寂しくて


・・・


 気がつけば、また病院の入口に立っていた。
 どこをどう走って此処まで辿り着いたのか、全く覚えていない。どの道順を辿ってきたのかもわからない。何を考えながら走っていたのかも。
 途中で歩道橋を通過してきたはずだけど、それすらも覚えていない。もしかしたら横断歩道も、信号すら見ずに渡ってきたのかもしれない。今思えばすごく危険極まりないけれど、とにかく頭の中は彼の事でいっぱいだった。他に意識を向ける余裕もないぐらい、全力で走っていた。

 息を切らしながら院内へと駆け込む。
 待合室へと目を向ければ、既に時刻は17時半を回っていた。
 受付窓口のシャッターは閉められて、待合室から診察室へと続く廊下も、カーテンできっちりと閉められている。そこには、小さな看板が立てられていた。


『本日の受付は終了いたしました』


 その一文を見た途端、体中の力が抜けた。
 思わず座り込みそうになって、ふらつく体を支えるように壁に手をつく。

 ……もう、帰っちゃったんだ。

 脱力感の後に襲ってきたのは、後悔や落胆する気持ち。私が病院を出てから、もう、かれこれ20分近く経っている。
 診察後にすぐ帰ってしまったのなら、今この場に彼が居ないのは当然の話だ。
 わかっていても、ショックが大きい。
 喉の奥に何かが詰まっているような不快感が襲う。
 無性に泣きたくなって、唇を噛み締めた。

 親に置き去りにされた子供でもあるまいし、私は何がこんなに辛いんだろう。

「忘れ物ですか?」

 窓口付近に居た看護婦さんに声を掛けられて、顔を上げる。彼を診察室までご案内していた人だった。

「い、いえ……」
「あ、早瀬さんの付き添いでいらした方ですね」

 朗らかな笑顔を向けられて、彼女は診察室前で仕切られたカーテンを開けた。
 奥から、看護婦さん達の笑い声が聞こえてくる。
 ぽかんと見つめ返す私に、どうぞ、と中へ促してくる。

「あの、まだ診察中なんですか?」
「いえ。早瀬さんは今、ステロイドの点滴を受けていらっしゃいます。あと40分ほどで終わると思いますが」
「点滴……」

 頭の中で、喘息の知識を思い起こす。
 成人喘息の場合、吸入ステロイド治療が主体のはず。彼もおそらく、毎日服用しているはずだ。そして発作が起きた時は、更に気道を広げる吸入薬を使う。悪化した場合、今度は点滴。

「彼、状態が悪いんですか?」

 不安になってそう問いかければ、彼女は笑みを浮かべたまま、ひらひらと手を振った。

「いえ、念の為の処置です。症状も落ち着いていらっしゃいますし、点滴後は帰宅してもいいとの許可も下りてます」
「そう、なんですね」
「向こうでお待ちになりますか?」

 向こうというのは、点滴を受けている彼の所だろう。
 けど、本来患者でもない私が診察室の奥へ入っても、大丈夫なのだろうか。

「いいんですか?」
「他の患者さんはもうおりませんので、どうぞ」

 何らかの事情を汲んだのだろう、特別に許可してくれた彼女の気遣いに感謝し、奥へと進む。案内された場所はかなりスペースが広く、様々な金属製器具や用具がそこら中に置いてあった。
 棚にはびっしりとファイルが並べられていて、テーブルを囲むように、数人の看護婦さんが打ち合わせをしている。まるで総合病院のナースステーションのような光景だった。
 更に奥のスペースには、患者が利用するベッドが3台ほど置いてある。
 患者への配慮なのか、ベッド周りを囲い込むように、カーテンが覆われていた。

 そのうち、ひとつのベッドから感じる気配。
 カーテンの波に揺られて、人の影が見える。
 彼が点滴を受けているベッドは、すぐ側にあった。

 ゆっくりとベッドに近づいていく。
 歩を進める度、心臓の音が大きく波打っていた。

「……早瀬先生」
「……え……?」

 1枚布で遮断されている、ベッドの手前。
 彼の名を呼ぶ声が、微かに震えていた。
 キィ、と軋む音がして、振り向く気配を感じ取る。

「……葉月、先生?」
「……戻ってきちゃいました」
「………」
「……開けても、いいですか?」

 返事はない。
 頷く気配もない。
 一瞬躊躇ったけれど、私はゆっくりとカーテンを開けた。
 彼はベッドから上半身を起こして、黙ったまま私を見つめている。口が半開き状態のまま、驚きに満ちた瞳を私に向けていた。

