どうなりたいわけ 千春のデレ発言に、ほんのりと頬を染めて笑う女の子。千春の彼女だ。 そして、こいつが勤務している高校に在学していた生徒でもある。 千春にとっては、元教え子だ。 男の癖に綺麗な顔立ちと、人見知りしない気さくな性格のお陰で、高校でも大学でも人気があった千春は、何処へ行っても女の噂の的になっていたくらいモテていた。 けれど千春は、恋人を一切作りたがらない。 本人は「運命の出会いがなくてねー」なんてヘラヘラ笑いながら言っていたけれど、そんなコイツが、最近彼女が出来たと言ってきた。 しかもその相手が、元生徒。 それを聞かされた時は結構驚いた。 生徒と恋愛とか絶対ありえない、子供は対象外だと、千春はいつもそう言っていたから。 彼女の高校卒業を機に正式に付き合いだしたらしいけど、2人の交際は既に互いの親公認らしく、週末になればこの子───香坂さんは、千春のマンションに足繁く通っているようだ。 教師と元生徒という立場上、おおっぴらに周りに公言はできないし、しかも香坂さんはまだ19歳だ。 未成年という壁はそれなりに重いものだろうけど、それでもこの2人は幸せそうに笑ってるから、まあいいかと自分を納得させる。 「好きな人のために変わろうなんて素敵なお話ですね〜」 頬を染めたまま言う香坂さんの言葉に、肩を落とす。 「でも、どうすればいいのかわからないから困ってて」 「うーん……」 「まあ、出来るところから始めたらいいんじゃないの」 野菜がこってり盛られた皿をテーブルに置いて、千春は俺の前に座った。 その隣に、香坂さんも座る。 2人掛けソファーの上には、白い子猫が行儀よくお座りして、俺達の動きを目で追っている。りん、と首元の鈴の音が小さく鳴った。 千春に電話した時、夕飯がまだだったら食べに来いと言われたことを思い出す。 素直に来てみたはいいものの、苦手とする緑黄色野菜だらけの遅過ぎる夕食は、目にしただけで気落ちしてしまいそうな程の量だった。 とはいえ、せっかく2人が俺の分まで作ってくれたのに拒否する訳にもいかず、恐る恐る箸を取る。 「出来るところから、って……つまり、何?」 アドバイスと呼ぶにはあまりにも簡素な助言を貰っても、頭の中は疑問符だらけだった。 自分を変える。 教師としての自覚を持つ。 その為に、自分が初めにしなければならない事が何なのかわからなかった。 沢山ありそうなのに、でもいざ考えると何も思い浮かばない。 「そうだね。とりあえず優クンは、野菜を食べるところから始めようか」 「優さん。野菜を食べましょう」 「………」 ……これは、からかわれているのかな。 曖昧な気分を抱えたまま、刻みこまれた大根を箸でつまみ、口に入れる。瑞々しいシャキシャキ感と柚の強い酸味が合わさって、独特の味わいが口の中に広がった。 「おいしい」 「ほんとですか!?」 「うん。柚風味のドレッシング、合ってる。俺、これ好き」 「わあ、よかったです! 普通のドレッシングだと優さんなかなか食べてくれないから、ちょっと冒険してみたんですけど。やってみた甲斐がありました」 「サーモンも食べていい?」 「どうぞどうぞ!」 満点の笑みを浮かべながら、香坂さんはずずい、と小鉢を差し出してきた。 遠慮なく受け取って、綺麗にスライスされたサーモンを箸で挟み込む。 「優はさ、どうなりたいわけ」 「……?」 小皿にラーメンサラダを取り分けしながら、千春が問いかけてきた。 「保健の先生だっけ? その、女のヒトにさ。どう見られたいの」 「……どう、って」 どうなんだろう。あの人に振り向いてほしいとは思うけれど、その為には、今の自分を変えなきゃいけないところまではわかってる。 けど、変えたいと思う自分のイメージが漠然とし過ぎて、はっきりとした理想像が見えてこない。 だから結局、何をどうすればいいかわからなくて、途方に暮れている。 「とりあえず優はさ、言葉遣い直したら?」 「……え」 予想外の返答に、箸が止まる。 「前から思ってたんだけど、優って女の人に対して「アンタ」とか「お前」って言う時あるじゃん? あれ、止めた方がいいよ」 「……言ってたっけ?」 切り刻んだ野菜を口に含みながら、千春が話を続ける。 「言ってたよ。あのさ、優は無意識に言ってるのかもしれないけど、女の人から見たら、男から言われる言葉って結構、威圧感あったりするんだよ。特に女の人に対して「アンタ」って、すごい見下してる感出てるよ」 「……そうなの?」 そんな事を言われても、あまり自覚がない。 