……私、は



 私はあの人が、早瀬先生の事が苦手だった。

 受身で消極的、ただ人の言う事にうんうん頷いているだけの人。自分を持たない彼は自己主張も激しくない、典型的な"いい人"。薄ら笑いが板についた、私とは全く真逆のタイプだった。

 そうかと思えば、気性の荒い一面も併せ持っている事を知ったのはつい先日のこと。無礼で冷淡で、怒ると何をしでかすかわからない要素を隠し持っていた。
 大人しい人がキレると怖いというのは、ああいう人のことを指すんだろう。彼から想いを告げられたあの日以来、私の中でのあの人の印象は最悪なものになった。

 でも、だからって憎しみを抱いていたわけじゃなかった。
 あの日まで、私と彼は確かに良好な関係を保っていたはずなのだから。


『消えればいいのに』


 自身の口から放ったあの一言が、頭の中でぐるぐると巡る。

 私はなんてことを言ってしまったんだろう。消えろだなんて、そんな風に思ったことは一度だってないのに。
 勢いに任せて、あんな酷いことを口走ってしまった自分が怖いと思った。たった一瞬でも、そんな風に思ってしまった自分を責めた。

 人は怖い。感情に身を任せると、本当に何も見えなくなる。正しいことも、悪いことも、何もかもわからなくなる。判断能力を失ってしまう。

 あの時、傷ついた彼の表情を見た時、私は嬉しかった。あの人を傷つけて、喜んでいる自分がいた。こんな最低な人はもっと傷つけてもいいって思った。そんなわけないのに。
 こんなの、悪質ないじめをする子供となんら変わらない。

 あんな言葉を浴びせられた人がどう思うのか、考えただけで胸が切り裂かれたように痛む。
 私だったらきっと耐えられない。
 それ程の痛みを彼に与えてしまった。

 誰かを、言葉という暴力で故意に傷つけるのは、それだけでもう罪だ。
 私は人として、最低なことをしてしまった。



・・・



 窓から差し込む夕暮れの光が、人気のない院内を照らしている。受付が17時までと定められているせいか、この時間帯に診察へ訪れる人もいない。待合室からぽつり、ぽつりと帰っていく人達を、ソファーに腰掛けながら遠目に見つめる。静まり返った院内には、看護婦さんの声と足音だけが小さく響いていた。

 徒歩で行ける距離にあったクリニックへ、私達は駆け込んだ。
 近い場所にあるとはいえ、早瀬先生は普通に歩ける状態じゃない。下手に動いて疲労が出れば、また気道が狭くなる。再び発作の症状が出れば、今度は呼吸困難だけでは済まされない。慎重に歩道橋を降りれば、そこには1台のタクシーが停まっていて、私達を待っていてくれた。
 声を掛けてくれた2人には、本当に感謝の思いしかない。

 車で走れば1分程度。
 そこに、この病院はあった。
 週末でも夕方まで診察可能だったのは本当に有り難かった。
 人で混み合っている様子はない。
 時間が時間だけに、待合室には数人しかいなかった。

 彼を入口で待機させて、受付へ向かう。
 看護婦さんに事情を話せば、すぐ医師へ取り付けてくれて処置を受けることが出来た。今はおそらく、喘息患者に必要な検査を一通りやっているのだろう。
 私は待合室で、彼の帰りを待っている。
 と、向こう側から扉の開く音がした。

 顔を上げれば、右腕をガーゼで抑えながら歩いている早瀬先生の姿がある。血液検査をして止血しているのだろう。

 ソファーから立ち上がる。
 私の気配に気づいた彼と、目が合った。
 ペタペタと床を鳴らすスリッパの音が、私の前で止まる。

「……早瀬先生」
「すみません、ご迷惑掛けて」
「そんなことないです」
「………」
「……もう大丈夫なんですか?」

 見上げた先にある彼は、さっきよりは幾分、顔色は良くなっている。頬も血色が戻り、赤みがさしていた。
 声を出すのは、まだ少し苦しそうだ。
 時折、軽く咳こんでいる。

「はい、かなり落ち着きました」
「よかったです」
「葉月先生と、あの方達のお陰です」
「……私、は」

 何もしてない。
 勝手に怒って、酷いことを言って、彼が倒れたらおろおろと狼狽えていただけ。

「………」

 互いの間に、重苦しい沈黙が落ちる。

 酷いことをした。
 汚い言葉で傷つけた。
 なのに彼は何も言わない。
 私はといえば、気まずさから視線を下に向いて黙りこんでいる有り様だ。

 ちゃんと顔を見て、謝らないとだめ。

 そう思ってるのに出来ない。
 謝罪の言葉が素直に出てこない。
 恐怖が先立って、足がすくんでしまう。
 嫌われたらどうしよう、怒っていたらどうしよう、責められたらどうしよう、性格悪いとか思われたらどうしよう。
 頭の中で巡る言葉はそればかり。
 こんな時まで体面ばかり気にしてしまう私は、どこまでも浅ましい人間だった。

「あの、俺もう大丈夫なので。帰っていただいても大丈夫です」
「……え?」

 俯き加減だった顔を上げれば、視線の先にあったのは、いつも目にしていたあの穏やかな笑みだった。
 彼が作り出した愛想笑い。
 周りに合わせるために作った顔。
 その偽者の笑顔を向けられて、どうしてか、酷くショックを受けている自分がいた。

「あ……で、でも」

 気を遣ってくれた彼の言葉に、心が戸惑いで揺れる。

 此処にいたかった。
 彼の傍から離れたくなかった。
 誰でもいいから、誰かと一緒にいたかった。
 1人に、なりたくなかった。

 どうしようもない虚無感が、胸の中に押し寄せる。寂しくて、心細くて、誰かと一緒にいることでその寂しさを紛らわせたかった。
 そんな子供じみた一面を知られたくなくて、私は余裕の笑みを作る。

「早瀬先生を一人きりにするのも心配なので。此処にいます」

 そう言えば、一緒にいられると思った。

 けれど、早瀬先生はそれを良しとしなかった。
 ジャケットのポケットから千円札を2枚取り出して、そのまま私に差し出す。
 思わず見返した彼は、感情の篭らない瞳をしていた。

「これ、タクシー代に使ってください」
「え……」

 躊躇していると、彼の手が伸びてきて手を掴まれた。有無を言わさず紙幣を握らされて、彼の体が離れていく。
 一定の距離を保ったまま私に近づこうとしない彼の姿に、

 ───拒絶されてる。
 そう感じた。

 今まで散々、彼を拒絶してきたのは私のくせに。いざ自分が同じことをされたら傷つくなんて、そんな感傷に浸ること自体間違ってる。

「ま、待ってください。これは受け取れません」
「迷惑掛けたので」
「そんなこと……!」
「早瀬さーん、診察室にお入りください」

 必死に呼び止めようとした声は、彼の名前を呼ぶ看護婦さんの声でかき消されてしまい、強制的に会話が中断してしまった。
 はい、と返事を返した彼が、私を見やる。
 縋るように、彼に目線を向けた。
 彼の目に、今の私はどう映っているんだろう。

「今日は、本当にありがとうございました」

 たった一言だけを残して、彼は私に背を向けた。
 そのまま看護婦さんから促され、診察室へと入っていく。

「………っ」

 違うのに。
 そんな言葉が欲しい訳じゃないのに。

 そのまま取り残された私は、身動きもできず、その場に立ち尽くしていた。

mae表紙tugi

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