助けます


「何なのよ……あんたも、あの人も……」

 絞り出すように吐き出した言葉は、苛立ちで震えていた。思考が黒いもので塗り潰されていく。

 弱音も、本音も、愚痴も、憎しみの言葉だって、人はいつも胸の内に隠して理性を保ってる。
 それが崩れてしまえば、負の感情は次から次へと溢れ出す。防波堤が壊れて止め処なく押し寄せる、高波のように。

 止まらなかった。

「恋愛がしたいならよそでやってよ! わたしは関係ないっ!!」
「………」
「仕事を優先したいって言ったよね!? なんでわかってくれないの!? なんでこんな思わせぶりな事ばっかするのよ!?」
「………」
「私のことは放っておいてよ! あんた達の勝手な思い込みで振り回されるのはもう御免なのっ!!」

 一気に叫んだせいで、呼吸が乱れた。
 はあはあと肩で息をする。
 睨み付けた先にあった彼の表情が、悲しげに歪んで見えた。

 小ぶりだった雨が強まっていく。
 前髪から滴り落ちる雨の滴が、額を濡らしていく。
 体が急速に冷えていくのに対して、頬だけが熱く火照り、鈍い痛みが頭の中で響いていた。

 目頭が熱い。
 心が重い。
 頭が痛い。
 どれだけ怒り叫んでも、心に溜め込んだ汚い感情が拭えることはなくて。

「──……きらい」
「……葉月、先生」
「あんたみたいな男が一番嫌い」
「………」
「消えればいいのに」






 最低なこと、言ってる。
 わかってる。

 でも私は悪くないから。
 悪いのは私を振り回すこの人達だから。
 私は初めから恋愛する気がないって言ったのに。
 聞いてくれない人が悪い。
 理解してくれない男が悪い。
 そうだよ。
 最低なのはこの人達だ。
 わたしは何にも悪くないんだ。



 ───たとえ悪くなかったとしても、何を言っても許されるわけじゃない。
 人を傷つけていい理由にはならない。

 ………最低なのは、私も一緒だ。

「……もう、帰りますから。来ないで下さい」

 俯き加減だった顔を上げた時、





 ───パタン。


 彼の手元から、財布が力なく落ちた。




「……早…瀬、先生……?」

 異変に気付いたのはその時だった。
 彼の表情は凍りついたまま、ある一点に留まっている。その視線の矛先は私じゃなくて、自身の足下に注がれていた。
 それだけじゃない。片手で喉を抑え込んでいて、肩が上下していない。呼吸が、できていないように見えた。

 その表情はみるみるうちに青ざめて───

 激しく咳こんで、倒れた。

「……え……っ」

 目の前で、彼の体が崩れ落ちていくその様は、さながらスローモーションのように映った。

 倒れる寸前、早瀬先生は咄嗟に手すりに手をついた。そのお陰で地面に転がりはしなかったものの、その場に蹲って咳込んでいる。
 でも普通の咳じゃない、まるで肺炎患者のような酷い咳。呼吸の仕方も少し変だ。

「……っ、早瀬先生!」

 考えるより先に体が動いてた。弾かれたように地面を蹴り、彼の傍に駆け寄っていた。しゃがみこみ、今にも倒れそうな彼の肩を支える。

「どうされました? 苦しいんですか?」
「……っ」

 矢継ぎ早に質問すれば、彼は苦しそうに目を閉じたまま、私に答えようとして。
 でも出来なかった。声を出そうとして息を吸い込んだ瞬間に激しく咳き込んでしまって、会話もままならない状態で。酸素をうまく取り入れられない彼は、呼吸困難に陥っていた。

 突然の事態に気が動転する。
 どうしよう。なんで急に。

 周りに助けを求めたくても、ここは歩道橋の真ん中だ。私達以外に人の姿はなくて、誰かが階段を駆け上ってくる気配もない。歩道橋を降りて救助をお願いする手もあるけれど、彼の傍から離れるのも躊躇われた。
 雨の降り方も、どんどん強くなっている。
 比例するように、彼の状態も悪化していく。
 大げさでも何でもなく、『死』の文字が脳裏に浮かび上がった。

 数分前まで胸に渦巻いていた醜い感情が、今度は恐怖に塗り変わる。思わず怯みそうになって、怖くて目頭が熱くなった。
 震え上がってしまいそうな心に叱咤して、彼の背中に手を添える。そうすれば、彼の肩から力が抜けた。

 ───よく見れば、彼の咳には特徴がある。空咳とは違う、肺の奥から出るような深いもの。過呼吸かと思ったけれど、呼吸よりも咳の方が気になった。
 風邪をこじらせていたようには見えないけれど、肺炎の可能性だって否定できない。どちらにしても、こんな酷い咳を誘発した原因がきっと近くにある。それがわかれば、対処法もわかるのに。

 焦る私の頬に、無数の雨が伝う。
 髪の先端から滴り落ちた一滴が、手の甲に落ちた。

「………」

 ───雨が原因?