けど、そう指摘されれば言っていたような気もする。 香坂さんに目を向けたら、少し気まずそうな表情を浮かべていた。 「うー……、確かに男の人に「お前」って言われたら、ちょっと怖い……かも」 「……そうなんだ」 全然、気付かなかった。 2人から言われなければ、気付けなかった。 「何かの本で読んだんだけどさ。自分を変えたいならまず言葉遣いを直せって、それに書いてあった」 「なんで?」 「言葉遣いを直すって事はさ、つまり、言葉を選ぶって事だよ。相手を傷つけないように言葉を選んでる時点で、それは相手を思いやってる事と同じだろ。自分の思ってることを口に出すのと、相手の事を思って口に出すのは、全然違うと俺は思うよ」 「………」 思わず黙り込んだ俺の隣で、香坂さんの瞳がぱっと輝きだす。 「意識するところから始めるって事だね!」 「そうそう。さすが莉緒、話が早くて助かるね」 そんな2人のやり取りは、俺の耳には届かない。 「……俺、そんなに口悪かった?」 「普段はそんな事ないけど、優ってさ、ちょっとキレたら口調荒くなるよ。自分で気付いてなかった?」 「………」 気付いていなかった……事はない、けれど。 「……優さんって、怒るの?」 「そりゃ、優だって怒るでしょ。人間だし」 「全然想像できないです」 「莉緒の中で優ってどんなイメージなの?」 「んと、のんびり屋さんというか、色々緩い……カンジ」 「的を得てるね。素は無気力ドライ系だもんな、優」 「………」 何だか好き放題言われているような気がするけれど、反論も出来ず口を閉ざす。 何も言えなかったのは、自分にも思い当たる節が少なからずあるからだ。 人は誰かに何かを伝えるために、言葉を使う。 けどそれは、使い方を誤れば人を傷付ける凶器にだってなり得る。 言葉の過ちが、人間関係を破綻させる事だってある。 今までの俺が、そうだったように。 心で思ったこと、感じたことは率直に口に出していたけれど、自分が無意識に放った言葉を相手がどう捉えるかなんて、あまり考えたことは無かった。 言ってしまった後に、相手を傷付けたと気付いて後悔する事はあっても、口調を改めようとか性格を直そうとか、そんな考えに至ったことは無い。直す機会なら、今までに何度もあったはずなのに。 言葉遣いを直す。 小学生でも出来る簡単なこと。 けど大人になった今では酷く難しい問題。 「あれ。ていうかその前に、優の学校って男女交際禁止じゃなかったっけ?」 「ええっ、そうなんですか?」 香坂さんが驚いたように声を上げた。 「あー……、うん」 「わあ、知らなかったです」 「そっちも問題だよなー」 「うん……でも、今は」 自分にとって邪魔でしかなかった『男女交際禁止』の校則。 その存在が、今はありがたかった。 あの校則がある限り、あの人は誰とも恋愛をしたがらないだろうし、規則を破ってまで彼女に近づこうとする輩も、あの学校には誰もいない。 「………」 ………いや。 "1人"、いた。 「どんな人なんですか?」 「……え?」 その問いかけに、ふと我に返る。 「優さんの好きな人ってどんな人なのか、気になります」 「あ、それ俺も聞きたいなー」 「………」 純粋に興味を抱いている香坂さんの、きらきらとした眼差しに混じり、その隣でほくそ笑んでいる奴の胡散臭さが半端ない。 付き合いがそれなりに長いだけに、千春の腹黒さも十分過ぎるほど理解している身としては、正直コイツの前で弱点を晒したくないのが本音だけど。 「……別に、普通だけど」 つい、憮然とした態度を取ってしまう。 「普通とは」 「……普通に、明るい人」 「へー。明るくて、美人系で、みんなの人気者で、気が強いタイプ?」 「……なんでわかるんだよ」 「優って、昔からそういう子ばっか好きになるよなー」 とても愉快そうに笑う千春の傍らで、香坂さんの視線は俺から千春に逸れる。 「……千春くんの好きな女の子のタイプって……あの……」 「気になる?」 「う、うん」 「俺はねー、黒髪ストレートロングで、前髪ぱっつんで、背がちっこくて、愛嬌があって、料理も家事も完璧にこなせる可愛い女の子がタイプかなー」 「……日本人形?」 「それは本気で言ってるの? ボケてるの? ホラーなの?」 じゃれてるのか漫才なのか、いまいち判断のつかないシュールなやり取りを前に、俺はあの学校に来た日から昨日までの事を振り返っていた。 葉月先生と初めて会った時の事。 彼女に告白する直前の事。 そしてもう一人の、男の存在の事も─── トップページ |