違うんだけどな 病院から出た頃、外は暗闇に包まれていた。 時間は既に18時半。 早瀬先生の点滴が終えるまで待っていた私は、結局、彼と一緒に岐路につく事になった。 ずっと残っていてくれた看護婦さん達は、わざわざ病院の外まで来てくれて、帰宅する私達を見送ってくれている。後ろ背に、「お大事にね」と優しい言葉を掛けられた。 例の看護婦さんには「お幸せに! 永久に!」とも言われた。 ……違うんだけどな。 けど今更否定するのも何だかおかしな気がして、私は曖昧に笑みを返して、誤解をそのままにした。彼も、何も言わなかった。 彼が車を停めている駐車場まで、隣り合わせに並んで歩く。 その間も、彼とは様々な話をした。 彼の言う友人とは高校以来から付き合いのある人で、この近くのマンションに住んでいるらしい。そして早瀬先生自身も、このあたりに住んでいるようだ。 だからよく、互いのマンションを行き来しては仕事の話をする仲なのだと聞いた。 相手の方も私達と同じ、高校教師らしい。 「本当に頂いちゃってもいいんですか?」 「家にまだいくつかあるので、大丈夫です」 そう言われて彼から受け取ったのは、2粒ほどの小さな錠剤。睡眠薬だ。 「これ、デパスですか?」 「そうです」 「一般的に処方される事が多い種類ですね」 本来、自身が病院から処方されている薬を他人に譲渡する事は、当然だけど推奨されてはいない。病院側でも勧めてはいないはず。 とはいえ私は一度使ってしまった身だし、あの時は特に体に異常もなく、副作用も出なかった。安全な薬だということは身を持って確認済だし、少しだけ頂戴することにした。 「自分が睡眠障害かもしれないなんて、思いもしなかったです」 会話の途中で「眠れない日はありますか」と訊かれた時、何を言われているのかわからなかった。彼曰く、私も睡眠障害に近い症状が出ているのではないかと思い、そう尋ねてきたようだ。 私の目の下にあるクマがずっと気になっていたみたいで、彼はずっと、私が睡眠障害なのではと疑っていたらしい。 クマ自体は深く気にしたことはなかったけれど、眠れない、という点に関しては、心に引っかかるものがあった。 眠れない日はなくとも、深い眠りに落ちた経験はほとんどない。どれだけ遅く寝ても、陽が昇る頃には必ず目が覚めてしまうのは、既に当たり前のものと認識していた。異常だなんて、考えもしなかった。 既に習慣化しているこの現象が、まさか病気の名がつくものだとは思っていなかったから、彼からそう告げられた時は驚きで声も出なかったくらいだ。 けれど睡眠薬を飲まされた翌日の、あの体調の良さや体の軽さはいまだに忘れられない。深い寝入っていたせいかクマも薄かったし、早朝に目が覚めることも無かった。肌の質も、いつもより断然違った。 これだけで、この薬の効果なんて目に見えて明らかだ。 少し離れた駐車場に、彼の車はあった。 本当はバスで帰ろうと思っていたけれど、寮まで送ると言って聞かない彼に、最終的に私が折れた。 折角だからお言葉に甘えさせてもらおうと、そのまま助手席に乗り込んだ。 本当のことを言うと、私はまだ、彼と話をしていたかった。一緒にいたかった。 だから内心、彼がそう言ってくれたことが嬉しかった。 けどそんなこと、恥ずかしくて口には出せない。 きっとこの人なら、普通に言ってしまえるんだろうな。 真っ直ぐな感情を、ストレートにぶつけてくる人だから。 学校にいる時と、外にいる時の彼は結構違うものなのだと、改めて実感する。 話せば話すほど、私の知らない顔がたくさん出てくるのは驚きだった。 いつも穏やかな笑みを絶やさないと思っていた彼は、外に出ると表情が表に出ない。笑わない。 けど無愛想とはちょっと違う。 顔がぽやーんとしてて常に眠たそうな、気だるい感じ。雰囲気もほんわかしてる。こんな人だったかな? って首を傾げてしまうほど、学校にいる時と雰囲気が違う。 でも不思議と、こっちの気だるい感じの方が親しみが持てた。 笑った顔は意外と幼くて、少年めいた表情に変わる。目元もほんのりと赤く染まって、ちょっと可愛い。 でかい男に向かって笑顔が可愛いというのも失礼な話だけど、作った笑顔よりも素の笑顔の方が、童顔っぽくて、私好みだった。 うん。変な意味じゃなくて。 あの日の事を恨む気持ちはない。 あの時、彼が何を思っていたのか、彼の想いや後悔している気持ちも全部、包み隠さず明かしてくれたからかもしれない。 「でも、もう2度とあんな事やめてくださいね」 「………」 「返事」 「はい」 まるで子供を叱り付けるようなやり取りが途中であったりして、2人して笑ってしまった。 車を走らせてから数分で、例の歩道橋が見えてきた。 あの産婦人科を出て、この歩道橋を渡っている最中に彼に呼び止められたことを思い出す。 彼への不満と、友永先生から受けた酷い仕打ちと、連日の苛立ちが積み重なって、鬱な気分を抱えたままこの通りを歩いていた。 それが数時間前の私。 今は嘘みたいに、晴れやかな気分に浸っている。 もし彼とここで出会っていなかったら、きっとこの人のことを知る機会も無く、何も知らないまま、あの日の事を罵って彼を嫌っていたんだろう。 そう思えば、28歳を迎えた今日という日に、彼とここで出会って過ごした時間がかけがえのないものに思えてくる。 こんな風に思える日が来るなんて思わなかった。 自然と浮かんだ笑みを隠すように、窓の外に目を向ける。 「………あっ!」 「?」 「早瀬先生、とめて!」 トップページ |