糞みたいな校則ですね


「………はい?」

 聞き返してしまったのは聞こえなかったからではなく、純粋に意味がわからなかったからだ。彼の放った言葉を脳内再生しても、その言葉に込められた意味を理解することはできなかった。
 告白されて断ったら、恋愛対象として意識して欲しいと言われた。男として見れないから断ったのに、どうしてそうなった。

 顔を見上げて彼を見つめ返せば、先程の重苦しい雰囲気とは不釣合いなほど彼は平然としていて、私は眉間を深くした。

「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味ですけど」
「そのまま、って……」

 確かに、そのままの意味なんだろうけど。
 男として見れないイコール、恋愛対象として見れないことと同義なのに。
 困惑を隠せないまま見つめ返すことしかできないでいる私の頬に、そっと彼の手のひらが触れる。思わず肩が跳ねた。

 突然触れてきた意図がわからない。
 戸惑う私に向けられた真摯な眼差しは、焦がれたような熱を孕んでいる。
 その熱視線に、収まりかけていた鼓動が再び弾け出した。




 "学校"という職場で、彼と共に過ごしてきた。
 私は養護教諭として。
 彼は音楽教諭として。
 接点など特に無く、深い関わり合いを持つこともなかったけれど、それでも彼のことは仲間として、後輩として、他の先生方と平等に付き合ってきたつもりだった。

 そんな後輩が、いつの間にか私を異性として見ていた現実。恋愛対象として見られていたなんて全く気づかなかった。見知った筈の彼が、急に知らない男の人へと変わってしまったような錯覚を覚え、居心地の悪さについ目を逸らしてしまう。

 けど、それも一瞬のこと。
 すぐに顎を掬い取られ、彼の方へ顔を向き直された。

「……っ、早瀬先生……?」
「………」

 彼は何も答えない。
 さっきまで浮かべていた微笑みも、今は消えてしまっている。


 ───まずい。


 人気のない、放課後の廊下。
 いつ誰が見ているかもわからない場所で、この状況は絶対に良くないと本能で悟る。
 逃げないと、頭ではわかっているのに出来ない。顎を掬う手を振りきれなくて、脚が微動だにしない。真っ直ぐな熱視線に意思を奪われて、逸らすこともできない。
 そんな私の異変を知ってか知らずか、不意に彼が一歩踏み出してきた。
 一気に距離が縮まり、否応無く近づいた澄んだ瞳と端正な顔に、一瞬、目を見張る。



 ───ふわり、と。
 一陣の風が、静かに前髪を揺らした。

 その刹那。
 彼の顔が、少しだけ傾いて。

「………っ!」

 唇に触れた熱と、頬を掠める髪の感触。思わず身を固くしてしまった私に、そっと唇を離した彼の眼差しが注がれる。
 驚きすぎて声が出ない。
 呆然としながら立ち尽くす私の両頬を、早瀬先生の両手が挟み込んできた。

 そっと上を向かされる。
 彼の顔が少しずつ、近づいてくる。
 顔を背けたくても、これでは動くこともできない。


 ────だめ。


 本能がそう叫んだ。
 直後、再び唇に熱が宿る。

「───ん……っ」

 両頬に添えられた手を咄嗟に掴む。
 無理やり引き離そうと試みるけれど、頬から温もりが離れたのは一瞬の事で、今度は腰に腕が回されて引き寄せられてしまった。
 結果的にもっと距離が近づいてしまい、離れることは更に困難になった。同時にキスも深くなる。

「っん、やめ……!」
「……喋らないでください」
「……っ」
「キスしづらい」

 唇を触れ合わせながら囁かれて、脳が甘く陶酔する。無防備になってしまった私の唇を割いて、彼のものが無理やり口内にねじ込んできた。
 彼の熱に余すことなく犯され、息苦しくて涙が滲む。突き飛ばそうとしても力の差なんて歴然で、逆に肩を掴まれてしまった。

 壁側に迫られて、トン、と背中に硬い感触がぶつかる。彼の両手が私の顔を横切り、壁に触れた。その両腕の中に閉じ込められ、逃げ道を完全に断たれてしまう。
 成す術をなくした私に与えられたのは、彼によって絶え間なく刻み込まれるキスだけだった。
 貪るように口付けられ、酸素を求める暇もない。
 荒い吐息と湿った音に羞恥心を煽られて、耳を塞ぎたくなる。

「ん……っ」
「……は、いい声」
「やっ……」

 抗いたいのに、抗えない。
 強引すぎるキスに翻弄されながら、必死に心まで流されないように耐えるしかないのが、歯痒くてならなくて。



 彼の唇がやっと離れた頃、情けないほど肩で息をしている自分がいた。
 脚に力が入らない。
 何とか立っていられるのがやっと、だなんて。
 腰が砕けるという感覚を、身をもって知った。

 なのに、目の前にある表情は憎らしいほど涼しげで、違和感が残ると同時に悔しさが沸き起こる。同時に自分にも。
 相手に対する嫌悪感と、無理やりとはいえ隙を見せてしまった自分への失望に、どうしようもなく泣きたくなる。常識を持ってる筈の大人同士が、場も弁えずにこんな事。27にもなって情けない。

