口悪いですね」

 馬鹿にしたような口振りが零れ落ちる。
 睨み返しても、彼は余裕の態度を崩さない。
 ポケットから錠剤を取り出して、何の躊躇いも無くそれを口に含み、顔を近づいてきた。
 顔を逸らしたくても、顎を強く掴まれているからそれも出来ない。
 ギッ、と2人分の体重を乗せたベッドが、耳障りな不協和音を立てた。

「んっ……!」

 こじ開けられた口内に錠剤を押し込まれ、無理やり飲まされる。このやり取りでもう4回目。
 意味のわからない異常行為を繰り返されて、いい加減吐き気すら覚える。

 何のつもりなの。
 どれだけ飲ませるつもりなの。
 反論したくても、唇が塞がれてる現状では何も言えない。



 現在の睡眠薬は昔とは違い、何錠飲んだとしても命を落とすような事はない。絶対、とは言い切れないけれど。
 たとえ茶碗1杯分の睡眠薬を飲んだとしても、致死量に達しない。
 それでも間違った処方には変わりなくて、このまま飲まされ続ければ、確実に胃がやられる。
 下手をすれば入院で、数日間に渡って投与された薬を中和する治療をしなければならなくなる。そんなの、絶対にご免だ。

 ───何とかしないと。

 ゆらゆらと襲い掛かる睡魔を振り切り、今できる最善策を必死に考える。

 彼は私の上に跨っている状態で、ベッドの脇に置いたままだったタオルは、頭上で両手を拘束される道具として利用されている。動く事も出来ず、自ら逃げ出すのも難しい。絶望的な状況に追いやられても、必死に思考を巡らせた。
 そうでもしないと、徐々に意識を蝕もうとする睡魔に負けてしまいそうだったから。

 部屋の電気は消され、サイドテーブルに取り付けられた小さな照明だけが、手元の周辺を淡く照らしている。
 光を帯びた彼の影が顔に落ちて、薄く目を開いた。

 視線が交わる。
 いつも冷めていた瞳の奥が今は温かな色を帯びていて、一瞬この現実を忘れかけた私の胸がまた、甘い鼓動を弾いた。
 けれど彼が錠剤を口に含んだところで、更に恐怖心が募る。まだ、飲ませる気なのか。

「何もしないって言ったくせに……っ」
「男と2人きりの『何もしない』は信じたら駄目ですよ。ちょっと危機感なさすぎじゃないですか?」

 ほんと男慣れしてないね。呆れたような口調で言われて、恥ずかしさと悔しさが同時に襲ってくる。
 でも事実だから何も言えない。こんな結果を招いた原因は隙を見せてしまった自分にもあるのだと、それなりに自覚はしているつもりだった。

 睡魔は徐々に押し寄せてくる。
 それでも、流されるわけにはいかない。
 舌を噛んで意識を保つ手段も考えたけど、すぐにその提案を捨てた。そんな事をすれば、彼と喋る事すら苦痛になる。

 どうしよう、どうすればいい───

 怒りと不安と、そして恐怖で押し潰されそうになる気持ちを振り切って、視線だけを周囲に巡らせる。そして、ある物が視界に入った。
 それは、数日前からベッドの棚に置きっぱなしにしていた物。携帯用の、小さな裁縫用ハサミ。

 ───これだ。

 考えるより先に手が動いていた。両手を縛られていたものの、結び目が緩くて手首を動かせたのが幸いした。
 めいっぱい伸ばした腕でそれを手に取り、そのまま片手で強く握り締める。直後、肉を切り裂かれたような痛みが手の内に走り、思わず顔をしかめた。
 ビリビリとした痛みがじんわりと広がって、不快感が増す。けど、痛みのお陰で眠気が少し引いた。

 錠剤に意識を向けていた彼は私の行動に気付いていなかったようで、視線を私に向き直して顔を近づけてくる。
 また薬を飲まされる、そう思って反射的に目を瞑った私の予想は、ここで大きく外れた。

 首筋に触れた、ひとつの熱。
 肌に押し付けられた唇の感触に意識を奪われ、ブラウスのボタンを外されていた事に気付かなかった。
 露になった鎖骨に彼が口元を寄せ、直後、甘い痛みが走る。

