大丈夫、だよね ・・・ 「友永先生」 「はい」 3限目が始まる前の休憩時間。 職員室に赴いて、目的の人物に声を掛ける。 各クラスごとに担当授業を指導する教師達の休憩は、あって無いようなものだ。10分程度しかない僅かな時間で、次に担当するクラスの授業内容を全て確認しなければならないから。 だから基本的に、朝礼時とお昼休憩時、そして放課後以外はあまり声を掛けないようにしてる。仕事の邪魔になってしまうからだ。 特に問題が無ければ、出席簿も一言声を掛けて手渡すだけ。居なければ、机の上に置くだけだ。 件の彼も、できれば後者である事を願いたかったけれど、今日は外れに終わった。振り向いた友永先生は、以前と何ら変わりない爽やかな笑顔を私に向けた。 「……お疲れ様です。出席簿、お返しします」 「ああ、はい」 私から受け取ったそれを机の上に置き直し、友永先生は私を見上げた。 「福原の件ですが」 ひとりの女生徒の名前を口にした彼の、穏やかだった瞳が真摯なものに変わる。 「はい……福原さん、お休みが続いてますね」 福原さん、というのは、友永先生が担任を務めているクラスの生徒。体調不良を理由に、今日で3日間学校を休んでいる。 彼女は生まれつき体が弱く、こうして数日間休むことも稀ではない。出席できたとしても、保健室でほぼ1日を過ごす事も多い。いわゆる保健室登校を繰り返している、生徒のひとり。 彼も、福原さんの事は気に掛けているみたいだ。 「放課後、彼女の家に行ってみようかと思います」 「そうですか。親御さんには確認取れていますか?」 「それは、大丈夫です」 淡々と会話を交わしているけれど、これはちゃんと意味のある会話。生徒の心身的不調の背景には、心の問題が重なっている事も多い。私はそれに、いち早く気付かなければならない立場にある。 近年のいじめ問題が社会的に問題視されている中、養護教諭のヘルスカウンセリングは特に重要な役割を担っている。いつだって生徒の気持ちに寄り添い、彼らの学校生活を支援するのが、養護教諭である私の最重要任務だ。 その為に、生徒達の心身、精神的な状態は常に把握しておかなければならない。生徒と関わる機会の多い教員の方々と情報交換をするのも大事な業務。たとえ、相手が苦手な人だったとしても。 「福原さんの容態、良くないんでしょうか」 「行ってみない事には何とも。福原の様子も含めて、彼女の両親にも話を伺うつもりではいますが」 「わかりました。明日、報告を頂いてもよろしいですか? 私も気になりますので」 「気になるのでしたら」 その一瞬。 彼の目に、冷えた何かを感じた。 「一緒に行かれますか?」 「え……」 思わず言葉を失った。 一緒に行こうと誘われてる。 それはわかる。 彼女の様子も心配だし、本人やご両親から直接話を聞きたい気持ちもある。 でも、本当にそれだけ? 彼と2人で行くという事は、行き帰りは当然、2人きりになる。もしこの人がまた私に接触しようと思っているなら、この機会をみすみす逃したりするだろうか。 緊張でこくん、と喉が鳴る。 探りを入れるように彼を見返してみても、穏やかに微笑まれただけで、その発言の裏にある意図を読み取ることは出来なかった。 「……いえ、報告だけで大丈夫です」 「わかりました。では明日にでも」 あっさりと頷いて、友永先生は席から離れた。私もその場をすぐに離れ、手に抱えている出席簿を次々と返していく。職員室から出て行く彼の姿を遠目に見届けてから、安堵の息をついた。 2人きりになってしまう状況は回避できたものの、不安要素は依然として残っている。彼の誘いの言葉が脳にこびりついて離れなかった。 私は基本、保健室から離れられない。 あの場所を長時間、空けるわけにはいかないから。 