心が折れた


「相手を責めるだけじゃなくて、自分にも非があるかもしれないと、そう思えるところが」
「………」
「……冷静に、客観的に物事を見れるところが」
「……?」
「すごいと、俺は思います」
「………」

 ………褒められた。

「……え、あの」

 彼の発言に意表をつかれて、その後に続ける言葉を失ってしまった私は、この事態にすっかり困り果てていた。
 目の前の彼は依然として、私と視線を合わせようとしない。でもその横顔はほんのりと赤く染まっていて、私はぱちりと瞬きを落とした。

「……まさか」
「?」
「戻ってきてくれるなんて、思ってなかったので」
「……はい」
「すげぇ、嬉しいです」
「………」

 気まずかった空気が、僅かに和らいだ。



 ……嫌われた、と思ってたんだけど。
 拒絶されたと思ってたんだけど。
 今の彼を見る限り、私を嫌ってる様子もなければ、拒んでいる感じもない。
 顔を逸らしたのも拒絶の意思じゃなくて、照れてた、だけなの?

「………」

 ……なんてわかりづらい。

「……あの時」

 俯き加減のまま、彼は口を開いた。

「歩道橋で倒れた時、息するのもしんどくて、本気で死ぬのかなって思った時に手を差し伸べてくれたのは、あなたでした」

 紡ぐ言葉は淡々としてて、温度を感じない。
 でも、ぐっと握り締められた拳と緊張で強張っている横顔が、彼の必死さを物語っていた。

「俺、ひどいことしたから、嫌われても当然だって思ってた」
「………」
「でも、そんな奴でも迷わず助けてあげられる葉月先生はすごいと思うし、一緒にいてくれて嬉しかったし、心強かったです」
「………」
「あの時のあなたは、保健の先生の顔してた」

 一息ついてから、彼は私を見上げた。
 真摯な眼差しは、いつの日か私に想いを打ち明けてくれたあの瞳と、同じ。

「やっぱりあなたは、どこまでも先生ですね」

 彼の表情が、柔らかく崩れた。
 愛想笑いじゃない。
 わざと作った笑顔じゃない。
 歩道橋で倒れた時に一瞬だけ見せてくれた、あの素の笑顔が、また見れた。
 心に、喜びが満ちていく。



 どうしてここに戻ってきたのかわからなくても、その中でひとつだけ、確かなものがある。
 私はきっと、この笑顔がもう一度見たかったんだ。

 私も嬉しかったから。
 縋られて、放っておけなかった。
 すごく嫌っていたはずなのに、頼られたら、嬉しかった。
 苦しいのは自分だろうに、感謝の笑顔を向けられて涙が溢れた。
 なのに、病院に着いてからの彼はどこか私によそよそしくて、あの笑顔はもう見せてくれないのかと落胆した。縮まった気がした距離が離れてしまって、寂しかったんだ。

「俺が嫌うなんて、とんでもないです」
「……早瀬先生」
「尊敬してます。……すごく」

 単調な言葉の数々は、ゆっくりと、私の心の奥に入り込んで浸透していく。
 ひとつひとつの言葉が、胸を温かくさせる。



 どこか冷めた人だと思っていた。
 自分を出すこともない、口数も少ない、誰にでも同じ笑顔を保っているこの人を、見た目だけで判断して一方的に苦手意識を持っていた。
 でも、今はわかる。
 この人はただ、どうしようもなく不器用なだけなんだ。

 手先も性格も不器用で、でも子供みたいな真っ直ぐな感情をぶつけてくる、一途な人。
 どこまでも私とは正反対な彼の、そんな一面を見せられて、嫌えるはずなんてない。


 ───心が、折れた。


「……っ、わ、たし」
「………」
「尊敬されるような奴じゃ、ない……っ」

 声が震える。
 涙がはらはらと零れ落ちていく。
 でもこれは、嬉し涙だから。






 ───見た目ばかり気にして、周りの評価ばかり気にして、本当に自分を持っていないのは、誰よりも私自身だった。



 そんな、何もない私に唯一残されたもの。
 教師という仕事。
 この仕事が好きで、生徒が好きで、あの子達に出来ることは何でもしたいと思ってる。
 その想いだけは絶対に揺らがない、唯一の誇り。
 生徒達の為に何かしたい、そんな私の想いに誰かが心動かされたのだとしたら、こんなに嬉しいことってない。