「……あっ」
「……そんな声も出せるんですね。可愛い」

 耳元で囁くその声は艶を帯びている。
 彼がもたらす甘い雰囲気に酔ってしまいそうで、このまま流されたら女として幸せだろうな、そんな考えすら頭を過ぎった。
 頭をそっと撫でる温もりも、頬に触れる指の感触も、覆い被さってくる彼の重さも、何もかもが心地いい。
 押し寄せてくる睡魔が、強固になっていた気持ちを少しずつ溶かしていくように感じられた。

 意識を手放したくなる程の眠気が襲う。
 それでも何とか抗おうと、必死に自分を奮い立たせる。手のひらから伝わる痛みと僅かに残された理性で心を律するしかなかった。
 眠りの先に待っている結末への恐怖心と、彼に負けたくないという意地ゆえに。

「……葉月先生、全然眠る気配ないですね」
「………」
「錠剤、足しましょうか」
「……っ、いい加減にしてください!」

 思わず声を張り上げてしまい、彼の動きが止まる。不気味なくらいの静寂が辺りを包み込んだ。
 この部屋は防音ではないから、大声をあげれば隣の部屋に響く。
 けれど今の私に、そんな事を気遣う余裕なんてあるわけがなく。

「……本気で怒りますよ」
「………」
「自分が何してるか、わかってますか」
「……わかってますよ」
「じゃあ言います。こんな事しても、私は貴方に揺らぎません」
「………」
「貴方の事好きでもないし、付き合う気もありません。校則違反するつもりもありません」

 はっきりと告げれば、冷めた表情が明らかに歪む。

「……校則校則って、そんなに規則が大事ですか」
「当たり前です」

 即答すれば、彼の眉間に皺が寄る。納得がいかない、口にせずともそう言っているのがわかる。
 けれど、校則あっての学校だ。
 社会に出れば、今度は社則。
 それは揺るがない事実であって、従うのは私達の義務だ。

「……早瀬先生は、どうして交際禁止の校則を定めている学校が存在するのか、一度でも考えた事がありますか」
「……そんなの、」
「風紀が乱れるから、ですよね。学校の評判だって落ちる可能性もある」

 校則の意義。
 なんて、所詮そんなものかもしれない。

「……保守的な学校側の勝手な都合ですね」
「そうですよ。恋愛も交際も禁止なんて、本来常軌を逸している事くらい、私もみんなもわかってますよ」

 男女交際が風紀を乱すなんて、厄介な揉め事を嫌う学校側が勝手に決めた主張に過ぎない。
 恋愛だって、思春期の彼らにとっては必要不可欠な事であって、その経験は彼らが人として成長するスキルにだってなる。私自身は、そう思ってる。
 そもそもこの高校に、男女の交際を制限しなければならない理由がわからない。
 偏差値の高い難関校として名を連ねているといっても、高貴な令嬢が通う女子高でもなければ、政治家や有名人の子息が通う学校でもない。修道院でもない。普通の、ごく一般の公立高校なのに。

 学校はあくまで学びの場であって、学業優先だという学校側の主張もわからないわけじゃない。
 だけど今、私が言いたいのはそういう事ではなくて。

「……当校は、受験前の学校説明会で、男女交際が禁止であることを事前にお話しているそうです」
「……ええ、知ってます」

 彼はそれまでの行為を中断して、無言のまま、私の主張に耳を傾けている。

「それでも彼らはこの高校を受験し、入学してきました。勉強も恋愛もしたいのなら、わざわざ此処なんて選ばなくても他の一般高校へ行けばいいのに、交際禁止を校則に掲げているこの高校に来て、そのルールをきちんと守っています」

 日々保健室にやってくる、あの子達の姿が目に浮かぶ。
 悩み事を誰にも話せず、その辛さを私に打ち明けてくれる生徒達。
 好きな人が出来てしまったと、校則と感情の間で揺れる生徒も多い。
「たとえ想いを寄せる相手ができたとしても、様々な迷いを抱えながら、それでも覚悟を決めて、卒業を迎える日まで耐えて校則を守ろうとしてる。そんな彼らに、規則を破った教師がどうして生徒に顔向けできますか」
「……生徒の為、ですか」
「そうです」

