残念でした


 学生寮の食堂から教員寮に戻り、自室にあてがわれた空間に入るやいなや、そのまま倒れこみベッドへと身を沈めた。
 うつ伏せ状態のままスマホをいじる。瞬時に明るさを増したディスプレイは、既に21時を表示していた。
 家族からのライン通知が届いていたけれど、どれも未読のまま枕元にスマホを放り投げる。何もかも億劫に感じるのは、全身を襲う疲労感のせいだ。神経をすり減らしすぎて、ありとあらゆるエネルギーを根こそぎ持っていかれた気分だった。

 母校でもあるこの高校に勤務してから、ずっと穏やかだった私の日常。それは、あの人の告白が発端となって崩れてしまった。
 学生寮での一件を思い出して、はあ、と盛大に溜息が漏れる。これからも、あんな日々が続くんだろうか。心臓に悪い。考えただけでも疲れるなんて、相当だ。

 このまま眠ってしまおうかな。
 押し寄せてくる睡魔に身を任せようとした時、着信音が鳴り響いた。
 無視してしまいたかったけど、鳴り止まない音を前に居留守を使うのは抵抗がある。仕方なく体を引きずり起こし、部屋の照明をつけた。
 ベッドの上で震えているスマホに手を伸ばして、画面に視線を落とす。そこには、見知った人物の名前が表示されていた。
 迷わず通話ボタンに触れる。

「はいはい」
『あ、姉貴? 俺』
「うん……どしたの」

 久々に聞いた弟の声に、鉛のように重かった心が浮上する。

『今話しても平気?』
「うん」
『実家にさ、姉貴宛の郵便封筒いくつか届いてるから、そっちに送ろうと思うんだけど。他に、一緒に送って欲しいものとかある?』
「ん……いや、ない。それだけで良いよ」
『わかった。明日にでも送っとく』
「お願いします……」

 声に覇気がないのが伝わったのだろう。
 私の異変に気付いた弟が、僅かな沈黙を破って口を開く。

『……なんか、声疲れてんな』
「まあね……」
『何、そっち仕事大変なの』
「仕事は平気だけどプライベートでね……」
『男にでも振られた?』

 ……どうして私の周りにいる男って、デリカシーのない奴ばっかりなのか。

「違う。逆」
『逆? 告られたの?』
「ん……で、振ったんだけど」
『あ、なんかわかった。相手しつこいんだ?』
「いや、しつこくなりそうで」
『え、今日告られたの?』
「いや昨日」

 弟とは歳が離れているけれど、私達は仲がいい。つい気が緩んで事の顛末を話してしまったのは、弟の気さくな性格のお陰だ。
 いつも私の愚痴を聞いてくれて、気軽に相談にも乗ってくれる。若干デリカシーのないところが玉に傷だけど、我ながらよく出来た弟だと思ってる。

『なんか厄介な男に引っ掛かったね』
「どうしよ」
『無視でいいんじゃない?』
「え」

 意外な返答に驚く。

『相手の言う事にいちいち振り回されてたら、それこそ向こうの思うツボだし。好きでもないなら、ほっとけば』
「えー……それだけで大丈夫なのかな」
『向こうだって、脈なしだってわかれば身を引くんじゃないの』
「だといいんだけど」

 夕方の出来事が頭をよぎる。
 あのご様子じゃ、あっさり身を引いてくれる予感がしない。

『ていうかそれ以前に、姉貴の学校って交際禁止じゃなかったっけ?』
「そうだよ」
『余計駄目じゃん。教師がルール守らないとか前代未聞だって』
「だよね?」
『難しいよな。恋愛も交際も駄目って。好きな奴できたらどうすりゃいんだよ、って話だし』
「それは私も思うけど」

 けど弟の言い分も理解できる。

 擁護教諭という職業柄、生徒達の相談に乗る機会が多い。相談内容はその子によって様々だけど、好きな人が出来たり、付き合いたい人がいるとか、そんな恋愛相談も当然あったりする。
 できれば応援してあげたい所だけど、生憎私に、その権限は持ち合わせていない。

「ん……まあいいや。もう一度話してみる」
『話すの?』
「うん。もっかい話せばわかってくれるかもしれないし」
『わかってくれるといいね』
「そうだね。そろそろ切るから」
『うん。あ、』
「何?」
『母さんが、今度いつ帰ってくるか聞いとけって』
「ああ、うん。お正月、かな?」
『わかった、言っとく』
「うん、じゃあね」