「……どうして」
「………」

 そんなの、私が聞きたい。
 どうして戻ってきちゃったんだろう。

 大人しく帰った方がいいとわかっていながら、体が勝手に動いてた。どうしようもない衝動に駆られて、無我夢中で走った。彼と一緒に居る選択をした。拒絶されていると、わかっていても。
 そこまで自分を突き動かすものが何なのか、私はわからなかった。

 謝りたかったのかもしれない。
 仲直りをしたかったのかもしれない。
 純粋に彼の体が心配だったのかもしれない。
 戻ってきた理由を問われて、その答えを探してみても、そのどれもが全部当てはまっているような気もするし、全て違うような気もする。

 謝りたい気持ちも勿論あったけれど、謝罪なんて所詮、自己満足に過ぎない。
 相手に謝って、自分が安心したいだけ。
 彼に放った暴言はどうあがいたって取り消すことはできないし、言ってしまった手前、「本当はあんな事思ってません」なんて言い訳が通じるとも思えなかった。

 でも私は、彼と一緒にいたかった。
 話をしたかった。
 何を話したらいいのかも、わからずに。

 重い沈黙が続く。
 向こう側では、看護婦さん達の会話や金属音が響いている。
 雑音があるのは、ある意味有難かった。

 何も答えられなくて黙り込んでいる私に、彼の表情は少しずつ曇っていく。そして、諦めの色を示された。
 ふいと視線を逸らされる。
 毛布の上に置いたままの両手拳を、じっと見つめていた。

「……どうして戻ってきたんですか」

 さっきと同じ質問を繰り返される。
 でもそれは、問いかけではなく非難の言葉。
 裏を返せば「戻って来てほしくなかった」、そう言われている。

 彼から、いや、人から拒絶を受けるのは初めてのことかもしれない。
 こんなに痛いものなのかと、自分が受ける身になって初めて思い知る。

「……あの、私」
「………」
「……寂しくて」

 早瀬先生が、もう一度顔をこちらに向けた。

 何の感情も読めない顔。
 その冷めた目はどことなく私を責め立てている様にも見えて、身がすくんでしまう。
 それでも、何を話せばいいのかもわからない、そんな状況の中で迷った挙句、私は今の気持ちをぶつけてみることにした。

 ちゃんと話をしたいこと。
 でも何を話したいのか、自分でもよくわからないこと。
 今は誰かと一緒にいたいこと。
 酷い事を言ってしまって謝りたいこと。ぜんぶ。

 胸の内を吐露することが、こんなに怖いことだとは思わなかった。
 ちゃんと言葉にすればわかる。
 自分がどれ程、見た目ばかりを気にしていたのか。

 私は大人だから。
 だから格好悪いところは見せられない。
 人の前ではいつも笑顔でいなければならない。
 その裏で渦巻いてる醜い感情なんて、表に出すわけにはいかない。

 だって、仕事がしずらくなるから。
 私に対する周りの評価が下がってしまうから。


『男に媚へつらって楽しい?』


 ……そう見えてしまうのも、当然かもしれない。



 自分でも把握できていない、この複雑な想いを言葉にするのは意外と難しくて、口から零れる呟きはひどく拙い。
 それでも早瀬先生は根気よく、耳を傾けてくれていた。
 顔は俯いたままだけど、途中で口を挟むこともなく、ただ黙って聞いてくれていた。

「……変なことばかり言ってごめんなさい。意味わからないですよね」
「………」

 ベッドの端で立ち尽くしたまま、ぐっと拳を握り締めた。
 緊張のせいか、手に汗が滲んでいる。
 非難の言葉を浴びせられるのを覚悟して、私は彼の言葉を待つ。

「……葉月先生は」

 そこで一旦言葉を切った彼が、もう一度口を開いた。

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