 今朝のことを思い出す。早朝に友永先生のマンションを出た時、澄んだ青空が広がっていた。
 けれど寮を出た時は少し蒸していて、そして今度はこの雨だ。少し暑いとすら感じていた空気は、雨のお陰で冷えている。温暖の差が激しかった事が咳の要因なら、苦しいのは肺じゃなくて喉かもしれない。
 だとしたら、一般的に考えるなら疑う症状は気管支炎。彼は此処まで走ってきたみたいだから、運動も誘発の原因に考えられる。

「早瀬先生、喘息持ちですか? 気管支炎の」

 声の出せない彼は、ただ小さく頷いた。
 やっぱり。喘息だ。

「ちょっと失礼しますね」

 一言詫びてから、彼の胸に寄り添って耳を近づける。喘息患者特有の喘鳴は聞こえなかった。

「早瀬先生、お薬は? 手元にないんですか?」
「………」

 弱々しく首を振る彼の、苦しげな表情が痛々しい。ただ、一時的に状態は落ち着いたように見える。咳も収まったみたいだ。けど、いつ再発してもおかしくない。
 コートを脱いで、彼の頭の上に被せておく。薄着だとかなり寒いけど、そんなの構っていられない。彼の体を冷やさない事が先決だった。
 顔色を窺うように覗きこめば、彼の目が薄く開く。よほど苦しかったのだろう、目尻には涙が溜まっていて、今にも零れ落ちそうだ。手で拭ってあげれば、目が合った。



 光を失った、弱々しい瞳。
 縋るように私を見つめる彼の目が、助けを求めているかのように揺らいでいて。
 その目を見た瞬間、それまで彼に抱いていた怒りも憎しみも、恐怖も全て消えた。

 助けたいと思った。



 固く握り締められている彼の拳は、血色が失せている。
 その手を、ぎゅっと握った。

「大丈夫ですよ」
「………っ」
「助けます」

 そう告げれば、安堵したように目尻を下げた。



 本人は喘息だと認めたけれど、今のこの状態が、絶対に喘息発作だとは言いきれない。喘息にもいくつか種類があるし、喘息の症状と似た病気もたくさんある。素人判断は良くない。
 早く診てもらわないと。
 ぐるりと周辺を見渡してみても、病院らしき建物は見当たらない。スマホで探すのも手間が掛かるし時間が惜しい。
 本人の状態を見る限り、少しは落ち着いてきているように見えるし、意識もはっきりしてる。けど、呼吸困難に陥るほどの咳の酷さだ。
 やっぱり救急車を呼んだ方が───

「あの、どうされました?」
「え……」

 振り向けば、そこには若い男女の姿がある。ちょうど歩道橋を上ってきたようで、私達の姿を見て何事かと声を掛けてきたようだ。
 早瀬先生の様子を見て、2人とも顔色を変えた。

「具合が悪いんですか?」
「はい、喘息の発作を起こしてるかもしれません。この辺りに大きな病院はありますか?」
「喘息……」

 2人が顔を見合わせた後、歩道橋の外を覗き込む。そして、ある一点を指差した。

「確か、向こうの信号2つ目を右折した先に、呼吸器科のクリニックがあったはずです」
「本当ですか!?」

 示された方角に目を向ける。ここからではそのクリニックの建物は見えなかったけれど、信号2つ目までは徒歩で行ける距離にあった。
 専門外来があるなんて運が良かった。
 救急車を手配するより、断然早い。

「あっ、俺達、先にタクシー捕まえておきますね」
「ありがとうございます……!」

 すぐに動いてくれた2人に感謝して、早瀬先生の肩を支えながら立ち上がる。彼はまだ息苦しいのか、喉を手で抑えたまま俯いていた。
 胸ではなく、喉。
 やっぱり気管支喘息だろうか。
 動くのも辛そうに見えて、彼の歩調に合わせて一歩、一歩と進んでいく。

「大丈夫ですか? ゆっくりでいいですから」
「……すみませ……」
「喋らなくてもいいですよ」

 息を吸うだけで苦しいなら、発声はもっと辛いはずだ。

 喘息が原因で死亡する人は、いまだに多い。
 そのほとんどが、喘息だと気付かずに治療していなかったり、普段のケアを怠っている場合が半数を占めていると聞いたことがある。
 もっと自分の体を労わってあげていれば、助かったはずの命。
 死んでしまったらもう、会えない。

「……私のことはいいですから、今はご自身の体を大事にしてください」

 ……今の私に、この人が嫌いだとか許せない、なんて感情は一切湧いてこなかった。

 ただただ救いたい一心で励まし続けた。
 少しでも安心させてあげたくて、何度も背中をさすった。必死だった。

 彼の顔色は真っ青で、唇も紫色に変色してしまっている。目も涙で真っ赤に染まり、呼吸も相変わらず荒々しい。
 それでも、傍らで必死に励ます私を見上げた彼の、嬉しそうに微笑んでくれたその表情を見た瞬間───胸の中で、言い様のない想いが溢れだした。

 自然と笑顔が生まれた。
 嬉しくて、涙が滲んだ。

mae表紙tugi

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