 ぽすん、と勢いよく仰向けに倒れこむ。通話の切れたスマホを枕元に置いて、一息ついた。
 染みひとつない白い天井を見上げながら、弟の言い分を頭の中で繰り返す。

 男女交際の禁止。
 その校則を教師が守って当然だと思うのは、私だけの主観じゃないんだ。
 それを早瀬先生に理解してもらえたら、彼も諦めがつくかもしれない。

 問題が解決された訳ではないけれど、光明が見出せた気がして心が軽くなる。
 何でも気軽に相談できる存在がいるって、本当に貴重だ。



 教員寮は2階建ての造りになっていて、1階が男性、2階が女性の部屋と割り当てられている。男子禁制ではないけれど、2階に男性教諭が来る事はほぼ無い。
 8畳くらいの部屋の中は質素だけど、綺麗だし、ベッドはふかふかで大きいし、各部屋ごとに浴室が完備されている。学生寮のような設備が整っていなくても、十分すぎるほど贅沢な部屋だ。
 とはいえ寮自体は男女共同である事に変わりは無く、私物の持ち込みや家具の配置など、それなりに制限も細かく定められている。

「1人暮らししようかなー……」

 ぽつりと呟く。
 それは以前から、何度も考えていた事だった。

 寮と校舎は目と鼻の先だから、通勤は楽。
 ただ生徒や先生方の目につきやすく、気が休まらない事もある。
 休日くらい学校や生徒の事に囚われず、自分だけの時間を過ごしたいと思うのは当然の事。
 けれど多忙な日々の中にあると、引越し作業や手続きが面倒という理由で躊躇してしまうのが現実だった。



 睡魔に飲み込まれそうな体をもう一度起こして、バスタオルを片手に浴室へと向かう。
 さっさと化粧を落として、シャワーを浴びて寝てしまおう。
 そう思った、その矢先。


 ───コンコン。

 控えめにドアをノックする音が、聞こえた。


「……はーい」

 タオルを一旦ベッドに置いて、ドアへ向かう。
 こんな時間に部屋に来るのは、同じ階に住む女性教諭の仲間達だけだ。
 彼女達はいつも突然部屋にやってきて、お酒や菓子を摘んで一緒にお喋りする事も多かったりする。
 異性よりも、同性と一緒にいる方が気楽で落ち着くと、そう思うことも増えてきた。

「隣の先生かな?」

 何か用事でもあったかな。
 そんな事を呑気に考えながらドアノブを捻る。
 ガチャ、と1枚板で隔てていた視界が開けた。

「あ、ほんとにいた」
「………」

 ……今、一番会いたくない奴が目の前にいた。

 反射的に体が動く。ドアノブを強く引き寄せて、勢いよく扉を閉めた───つもりだった。

 扉が完全に閉まる寸前、ガン! と何かがドアにぶつかる音が響く。驚いて見下ろせば、彼の片足のつま先部分がドアの間に挟まっていた。
 咄嗟に謝ろうとして、すぐに思い止まる。

 ……違う、わざと片足をねじこませたんだ。

 そんな私の一瞬の躊躇をチャンスに変えた彼は、半開き状態のドアを手でこじ開けて、強引に部屋の中に身体を割り込んできた。
 成す術も無く呆然と立ち尽くす私の前で、「こんばんは」と彼は深い笑みを浮かべている。
 そして後ろ手で、静かにドアを閉めた。
 ご丁寧に、鍵まで掛けてくれる始末。

 意図しない形で彼を招き入れてしまって、どうして事前に確認しなかったんだと自責の念に苛まれる。
 けど、もう遅い。

「いきなり閉めるとか酷くないですか」
「申し訳ありません。不審者だと思って」
「寮の中に不審者とか危険極まりないですね。俺のマンションはセキュリティー万全で安全ですよ」
「では今すぐ安全なご自宅にお帰りください」
「なんなら俺の部屋に引っ越します?」
「何の用ですか」

