行きませんから


 時間は7時を過ぎたばかり。こんなに朝早い時間帯に、此処に来るだろう人物は大体限られている。部活動の朝練に来ている生徒が大半だ。

 私は仕事柄、朝礼会議の前にやらなければならない業務が多い。だから、他の教員の人より通勤時間は早い。私よりも先に来ている教師はほとんどいない。
 この時も、朝練で怪我をした生徒が来たのだろうと勝手に思い込んでいた。

「どうぞ、鍵開いてますよ」
「失礼します」

 だから。
 ごく自然に返されたその声に、私の体は一瞬にして凍りついた。
 あ、と思う暇もなく、引き戸が開けられる。

「おはようございます」
「……おはよう、ございます」

 警戒心からつい声が低くなってしまった。そんな私に構うことなく、彼は保健室の扉を静かに閉める。悠然とこちらに向かって歩み寄ってきた友永先生を、私はじっと見つめた。
 危機感を察知した心臓が、馬鹿みたいに暴れだす。どくどくと煩い心音が、余計に不安を煽る。



 ───あの人が1人で保健室に来たらどうしようと、最近考えることはそればかりだった。同時に恐怖も抱いていた。
 でも、そんな日はいつまで経っても訪れない。
 何かしら用があって彼が此処を訪れたことは何度かあるけれど、授業中に体調を崩した生徒や怪我をした子に付き添う形で来ただけだ。プライベートな用件で訪れた事は一度も無かった。
 あれから1ヶ月経って、警戒心も薄れかけた頃にやって来るなんて思ってもいなかった。だから今も、直前まであの日のことを忘れかけていたわけで。

「……福原さんの件でしたら、もう報告は受けましたけど」

 得も知れぬ恐怖に飲まれないように言葉を紡ぐ。動揺を悟られないように平静を装った。あくまでも仕事仲間だという態度は崩さない。
 それでも念の為にと、ベッドから離れて窓際に身を寄せた。

 こんな早朝に訪れた彼の用件を、私はまだ聞いていない。でも彼の、この態度は明らかに同僚のそれとは違う。とても仕事の用件で来た仲間の顔じゃない。余裕の笑みを浮かべているその目は冷えていて、先日、一瞬だけ垣間見えたあの黒い眼差しが、再び私を射抜いている。
 つい逃げ腰になってしまった私に、友永先生はさも可笑しそうに口端を吊り上げた。

「そんなに怯えなくても。さすがに生徒が来るかもしれない時間に襲ったりしないって」
「……」

 その言葉に信用性は全くない。

「そうやって意識されると、逆に襲わなきゃ失礼かなって気分になるんだけど?」
「何の用ですか」
「紙きれで指、切っちゃってさ。絆創膏貰いたいんだけど
「……」

 はい、と手を出して催促する彼の指先に、小さな傷痕が見える。嘘ではなさそうだ。
 催促されれば、断ることができない。戸棚の引き出しから絆創膏をひとつ取り、彼にそのまま差し出した。
 先に傷口の状態を見てから適切な応急処置をするのが私のやり方だけど、今の彼に近づくのは躊躇われる。また以前のような事が起こるなんて考えたくはない。
 そんな私の心情なんてとっくに見抜いているのだろう、彼は何も言わずに絆創膏を受け取った。
 そして、窓辺に置いた花に視線を移す。

「生徒が」

 彼が何かを言う前に、つい口が出てしまう。

「生徒に、頂いたもので」
「ふーん。花といい手作り菓子といい、あんたって何でも貰うね」
「……」

 嫌味とも取れる一言に口を閉ざす。本当は早瀬先生から頂いたものだという事は、なんとなく言ってはいけないような気がした。
 沈黙を貫く私をよそに、友永先生の視線が周囲をぐるりと見渡す。人が来る気配が無いのを悟ったのか、本来の用件を口にした。

「今度、いつ来る?」
「……どこにですか」
「俺の部屋」
「行きません」

 彼の誘いに条件反射で答えていた。

「あんたに拒否権あると思う?」
「行きませんから」

 たとえ脅されたって、行くつもりはない。
 とにかく早く出て行ってほしい一心で、頑なに彼の誘いを拒む。

「来ないんだ?」
「行きません」
「まあいいけど」

 あっさりと身を引いた彼は、絆創膏を手に持ったまま離れていく。
 そして保健室を出て行った。
 小さくなっていく足音に、安堵の息が漏れる。

「……はあ」

 恐怖と緊張から解き放たれて力が抜ける。何も起こらなかった事に心底安心した。
 でも、随分とあっさり身を引いたな、と首を傾げる。もしかして諦めてくれたのかな。
 そうなのかもしれない。
 あの日、狂気とも思えるあの人の執着っぷりを見た時は恐怖を覚えたけれど、彼だって男だ。頑なに自分を拒む女を前に、また抱きたいなんて思わないだろう。誘いの言葉をかけたのも、やっぱり本意じゃないのかもしれない。

 そう、思いたい。

mae表紙|tugi

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