「葉月先生って、男慣れしてないんですね」
「……は?」

 デリカシーの欠片も感じられない、そんな呟きが聞こえたのはその直後。あまりの言い草に、驚きで出た声は掠れてしまっていた。
 放心状態の私から、彼はゆっくり離れていく。
 何事もなかったかのように前へと向き直り、渡り廊下を歩き出した。

「会議、早く行かないと始まっちゃいますよ」
「……え、ちょっと待ってください」

 その切り替えの早さについていけず、慌ててその背中を追いかける。

「あ、あの。今までの話、聞いてましたか?」
「聞いてましたよ」
「私、早瀬先生とはお付き合いできません」
「俺も、葉月先生とすぐ付き合えるなんて思ってないですよ」

 淡々と返されて、言葉を詰まらせる。

「……答えられない、って言いました」
「知ってますよ」
「この先も、応える気はありませんよ」
「それも聞きました」
「なら、なんであんなこと」
「一方的に断られて簡単に諦められる想いなら、今ここで告ったりしてない」
「………」

 背を向けられたまま告げられた告白に胸が締め付けられる。自分を想ってくれていた人がこんなに身近にいたのかと、今更ながらに理解した。
 けど、理解と合意は必ずしも一致しない。この人の想いには応えられない。その決意は変わらない。
 それは相手も同じだったようで。

「俺、葉月先生のこと、諦めるつもりありませんから」

 振り向きざまに、そう告げられた。

「……い、いえあの、それ以前に此処は」
「男女交際禁止、ですか? ほんと、糞みたいな校則ですね」
「……え」

 彼に纏う空気が、急に冷えた気がした。
 声の温度も低くなる。

「そもそも人の感情を、校則で縛ろうなんて考え方がまずおかしいんですよ。それに疑念も抱かずに、律儀に従おうとしてるアンタらも」
「……は、早瀬、先生?」

 暴力的な物言いに、思わず言葉を失う。普段の彼からは想像つかないような暴言だった。
 彼はいつも要領が良く、何でもソツなくこなす後輩、年下とは思えないほど落ち着いた物腰と穏やかな人柄。今まではそう見ていた。
 けれど今、目の前にいる彼の態度は、これまで見てきたものとは何もかもが違う。さっきのキスも、温和に見える彼からは想像できないほど乱暴的だった。
 なんだか……キャラが違いすぎる。
 これが彼の本性なんだろうか。

「返事は、恋愛対象として意識して考えてから結論出してください。俺、待ってるんで」

 そんな一方的な事を言われても困る。
 無茶苦茶な理論を貫き通す彼に、すかさず反論した。

「結論なんてわかりきってるのに」
「結果は見えてる、って言いたいんですね」
「……はい」
「ならそんな結果覆しますよ」
「………」
「悪いけど、こっちも退くわけにはいかないので」
「………」
「全力で口説きますから」

 どうあっても自身の考えを曲げない彼に、ついに返す言葉をなくした。

「……ズルいですよ、早瀬先生」
「そんなのお互い様です」
「………」
「じゃあ、先に職員室に戻ってますから」

 そう言い残して足音は遠ざかっていく。
 本当に、何も無かったかのようにあっさり立ち去っていくその後ろ姿を、遠巻きに見つめるしかない。
 その姿が視界から消えて、やっと、それまで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。全身から力が抜けて、へたりとその場に座り込んでしまう。

「………嘘でしょ」

 それまで築き上げてきた、教師としての理想像とかプライドが、足元から崩れていく感覚が襲う。








 ────恋愛なんてしないと決めていた。
 少なくとも、この高校に勤務している間は。

 男女交際の禁止───
 なんて校則があったところで、私にとっては特に大きな障害になる事はないと思っていたし、生徒の見本となるべき教師が規律違反なんて、もってのほかだ。

 校則自体は、恋愛に関しての縛りは無い。
 それでも、交際禁止という決まりがある以上は恋愛事に関しても規制されてしまうのは自然の摂理。
 人の感情なんて規制でどうこう出来るものじゃない、恋愛感情を抱くのは自由だと、異を唱える教師や生徒も少なからず存在する。
 ただ、交際が規制されてる以上は恋愛もご法度だと、そう主張する教師陣が大半を占めている。
 私は中立の立場だけど、校則を破るつもりは毛頭ない。なのに。

「……どうしよう」

 途方に暮れてしまう。



 教師としても女としても告白を受け入れられないと断った私に、諦めないと告げた彼の、途中から放ったあの一言は、彼なりの精一杯の譲歩。
 返事は恋愛対象として意識してから、なんて。

「……お互い様、か。ほんとそうだね」

 恋に興味が失せた私にとって、あの校則は都合が良かった。

 その『校則』を盾にして、ズルい言い訳で彼を拒絶した私と、ズルい言い回しをしてやんわりと逃げ道を塞いできた彼と。
 先の見えない本気の勝負事の、その結果なんて明白だ。私は彼に応える気なんて無いのだから。
 その事を納得して貰えるだけの意思を、彼に伝えられるかどうかの自信は、正直、今は無かった。

mae表紙tugi

トップページ

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -