似合ってます 「職員室に忘れ物をして、戻ってきたんですけど。そういえば寮の中って見たこと無いなと思って、立ち寄ってみました」 学生寮って結構広いんですね、そう話しかけてくる彼に、昨日の無愛想で冷ややかな態度は微塵も感じられない。 それどころか柔らかい笑みさえ浮かべていて、そのあまりの温度差に恐怖さえ覚える。 今更ながら確信した。 愛想が良くて穏やかな人に見えたあの姿は、全部作ったものだったのか。 「……そ、そうですか。あ、じゃあ私はこれで、」 「葉月先生、ブラックいけましたよね?」 「え?」 急いでこの場を離れようと腰を上げた時、狙いすましたかのように告げられた一言に動きが止まる。 視線を向ければ、2人分のコーヒーカップがテーブルの上に置かれていた。 湯気とともに香り立つ珈琲の匂い。 そのうちのひとつは、彼自らの分だろう。 残りのもうひとつは、いわずもがな。 ………やられた。 用意周到にも程がある。 「ブラック、飲めませんでしたっけ?」 「……いえ、頂きます。ありがとうございます」 「いえ、ついでなので」 茶化すように言われて、唇を噛み締める。 食堂にはまだ生徒の姿が多く、ここで不自然な態度を取って怪しまれるわけにはいかない。椅子に座り直し、渋々カップを受け取った。 さっさと飲んで、早くこの場を立ち去ろう。 そう思っていたのに、彼はどこまでもしたたかだった。 「葉月先生、学生寮にもよく来られるんですか?」 「普段は来ませんよ。生徒も、寮にまで教師の目があるのは嫌だろうし」 「それは、まあ。確かに」 「ここのコーヒー、無料なんですよ」 「食堂に珈琲メーカーが置いてあるんですね」 「生徒はあまり使っていないみたいですけど」 「もったいないですね」 「ですよねー。使わないんだったら、あれ貰えないかな……なんて、思ってるんですけど」 「貰えたら教えてくださいね。俺、部屋まで飲みに行くので」 「………」 つい反論しそうになって、ぐっと堪えた。 言葉の節々に含みが込められているような気がして、どうにも落ち着かない。 「……何かありましたか?」 「え?」 「元気なさそうに見えるので」 よくもまあ、いけしゃあしゃあとそんな台詞が吐けるものだと憤慨する。 誰のせいだ、と声に出せない代わりに相手を睨んでやろうと顔を上げて、後悔した。相手を気遣うような優しい言葉を掛けておきながら、彼の瞳はとても愉快そうに笑っていたからだ。 顔、見るんじゃなかった。 わざと心配している風を装っているだけで、今の台詞も、私の反応を見る為だけに投げかけただけの言葉だ。 最悪だ。こんなに失礼な人だとは思わなかった。 「……いえ、何もないです」 「本当に?」 「すみません、気を遣わせてしまって」 「何でもないなら、いいんですけど」 「職業柄、生徒や他の先生方の相談事をよく受けるので、色々考え込んでました」 「スクールカウンセラーみたいなものですか」 「そんな大げさなものじゃないですよ」 「抱え込みすぎて、葉月先生が倒れないか心配です」 「残念ながら、そんなやわな性格じゃないので」 引きつった笑顔で、無難に返答を返す。多少言葉がキツくなってしまうのは、相手が相手なだけに仕方ない。 というか、会話が全く途切れないのも意図的なんだろうか。早くこの場を離れたいのにその隙がない。 さっさと飲み干したいコーヒーも、彼とのマシンガントークの所為で量が減らない。 「生徒も様々な悩みを抱えているだろうし、1人では大変ですよね」 「大変じゃないと言えば嘘になりますが。でも、生徒1人1人と向き合っていきたいですし」 「俺達の掛けた一言が、彼らの今後に関わってくる事もありますからね」 「そうですね。難しいけれどやりがいはあります」 「でも、倒れそうになった時は遠慮なく言ってくださいね」 こくん、と残りのコーヒーを全て飲み干して、綺麗な笑顔を披露される。 