直しますね 生徒で賑わう廊下の先。 教室前でたむろう男子生徒より、頭ひとつ分ほど高い背丈が視界に入った。 姿を見かける度に心が弾むのは、どうしてかな。 「おはようございます〜」 舞い上がる気持ちを抑えつつ声を掛ければ、当の本人が振り向いた。 「おはようございます」 律儀に頭を下げる早瀬先生の、後ろ髪の一部がぴょこ、と不自然に跳ねた。 寝癖、気付いてないのかな。 「はよー葉月ちゃん」 「はいはいおはよー」 「えっ、なにその適当な感じ?」 彼と一緒にいた男子生徒が肩を落とす。早瀬先生のあだ名の名付け親でもあり、もはや保健室の常連客となっている霧島くんだ。 この2人が一緒に話をしている場面を見るのは、今日が初めてのことじゃない。実はもう何度も見かけてる。 霧島くんの選択科目は音楽じゃないし、早瀬先生との接点はあまり無さそうに見えるのに。いつも2人で何の話をしてるんだろうと気になって尋ねてみたのが、2週間前のこと。 この2人には、意外な共通点があった。 「あ、また」 彼らの手元を覗けば、そこにはサイコロ柄の紙箱が2つ。幼い頃に駄菓子屋でよく見かけた、キャラメル入りの小さなお菓子が握られている。何でも駄菓子を集めることが、2人のマイブームらしい。 しかもコンビニで見かけるようなありふれた物なんかじゃない、昭和の頃に売られていたようなレアなデザイン限定のみだと言う。変わった趣味だ。 「わあ、これ懐かしいね。小学生の頃、よく食べたよ」 「東京ではもう売られてないんです」 「そうなんですか?」 「北海道の、函館限定の商品になったので」 「へー……全国展開してないんだ」 地域限定になったなんてもったいない。おいしいのに。 「はやせん、これっていくら?」 「今は80円」 「昔は?」 「いくらでしたっけ?」 早瀬先生の視線が私に向いた。 「25円ぐらいだったかな……?」 「えっ、やっす!」 「私達が小さい頃は、それくらいで買えたの」 同意するように、隣で早瀬先生も頷く。 その度にぴょこぴょこ動く、後ろの跳ね髪に目が向いてしまう。 困った。気になる。 「霧島くん。そろそろ教室戻らないとチャイム鳴っちゃうよ」 「あー、じゃあ戻る!」 ぶんぶん手を降りながら、霧島くんは自分の教室へ走っていく。廊下は走っちゃいけないって何度も注意してるのに、この子はちっとも聞きやしない。 そんな霧島少年の手には、早瀬先生から奪った駄菓子が握られている。ちゃっかりしてるんだから。 「俺達も職員室に行きますか」 「その前に早瀬先生」 「はい」 「後ろ」 「え?」 「後ろ向いてください」 首を傾げつつも大人しく背を向けてくれた彼の、後ろの寝癖を人差し指でつつく。 「寝癖ついてます」 「え」 「直しますね」 バックの中からポーチを取り出して、寝癖直し用のウォータースプレーを手に取った。「これアミノ酸配合だから! 超いいから!」なんて言われて香織に押し付けられたものだけど、個人的に結構気に入ってる。コンパクトだから持ち運びに便利だし、クセがなくてパサつかない優れものだ。 不自然に跳ねている彼の髪をゆっくりかきあげる。根本から軽く吹きかけて、手のひらでゆっくり整えてあげれば元通りに戻った。 「はい、直りました」 「……すみません、いつも」 「いつも?」 「前に、靴ひも直してもらったり」 「あー」 そんな事もあったっけ。そう思い起こしながらも、視線はつい下に落ちてしまう。チェックした靴紐は、ばっちり縦結びになっていた。 「……ふふ」 「……笑わないでください」 「ごめんなさい」 謝ってみたはいいものの、笑いが止まらない。 恥ずかしそうに俯く彼が可愛いと思った。 手先ぶきっちょだし、紐結べないし、お菓子大好きだし。 本当に、子供みたいな人。 「これ」 顔を上げれば、彼が片手を差し出してきた。両手で受け皿を作れば、手のひらにころりと転がる小さな紙箱。 