知れてよかった


 カーテンが開けられると同時に、私は彼を思いっきり突き飛ばしていた。
 そのお陰で早瀬先生は壁にがっつり頭をぶつけて、点滴袋はぐらりと揺れて、箱ティッシュがベッドから落ちた。

「あら?」
「あ、あの、あのこれは、その」

 慌てふためいた私の様子に、点滴の量を確認しに来たらしい看護婦さんは、驚いた表情のまま、ぱちぱちと瞳を瞬かせた。
 咄嗟に出てしまった行動とはいえ、カーテンに隠れて私達が何をしようとしてたかなんて、この状況を見れば一目瞭然だ。

 不自然すぎる私の様子をしばらく眺めていた彼女は、とりあえず自らの仕事を優先事項にしたようで、点滴の残りの量を確認し始めた。「あと10分ぐらいかな?」と呟きながら振り向いた彼女は、それはもう、とってもいい笑顔だった。
 床に落ちた箱ティッシュをテーブルに置いてくれる。そして、ゆっくりとカーテンを閉められた。

「お邪魔しました〜」

 とも小声で言われた。
 そのまま立ち去っていく彼女は、ステップでも踏みそうな軽やかな足取りで。

「………」

 さっきとは違う種類の沈黙が落ちる。

 恥ずかしい。
 私はまた何やってるんだろう。
 拒まなきゃいけないのに、気が緩んだというか、雰囲気に流されそうになった。しかもそれを人に見られるなんて。

 羞恥心で顔が熱くなる。
 照れを誤魔化すように髪を耳に掛けたりして、不自然な動きをしてしまう。
 ちらりと盗み見た早瀬先生も、すごく気まずそうな顔をしていた。

 彼自身も、キスしようなんて全く思っていなかったんじゃないかな……多分。
 そんな風に見える。

「あの……すみません」
「いっ、いえ、私の方こそ……あっ、ごめんなさい頭大丈夫ですか?」

 壁に激突した彼の後頭部に触れる。
 かなりすごい音がしたけれど、状態を見る限り、大事には至っていない。
 ……これから腫れるかもしれないけど。



 正直言うと、あのままキスされていても、私はきっと後悔しなかったと思う。
 根拠もないのに、どうしてそう言い切れるのかは自分でもわからない。
 全然嫌じゃなかった。
 それは確か。
 私達だってもういい年した大人だし、今更純情ぶるのもおかしな話で、恋愛云々なしにそういう関係に流れてしまう事だってあるかもしれない。
 けれど、やっぱり同じ職場で働く者同士、顔を合わせずらい状況に陥ることだけは避けないと。どこまでも仕事優先で申し訳ない気持ちもあったけれど。

「あの」
「あっ、はい」

 不意に声を掛けられて顔を上げる。
 彼はまた視線を外して、自分の手元を見つめていた。

「……あの日」
「あの日?」
「……部屋に、お邪魔した日」
「………」

 途端に空気が重くなる。
 彼との仲がこじれる要因にもなった、あの夜。
 あの日の事を思い出す度に、私の心は怒りに似た感情で塗り潰されていた。この人のした事を、許せない気持ちが強かったから。

 でも今は、全く感情が揺れない。
 怒りも沸き起こらない。
 それでも複雑な感情は、残るけど。
 むしろ、こんなに不器用で優しい人があんな風になるものなんだろうかと、疑問さえ抱いてしまった。

 あの日、彼が何を思ってあんな事をしたのか。
 それを知ることができれば、私は彼を許せるんじゃないかと、……むしろ許したいと、そう思ってる私がいる。
 人を責めるのが人であるなら、人を許すのも、また人だから。

「あの日の事、本当にすみませんでした」
「………」
「あなたの事を、無理やり手に入れようとしました」

 言い訳もせず、自らの行いの意図を口にする彼の横顔は真剣そのもので。
 そこで、彼は改めて私の方を見上げた。
 真っ直ぐな瞳からは、言い逃れしようなんて浅ましい感情は浮かんでいない。

「すみません」

 深く頭を下げられて、つい焦ってしまう。

「は、早瀬先生、顔を上げてください」
「……でも、怪我までさせた」
「あれは、自分でやったことですから」
「………」
「もう、いいですから」

 本当は、許しちゃいけない事なのかもしれない。
 でも、誠心誠意込められた謝罪を真っ向から受けて、自分の中ではもう、吹っ切れた感があった。
 彼を責める気持ちも、怒りたい気持ちも、今は全く無い。

