大好きです


「葉月先生」

 教員用玄関口にたどり着いた時、背後から声を掛けられた。
 振り向いた先には、マスク姿の早瀬先生の姿。
 分厚いコートにマフラーをぐるぐるに巻き付けて、完全防寒だ。

「おはようございます、寒いですね」
「そうですね」

 季節は初冬間近の11月。日を追うことに、朝晩の空気も冷えてきた。けほ、と軽く咳き込んでいる早瀬先生の顔を覗き込む。

「大丈夫ですか?」

 尋ねれば、彼は静かに頷いた。
 この寒空の下では、喉の調子もいいとは言えないだろう。冷たい空気は喘息患者にとって苦痛のはずだ。喋るのも大変そう。
 彼を見やれば、早瀬先生はしきりに耳の裏側を触っている。「……痛い」と、一言だけ呟いた。

「あ、マスクって耳痛くなりますよね」
「はい。ちょっと困ってます」
「じゃあ、これ使ってください」

 バッグの中からメンズ用のマスクを取り出して、2枚ほど彼に差し出した。受け取った早瀬先生は不思議そうに首を傾げている。

「このマスク、すごいんですよ。1日中つけたままでも、全然耳が痛くならないんです。私、マスクは絶対にこれって決めてますから」
「へえ……」

 薄いビニール袋に入っているそれを、彼はためつすがめつ眺めている。

「見た目は普通ですね」
「そうなんです。コンビニでも普通に売ってますよ。騙されたと思って使ってみてください。ちょっと値段高いけど、他のものとは全然違いますから」

  急激に寒さが増したお陰で、体調を崩す生徒も多い。風邪をひきやすい時期でもあるから、感染防止の為にもマスク着用を勧めている。そんな中、よく耳にするのが「耳が痛くなる」という生徒の声だった。
 だから、このマスクをお勧めしてる。冗談抜きで、このマスクの良さは折り紙つき。お陰様で、このマスクを使ってみた生徒や教員の方から絶賛の声が届いているくらい好評だ。

「ありがとうございます、使ってみます」
「……とか言っておきながら、もし痛くなったらごめんなさい」
「信用してるので」
「あ、今プレッシャーかけましたね?」

 悪戯っぽく笑えば、彼も小さく笑う。この人はたまに、意地の悪い切り返しをしてくる事がある。以前の私なら、神経を逆撫でされているようで不快な気分になっていただろうけど、今はそんな茶化しすら、仲良くなった証のように感じて嬉しくなる。
 友永先生のお陰で緊張が解けなくて、常に神経を尖らせている毎日が続く中、早瀬先生と話をしている時だけは唯一、心が和らぐ時間だった。
 空気がゆっくりと流れているような不思議な感覚が、彼の周囲には存在してる。もともと喋り方や態度がゆっくりな人だから、余計にそう感じるのかもしれない。隣にいても居心地がよくて、穏やかな気分になる。マイナスイオンでも発してるんじゃないのかなって本気で思っちゃう。

 ずっと苦手だった人なのに。
 苦手故に、いつも意識していたような気がする。
 彼の胡散臭そうな笑顔が視界の端に映る度に、嫌な気分になって。気にしなければいいのに、いつも気になった。 頭の片隅に、いつもこの人の存在があった。

 苦手意識が無くなった今、彼に対する印象は、私の中でどう変わっていくのだろう。
 どこか冷たい印象を感じていた彼は、実はただ口下手なだけで、どうしようもなく不器用で真っ直ぐな性格の持ち主だった。お菓子が好きなところも含めて、ちょっと子供っぽくて可愛くて。そのギャップにやられている感じはある。
 でも恋愛とは、また違う。
 絶対に仲良くはなれないと思っていた人と仲良くなれた。だから舞い上がってる、だけ。

「……なのかな?」
「え?」
「あ、なんでもないです」

 慌てて手を振って会話を遮る。自分でもまだ識別できていない、彼に対する不透明で不確かな想いに蓋をする。

 恋愛ではない。
 でも、ただの同僚とも違う。
 もう少し踏み込めば変わってしまいそうな感情に、気付かない振りをする。
 彼と和解して、少しだけ親しい仲になれた。
 今は、それだけでいい。

「……あの、これ」

 ロッカーに手を掛けた時、控えめな声が耳に届いた。目を向ければ、早瀬先生の手には一輪の黄色い花。最近では滅多に見られなくなった種類のものだ。
 時期外れにも関わらず、それは彼の手の中で凛と咲き誇っている。

「……たんぽぽ、ですね」
「11月にこれを見たのは初めてです」
「私も」

 無言のまま差し出されたそれを素直に受け取った。今日の貢ぎ物はお菓子じゃなくて花らしい。
 日本のたんぽぽは、春から夏に花を咲かせる。秋以降も咲いているものがあるとすれば、それは四季咲きの花。セイヨウタンポポがそれにあたる。
 でも、見た目は日本のたんぽぽと何も変わらない。

「……まさか、この歳で花を貰うなんて思いませんでした」
「花、嫌いですか」
「いーえ、大好きです」

 高級を謳う花を貰うよりも断然嬉しい。特別な人から貰ったものは、何だって特別だ。
 そんな事を思って、そう思ってしまった自分に苦笑する。

 特別って。
 まるで彼を好きな人みたいに。
 浮かれすぎてどうしようもないな、って思う。






 早瀬先生と別れた後、保健室へと向かう。開錠して、まず始めるのはベッド周りの整備だ。
 毎朝8時に行う会議の後に保健室に戻ると、既に待機している生徒もいる。私が不在でも彼らが困らないように、先に出来ることはやっておかないといけない。
 そして整備が終わった後は、校内巡視の業務がある。作成しなければならない書類もあるし、今日もやらなきゃいけないことは沢山だ。

「……と、その前に」

 ガラスコップを手にとって、半分ほどの水を注ぐ。その中に、貰ったタンポポを差し入れた。
 日の当たる窓辺に置けば、いい感じの方向に傾く。インスタ映えしそうなインテリアに仕上がった。 タンポポを軽くこづけば、水面と共に小さく揺れる。

「かわいい」

 一息ついてからバッグを手元に置く。りん、と鈴の音が耳に心地いい。
 早瀬先生から貰ったりんごのキーホルダーが、日差しに照らされてキラキラ光る。日々貰うお菓子といい、花やキーホルダーといい、あの人からの貰い物が徐々に増えていく。それを嬉しく思う自分がいた。

 ───コンコン。

 控えめなノック音が保健室に響いたのは、その直後。ベッドシーツを替えようとしていた手を止めて、扉の方に目を見やる。曇りガラスにはうっすらと、人の影が映っていた。

mae表紙tugi

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