 あの子達を裏切れない。
 たとえ校則の存在意義に、疑惑を抱いていたとしても。

「学校のブランドとか教育方針とか、そんなもの私はどうでもいいです。半世紀前の古臭い考えを主張する輩なんて、勝手に言わせておけばいい」
「………」
「……しっかりしてください、早瀬先生」
「………」
「教師としての自覚、もっと持ってください」
「………」
「私達が今考えなければならないのは、自分達の恋愛事情じゃない。生徒です」






 ───高校生の頃、交際禁止という校則のせいで悩んでいる子達をたくさん見てきた。
 けど、そんな生徒に対して理解を示さない教師の姿に反感も抱いた。
 それが、この高校で教師をやりたいと思った本当の理由。
 養護教諭を目指したのも、教師としてより一番、生徒の立場に寄り添えると思ったから。

「……あと、もうひとつ理由があって」
「……なんですか?」
「私、先生辞めたくないので」
「……は、」

 はたり、と彼の瞬きが落ちる。

「私、この学校も教師の仕事も好きなので。自分の都合で申し訳ないけど」
「……シンプルですね」
「そうですね。危ない橋は渡りません。私、ビビリなので」

 自分で言っておいて情けないけれど。
 教師を続けたいから校則を守るなんて、これほど単純明快で説得力のある答えなんてないと思う。

「………ふ、」
「へ」
「なんか、葉月先生らしいですね」

 一拍置いて、彼の表情が柔らかく崩れる。
 そして唐突に笑い出すものだから、少し唖然としてしまった。

「え、なんで笑うんです」
「ははっ……いや、凄いなと思って」
「は?」

 今までの会話の中に、すごいとか言われる要素なんてあっただろうか。

「どこまでも教師なんだなって」
「はあ」

 砕けた口調で笑い声をたてる彼に、さっきまでの重苦しい雰囲気は既に無くなっている。
 ……なんだこの展開。

 なんとなく面白くなくて相手を睨みつけると、それまで肩を震わせて笑っていた彼の、伏せがちだった瞳がうっすらと開いた。
 あまりにも真摯な眼差しで見下ろされて、息が詰まる。柔らかく微笑んでいるのに、それとは裏腹に力強い意志を持った瞳が、私を真っ直ぐに射抜いた。

「……かっこいいな、アンタ」
「……え」
「すげぇ惚れた」
「………」
「絶対、俺のものにしたい」

 瞳の奥に宿る温度が、深みを増す。
 言葉を失って呆然と見返すことしか出来ない私に、彼は何も答えることもなく、真っ直ぐ私を見つめ返していた。



 ……理解してもらえれば彼が身を引いてくれるかも、なんて考えは相当甘かったのかもしれない。どうやら、逆に火を付けてしまったらしい。
 けど、実のところ私の意識は、もうこの時点で限界を迎えていた。

 もうずっと眠くて仕方が無い。
 手に残る傷の痛みすら感じない。
 そんな私に、暗い影が落ちる。
 差し伸ばされた彼の手が顔を覆い、静かに瞼を伏せられた。
 視界が暗闇に包まれる。
 閉じた瞼に触れる手のひらの温もりに、一気に睡魔の波が押し寄せてきた。

「……早…、」
「……もう、いいですから。眠ってください」

 彼の囁きが遠くに聞こえる。
 遂に力の入らなくなった手から、ハサミがするりと滑り落ちた。
 鈍い音を立ててベッドの下に転がっていく様を最後に、私の意識はそこで途絶えた。








 ………夢を見た。

 夢、という表現は正しくないのかもしれない。
 体は眠っているはずなのに、脳だけが目覚めているような、深い眠りに落ちる寸前の夢うつつな状態にあった。

 現実と夢の曖昧な境目の中。
 耳元に落とされた、誰かの小さな呟き。

「……ごめん」

 囁かれた小さな謝罪は、酷く儚げで。
 応えようとしても、睡眠状態に入ってる体は全く動かない。

 ……というか、謝るくらいならこんな事しなければいいじゃない。
 心の中で悪態をつく私に、なおも謝罪の言葉が続く。

「……傷つけることしか出来なくて、ごめん」

 ……別に傷ついてないし。
 ちょっと押し倒されたくらいで泣くような、か弱い精神は持ち合わせていないつもりだけど。

「……ごめん」

 手に、優しい熱が落ちる。
 温かくて気持ちがいい。
 ……なんだろう、これ。

 それを確認するまでも無く、私の意識は深い、深い闇に落ちていった。

mae表紙tugi

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