さっき霧島くんが1つ持っていっちゃったから、今日は貰えないのかなあと思っていたけれど。 「いいんですか?」 「……まだ家にいくつかあるので」 だから気にしないでください、そう言って彼は私から視線を逸らす。その横顔は少し気恥ずかしそうに俯いていて、つい笑みが溢れた。 今日は、キャラメルなんだ。 今ではもう恒例となってしまった彼からのおすそ分けを、私は素直に受け取った。 あれから1ヶ月。 早瀬先生とは、良好な関係を保っている。 私のことを全力で口説くと言っていた本人は、今は私に認められる教師になる事を優先しているようで、今のところ、彼から口説かれそうな気配は全くない。だからって放置するつもりもないようで、彼はほぼ毎日、欠かさず私に何かをくれるようになった。 私にだけ特別なことをしてくれる。 それが妙にくすぐったい気持ちにさせてくれるけれど、なんせ貰う物はいつもお菓子だ。小学生が、好きな女の子に気に入られようと必死になっているようなものだ。 これって完全に餌付けだよね。 そして素直に餌付けされてみる、私の構図の出来上がり。 だって、全然嫌じゃないから。 嬉しいのは、お菓子じゃなくて彼の気持ちだから。 真っ直ぐな好意をお菓子に添えて手渡してくれる彼の想いに胸打たれる。嬉しくなって、私の心はいつも浮上してしまうんだ。 最近では、彼からのお裾分けがないと寂しいと感じるくらいに、この他愛ないやり取りを毎日楽しみにしている自分がいた。 ほくそ笑みながら保健室に戻り、机の隅にキャラメル箱を置く。 穏やかな気分のまま、手元の書類に視線を落とした。 「……あ」 それを目にした瞬間、ふわふわしていた気分が急激に落ちていく。手元にはクラスごとの出席簿に保健観察カード、保健だより作成の為の資料が積まれていて、その出席簿には、各クラスの担任教師の名前も記載されている。その中に見たくない人物の名まで見つけてしまい、私の心を一気に曇らせていく。 早瀬先生とは逆に、友永先生とはずっと気まずい状態が続いていて、あの日以来あまり話せていない。仲が良かった筈の先輩とは仲違いのままだ。 といっても、そう感じているのは私だけかもしれない。あの日以降も彼は平然と挨拶してくるし、業務的な話をする際も、いつもニコニコとしている。 態度は普通。まるで何も無かったかのように、自然体だ。あの日のことを弁解することもなければ、謝罪する気配も無い。 そんな彼の態度に憤りを覚える。事情が事情だから、あからさまな態度を取るわけにはいかない事くらいわかってる。けれど、あの日のことを無かったことになんて出来ないし、なあなあに流されるのはすごく納得がいかない。私にも落ち度はあったとはいえ、怒る権利は絶対にある。 一度がっつり言ってやりたいと思ってるんだけど、2人きりになるのはまだ怖い。また何かされるんじゃないかと思うと、どうしても怯んでしまうのだ。 あれからもう1ヶ月。 友永先生は、一向に私に接触してこない。 嫌がらせとか言ってたのも、案外軽い気持ちで言った台詞なんじゃないかとすら思えてきた。 一夜限りの行為で、本人はもう気が済んだのかもしれない。それはそれで腹立だしいけれど。 彼に対する怒りが収まったわけじゃないけれど、相手がもう何もする気が無いなら、そのままにしちゃうのもアリなのかと思うようになってきた。何事もない状況が1ヶ月以上続けば、さすがに警戒心も薄れてしまう。 「……ダメダメ、しっかりしろ私」 弱気になりそうな自分に渇を入れて、深呼吸。 一度気合いを入れてから、各クラスごとの出席簿を手に取った。 本当はあの人に会いたくないし話したくもないけれど、同じ職場で働いている者同士、こればかりは避けて通れない道だ。 「……これも仕事のうちだし」 だから仕方ない。 複雑な気分を抱えたまま、私は重い腰を上げた。 トップページ |