 堰を切ったように溢れ出す涙が、頬を伝う。
 必死で止めようと思っても止まらなくて、ついにはしゃくりあげてしまう始末。
 子供みたいに泣き続ける私を黙って見ていた早瀬先生は、ちょい、と私の人差し指に自らの人差し指を絡めた。
 そのまま軽く引っ張られる。

「ちょっと、きて」

 そう言われて、少しだけベッドへ近づく。
 身を屈めれば、彼との距離は近くなった。
 サイドテーブルの上に置いてあった箱ティッシュを、早瀬先生が手元に引き寄せる。2、3枚引き出して、私の涙を拭き始めた。
 ぽんぽんと、肌を痛めないように軽く拭いてくれるその手つきは、乱暴ではないけれど優しいものとは言い難い。
 異性への気遣いに慣れていない下手くそな触れ方に、つい笑みが浮かんでしまった。

 男慣れしてない、って人に言っておいて。
 自分だって全然、女慣れしてない。
 でもどうしてかな、その事にとても安心している自分がいた。

 相も変わらず、私のほっぺをぽんぽんしている早瀬先生は、恐る恐るといった様子で同じことを繰り返してる。
 その手に触れて、自分の頬に押し付けた。
 そうすれば、彼の手の動きも止まる。

「……ふふ、さっきと逆ですね」

 歩道橋で苦しんでいた彼の目尻に浮かぶ涙を、必死で拭っていた時と。

「……早瀬先生」
「はい」
「……ありがとうございます」
「……俺は何も」

 謙遜しようとする彼の言葉を遮って、ふるふると首を振る。

 伝えたいことはたくさんある。
 でも、そのどれもが音として出てこない。
 だから、ありがとうの一言に、万感の思いを託した。

 私には何もない。
 だから擁護教諭という立場に縋った。
 縋り過ぎて、大切にしてた思いも忘れて、何も見えなくなっていた。
 それでも、教師としての私を彼はずっと見ていてくれた。尊敬してると言ってくれた。
 彼がくれた言葉も思いも全部、いつか私の強さになる。



 ゆっくりと瞳を開けば、彼と視線が交わった。
 瞼にかかる前髪から覗く、深い漆黒の瞳。間近で見ると、とても綺麗な顔立ちをしているのだと今更ながらに気が付いた。

 睫も長くて、鼻も高い。
 目元も優しげで甘い顔立ち。
 私に向けられた真剣な眼差しは、一向に逸れることがなくて。

「………」

 言葉もなく、なんとなく見つめ合う。
 数秒だけの沈黙が、何分も長く感じられた。

 頬に触れている手が、顔の輪郭を辿る。そのまま顎を掬われて、持ち上げられた。
 ゆっくりと、彼の顔が近づいてくる。


 今、目を閉じれば──きっとキスされる。
 わかっていたのに、私は自然と目を閉じた。

 胸はときめいていない。
 高鳴ってもいない。
 平常心だ。
 あの日、頭の中に響いていた警鐘は、今は大人しい。

 心が弱っていたせいかもしれない。
 彼の手つきが優しかったせいかもしれない。
 目を閉じた理由なんて挙げたらいくらでも思い付くけれど、確かなのは、この人からのキスを嫌だと思っていない自分がいることだけ。

 カーテン越しに、看護婦さん達の声が聞こえる。
 顎に触れる手が熱を帯びる。
 唇に、彼の吐息を感じた。






「早瀬さーん、点滴終わりましたー?」


 ……なんて、能天気な声がその場の空気を裂いた。

mae表紙tugi

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