 頑なに拒む私に、彼は探るような視線を向けてくる。

「……そんなに警戒しないでください。何もしませんよ」
「………」
「さすがに昨日はやり過ぎたと思って、謝罪しに来たんです」
「……謝罪?」

 今更? と沸いた疑念は、胸の内に止めておく。

「それと、俺はまだ納得していないので。もう一度話したくて」
「………」

 彼の言う事が本当ならばありがたい、とは思うけれど。
 完全に信用していいのだろうか。
 この人のことを。

「……私も、貴方ともう一度話したいと思っていました」
「はい」
「ですが、今日はもう遅いですし。お話は明日、時間の空いている時にしませんか?」
「こんな話を校舎内でするつもりですか? 生徒に聞かれる可能性だってあるのに」
「………」

 彼の言う事は最もだけど、貴方がそれを言いますか? と突っ込みたい。
 誰が通ってもおかしくない校舎の廊下で、あんな狼藉を働いたのはそっちの癖に。
 けど、今それを咎めても仕方のない事だ。

「こんな時間に、女性教諭の部屋に男性教諭がいる事がバレたら、それこそ問題になりかねませんよ」
「じゃあ、謝罪だけでも」
「……もういいですよ。犬に噛まれたと思って忘れますから」

 自分から折れる形で話を済ませよう。
 早く帰ってほしい一心でそう告げたのに。

「え、それはキスの話ですか?」
「は?」
「俺、キスした事を謝罪するなんて一言も言ってないですけど」
「………」

 何なのほんとに。
 人の神経を逆撫でする天才なのかこの人。

「……あの、昨日の何を謝罪するつもりだったんですか」
「いや、仮にも先輩に対して態度悪かったかな、って」
「………」

 仮にも、とか。
 全く誠意を感じられない、あっけらかんとした口調。
 やっぱり話し合いをしても無駄かもしれない。心底呆れてしまう。
 この人、初めから謝罪する気なんてさらさら無いんじゃないの。

「とにかく、明日もう一度話しましょう。今日はもう帰っ……、」

 途中で会話が途切れてしまったのは、彼の手が腰に伸びてきて、強く引き寄せられたからだ。
 不意に近づいた距離に驚く暇も無く、そのまま口付けされる。離れようにも後頭部に添えられた手に抑え込まれて、それも叶わない。

 ……何もしない、って、言ってたくせに。
 やっぱり信用できない。

 力任せなやり方に怒りすら沸いたが、途中で弟の台詞が頭をよぎって冷静さを取り戻す。
 そうだ。
 この人の言う事する事にいちいち反応してたら、それこそ彼の思うツボだ。青春真っ盛りの学生じゃあるまいし、酸いも甘いもそれなりに経験してる。キスのひとつやふたつで狼狽える必要なんて無い。
 不快感はあるけれど、耐えられる。
 ぐっと拳を握り締めながら、彼の口付けが止むのを、私はただ静かに待った。





 ……けれど、結局私は彼の本質を全く見抜けてはいなかった。
 結果から言えば、この判断が全ての間違いだった。
 彼はどこまでも、私の予想の遥か上をいく厄介者だった。


「……今度は大人しいんですね」
「これで満足しましたか」
「………」
「帰ってください」
「……もう少しだけ」

 そうしてまた唇を塞がれる。

 繰り返されるキスを甘んじて受け入れていたら、緩く結んだ唇をこじ開けるように、肉厚な感触が入り込んできた。
 僅かに体が反応して、思わず漏れそうになる吐息をかろうじて抑え込む。
 どうして好きでもない男とキスしなきゃいけないのかと、どこか冷静な自分が目の前の現実を嘆いていた、その時。

 顎を掴んできた彼の手によって、ぐっと上を向かされた。
 自然と爪先立ちになってしまい、前のめりに傾きかけた体を支えようと、咄嗟に彼の胸を掴んでしまう。

 その直後、喉の奥で感じた異物感。
 錠剤。

 無理やり上を向かされている体勢で抗うのは難しかった。こくん、と喉が鳴る。
 薬品のような苦味が口の奥で広がった、気がした。


 ………何?