理事長や保護者の許可を取れば、私が付き添いとして着いていく事も可能かもしれないけれど、それはあくまでも、生徒の症状が深刻な場合だけだ。今はまだ、その段階に無い。 私はそう判断した。 彼だってそれくらいは知っているはずだし、そう判断できるはず。 もし、知っていてのあの発言だったとしたら。 そう思ったとき、ぞくっと背筋に悪寒が走った。 「……やっぱり」 彼と2人きりになるのは危険だ。 あの目に一瞬、得体の知れないものを感じた。 そもそもあんな事をしておいて、平然としている事自体おかしいんだ。異常すぎる。 安易に近づかないほうがいい。 本能でそう悟った。 この1ヶ月、彼と2人きりになるような状況はなかった。 保健室は人の出入りが激しく、休憩時間でも放課後でも、誰かしら保健室にいるような状況だ。授業中は私1人でいる事も多いけど、担当教科を受け持っている友永先生は多忙の身だし、滅多に此処へは来れないはす。 前に保健室で襲われたのは、10月の中間考査の最中だった。 次にまた同じような状況下になるとしたら、今月末にある期末考査。 あの日は自分から保健室へと連れ込んじゃったようなものだし、今回はそうならないように気をつければ大丈夫だと自分を納得させた。 幸い、テスト期間前は職員室にいる事が多い。下校時間が早い生徒が出入りしないよう、早々に保健室を締めてしまうからだ。極力、1人きりにならないような状況を作ることは出来る。 だから、大丈夫。 自分の身くらい、自分で守るから。 もう2度と、あんな馬鹿なことはしない。 胸に押し寄せる不安を振り切って、何度も心の中で繰り返した。 大丈夫。 大丈夫。 大丈夫だと勝手に思い込んでいたから、私は何も気付けなかった。 大丈夫だと───彼にそう、思わされていた事に。 彼が仕掛けていた罠に、私はもう、まんまと嵌まってしまっていたんだ。 ・・・ 「お」 手鏡をかざしてチェックする。 「……クマが消えてる」 長年ずっと悩まされ……てもいなかったけれど、化粧でなんとか誤魔化していた、目の下のクマが綺麗に消えていた。病院で処方してもらった睡眠薬のお陰か、ここ最近はぐっすり眠る事ができている。その効果だろう。 ぐっすりと言っても5、6時間程度の睡眠時間だけど、それでも私にとっては長い方だ。早朝に目が覚めることも今はなく、睡眠時間が増えたことで体の調子も良くなった。 でも、だからって時間ギリギリまでベッドに潜っているわけにもいかない。職員会議が始まる8時までには学校へ赴き、生徒達が登校してくる前に、保健室の整備をしなければならないからだ。校内巡回を徹底することで、衛生状態に問題がないかをくまなくチェックする業務がある。 他にも処理しなければならない事務作業も沢山あるし、怪我をした生徒の手当や、彼らの話を聞いてあげつつ、合間に作業をこなしていかなければならない。時期的に仕事の量が増えることも多いし、17時が定時となってはいるものの、その時間帯に帰れることは滅多にない。 そう考えると本当に、心底この仕事が好きじゃないと養護教諭は務まらないと思う。 プロ意識って大事だな。 そう思いながら、手鏡をポーチに戻す。 その時、ある物が目に入った。 「……これ」 それは1ヶ月前に使用してから、その後は1度も使われていない避妊薬。念の為にとポーチに忍ばせていたけれど、あの日以来、手に取る事はなかった。 後日、産婦人科で服用後の検査をしてもらったけれど、避妊がちゃんと成功した事も確認済みだ。副作用は多少あったけどすぐに回復したし、間違いなく生理も来た。もう妊娠の心配はない……と思うけど。 「……大丈夫、だよね」 もうあんな事はしない。 あんな事にはならない。 そう何度も繰り返しながら、ポーチから取り出した避妊薬をキャビネットの奥に仕舞いこむ。もう、2度と使用する機会が来ないことを願いながら。 トップページ |