「あの、早瀬先生」
「はい」
「ひとつだけ、伺ってもいいですか」

 伏せていた顔を上げて、彼は小さく頷いた。

「あの時持っていた睡眠薬は、病院で処方されたものですよね?」
「……そうです」
「どうして睡眠薬なんて」

 それは今、ふと沸いた疑問。
 あの睡眠薬が何の種類かまではわからないけれど、あの効果を実際に体験したからわかる。あの緩やかな眠気と副作用が全く無かった成果は、安全性に優れた薬である証拠。そして睡眠薬を必要とする人は、薬局ではなく、まず医師にかかるのが一般的だ。
 たとえば手術で使う全身麻酔用なんかは、即座に眠ることができるけれど、睡眠薬としてはあまりにも危険性が高く、一般人には処方されない。
 早瀬先生が持っていた薬が病院から処方されたものならば、処方されるまでに至った原因があるはずだけど。

「睡眠障害なんです」

 彼のその一言が、全ての疑問を解いた。

「……20歳を迎えた頃に、咳が止まらないことが増えて。病院で咳喘息と判断されました。特に夜間と朝方の症状が酷くて、寝るのもしんどくて」
「……それで、睡眠障害に」
「はい」
「そうだったんですね」

 彼の返事を聞いて納得した。
 喘息持ちの人の殆どが、夜間と早朝の咳に悩まされるのは知っている。その原因は、自律神経だ。
 自律神経には、交感神経と副交感神経の2つがある。人の体は本当によく出来ているもので、体が起きている時は交感神経が優位でも、体を休めると副交感神経に切り替わる。
 問題なのは、この切り替え時に気道が狭くなることだ。
 常に喉に炎症を起こしている喘息患者は、気道が狭くなることで咳き込み、発作を起こす。体を休めている夜間と早朝に自律神経が切り替わるから、気道が狭くなりやすい。
 この時間帯に咳が出やすいのは、その為だ。

「喘息は安眠を妨げますから、辛いですよね」
「吸入すれば落ち着きますが、時期的に症状が酷い時もあるので」

 彼は何でもないように言うけれど、内容自体は深刻な話だ。
 喘息が原因で眠れない期間が長く続けば、自律神経も異常を起こす。交感神経と副交感神経の切り替えが昼夜行われる病気、自律神経失調症を発症してしまう可能性だってある。そうなれば喘息の症状はもっと悪化して、日常生活にも支障をきたす。
 彼が睡眠薬に頼ってしまうのも、仕方ないのかもしれない。

「……葉月先生」

 けほ、と咳をひとつして、彼が口を開いた。

 気道を広くする薬で処置したとはいえ、会話を続けていれば、また喉も辛くなる。
 止めた方がいいのかもしれないけれど、彼は何か、大事な事を話し出すような気配を纏っていて、私は大人しく口を閉ざした。

「あの時、俺に言いましたよね」
「……?」
「"教師の自覚を持て"って」
「あ……はい」

 あの日の夜。
 何とか彼の暴挙を止めたくて、必死になって教師の在り方を説いたつもりだった。
 私ですら忘れてた事を、ずっと覚えていてくれたんだ。

「あれ、すげえ格好よかったです」
「………」
「俺は、あなたから認められる教師になりたいと、今はそう思ってます」
「………」
「だから、その」

 一拍置いて、彼は再び口を開く。

「……手に入れるのは、その後で頑張ります」

 その言い回しに、思わず噴きだしてしまった。

 わたし、後回しにされちゃうんだ。
 なんか可笑しい。

「頑張るんですか?」
「頑張ります」

 それでも、私を諦める様子がないらしい彼の想いが、素直に嬉しいと感じている自分がいる。
 少し前の私だったら、この言葉を聞いただけで嫌気が差していただろうに。

 どうして、こんなにも嬉しいんだろう。
 彼の言う事に、一喜一憂してる自分がいる。
 自分の汚い部分を曝け出して、それでも受け止めてくれた彼に、私はいつの間にか絆されてしまったのかもしれない。

「本当は今日、この事を伝えたくて」
「はい」
「ちゃんと伝えられて、よかった」

 安堵したように息を吐いて、彼は微笑んだ。
 その笑顔を見ていたら、自然と私も笑顔になる。
 胸の中に、温かな感情が広がっていくのを感じた。

「……私も」

 聞けてよかった。
 今日、あなたの事を知れてよかった。

 心から、そう感じた。

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