 なにか、飲まされた。


「………」
「……どうしました?」
「……何…を、飲ませたんですか」
「最近の錠剤っていいですね。小さいし、水要らずで飲めるし」
「何飲ませたんですか」
「身体に害はないですよ。俺も使ってる睡眠薬ですから」
「………」

 ………本当だとしたら、最悪だ。

「っ、最低……! もう帰って!」
「嫌ですよ。何の為に此処に来たと思ってるんですか」
「頭おかしいんじゃないの……っ」
「口悪いですね」
「……っ」

 謝罪したい、と言っていた。
 話したいとも言っていた。
 けどあれは全部嘘だ。
 この人、謝罪する気なんて最初から全くなかったんだ。



 男が女の部屋に来て、睡眠薬を飲ませる理由。
 そんなの、どう考えても悪い想像しかできない。
 身の危険を感じて、一歩後ずさる。飲まされたものが睡眠薬だったとしても、即効性がある訳じゃないから効くまでに時間がある。彼がこの部屋を出て行く気がないなら、私がこの部屋から出ればいいだけの話だ。
 他の先生達がいる部屋まで逃げ切れば、難を逃れられる。逃げ込んできた言い訳は後で考えればいい。

 そう判断に至れば体は動く。腰に回されている彼の腕を、思い切り振りほどいた。
 そのままドアへと駆け出して、扉の内側にあるつまみの部分を横に捻る。カチ、と鍵の外れる音が響いた。

 早鐘のように打つ心臓の音が煩くて、精神を掻き乱される。無機質な鉄の音に、救われたような気持ちになるなんて生まれて初めてだ。


 逃げられる。
 そう思って、ドアを開けようとして。







「………え」


 ドアが開かない。
 そもそもドアノブが捻らない。
 早瀬先生が追いかけてくる気配も無い。


 ───それは彼が、このドアが開かない事を既に知っていたからだ。


 彼が無理やりこの部屋に入ってきた時、後ろ手でドアを閉めていた。鍵をかけていた。
 あの時に、何か細工でもしたのか。
 あの、僅かな時間で?

 青ざめる私の後ろから、彼が一歩、また一歩と近づいてくる気配を感じた。
 背後から伸びてきた指がドアに触れ、つまみをカチリ、と横に捻った。
 そして無情にも、再び鍵が掛けられる。
 その流れを、ただ黙って見つめることしか出来なかった。

「……残念でした」

 耳元に落とされた囁きは、まるで私を嘲笑ってるかのようで。

 ドアノブを掴んだままの私の手を、彼の手がゆっくりと外した。
 そのまま後ろに引っ張られる。
 振り向いた先にあった彼の表情は、どこか甘い顔立ちで私を見下ろしていた。
 優しさを帯びた柔らかな笑みと眼差し、手から伝わる温もり。その全てが、胸焼けしそうな程の甘ったるい雰囲気を醸し出している。危機的な状況なのに、妙な高揚感に囚われた。

 思考が鈍くなってきた。
 身体も重い。
 心地いい眠気と甘い雰囲気に抗う術を、私は知らなかった。

 こめかみに、彼の唇が触れる。
 柔らかな熱が少しずつ下がって、耳朶にキスが落ちた。
 ぞわりとした感覚が背筋を駆け巡って、力の入らない体はそれだけで崩れ落ちそうになる。思わずふらついた身体を、彼の腕が支えた。
 やんわりと腰を抱かれて、もう片方の手は指と指を絡ませてくる。
 そのまま耳を甘噛みされて、くすぐったさに身を捩る。

「やだ……っ……」
「……ふ、やだ、って。……可愛い」
「っ……」

 ちゅ、と愛らしいリップ音が鼓膜に響き、胸に甘い疼きが湧く。

 ……なんで。
 嫌なはずなのに、こんなのおかしい。
 動揺している私の耳に、早瀬先生は唇を押し付けたまま話し始めた。

「……昨日は友永先生と随分、楽しそうにお話してましたけど」
「……や…っ」
「気をつけてくださいね。あの人、葉月先生のこと狙ってるようなので」
「そ、んなわけ……っ」
「まあ、渡しませんけど」

 耳元で囁かれ、直接的な刺激に体が震える。下唇を噛み締めて耐えていると、彼の体がゆっくりと離れた。
 絡めた指同士は繋がれたまま、部屋の奥へと誘われる。

「……早瀬先生、待って……」
「……もう、効き始めてるんでしょ」
「………」
「……ベッド、行きましょうか」



 抗いたいのに、また抗えない。
 五感全て失われていくような感覚に晒されながら、昨日の彼の言葉を思い出していた。

 諦めない、と言った。
 全力で口説くと告げられた───あの言葉を。

mae表紙tugi

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