「全力で介抱しますので」 全力でご遠慮願いたい。 「抱え込みすぎて倒れたら元も子もないですしね。程ほどにします」 遠まわしに拒否ってみるものの、当の本人はやっぱり楽しそうに、喉の奥でくくっと笑う。 「面白いですね、葉月先生って」 「何がですか」 「笑顔、引きつってますよ」 「気のせいですよ」 「会話も刺々しいですし」 「気のせいです」 「結構、クールで毒舌なんですね」 「ほっといてください」 「昨日のキスは情熱的だったのに」 「……なっ……!」 周りには生徒がたくさんいるのに、恥ずかしげも無くそんな事を言うなんて。 驚きで唖然としている私の両手から、コーヒーカップが滑り落ちそうになる。慌てて持ち直せば、彼がゆっくりと顔を寄せてきた。 そして周りに聞こえない程の声量で囁く。 「……大丈夫ですか? "気さくで話しやすい"保健の先生の仮面、剥がれてますけど」 「……っ」 何なのこの人。 なんで、こんな棘のある一言が言えるの。 絶句してる私にしなやかな指が伸びてくる。 手にしていたコーヒーカップをさらりと奪われて、彼はそのまま口元へと運んだ。 そして全て飲み干されてしまう。 ……それは確か、貴方が私にくれたコーヒーのはずですよね。 結局貴方が飲むんですか。おかしい。 そのまま席を立った早瀬先生は、今しがた空になった私のコーヒーカップを、自分の分と一緒にゴミ箱へ捨ててくれた。 そのまま立ち去っていく後ろ姿を、私は呆然としながら目で追うしかない。 この場を離れていく彼に声を掛けた数人の男子生徒が、早瀬先生の周りを囲むように話しかけて盛り上がりを見せていた。 仲良さげに会話をしている様子を眺めていた最中、不意に彼が私に視線を送る。意味ありげな笑みを浮かべて、自身の肩をトントン、と人差し指でこづいていた。 意味がわからなくて首を傾げたら、彼はおもむろに口を開く。 "かみ、" 音は発してなかったけれど、口の動きからそう言ってるのがわかった。 かみ。……かみ? あ、髪。 結び直すこともせず放置している髪は、勤務中に解くことは絶対にしない。今だけだ。 その髪の一束を緩く掴み、早瀬先生に視線を送る。うん、と軽く頷いた彼の口が、またもや違う言葉を紡いだ。 "似合ってます" 「……っ!」 頬が紅潮していくのが、自分でもわかった。 ただ髪型を指摘されただけなのに、ものすごくむず痒い。 そんな私の変化すらも、やっぱり楽しそうに笑っているんだろうと彼を睨みつけようとして、けれど出来なかった。 私に向けられた眼差しが酷く優しかったから、睨みつけるどころか、つい目を逸らしてしまった。 ………本当に何なの。 デリカシーなく人を傷付けたかと思えば、急に優しくなったり。意味がわからない。 早瀬先生の姿がその場から消えて、嵐が去った後のような安堵感に包まれる。一気に緊張が解けて、途端に呼吸が楽になった。 瞳を閉じ、そうして思う。 先輩として、女として。彼ともう一度話をした方がいいのかもしれない。 例の校則がある以上、彼の告白も交際の申し込みも、受け入れるつもりはない事。 今は誰とも恋愛する気がない事。 彼に対して、後輩以上の感情を持ち合わせていない事も、全部。 理解して貰えるかは、あまり自信が無い。 それほどまでに、彼の告白には迷いがなかった。 けれどこのまま曖昧に事を流すのは、性に合わない。 彼が本気で私を想ってくれているのであれば、私にその意思がない事を、もう一度伝えるべきだ。 あの人だって馬鹿じゃない。 冷静になれば、何が間違っていて何が正しいのか、きちんと理解してくれるはず。 今度、彼と2人きりになった時に話し合おう、そう心に決める。 そしてその機会は、全く意図しない形で、意外にも早く訪れた。 トップページ |