汚された気分


「わあ……雨降りそう……」

 お大事に、との声かけを背に受けて外に出る。昼前だというのに、空はどんより薄暗い。
 頭上には灰色の雨雲が広がっていて、いつ降り始めてもおかしくない湿った空気が充満していた。
 やっぱり、折り畳み傘を持ってくるべきだった。
 小さな後悔を胸に、その場を後にした。



 人気のない歩道を、道筋に沿って歩いていく。大通りへと続くこの道は、今日、初めて訪れた場所でもあった。
 周りには立派な竹林が立ち並び、川のせせらぎが聞こえてくるこの情景は、どこか古風な雰囲気を感じさせる。快晴であれば、もっと綺麗な光景が拝めていただろう。

 それにしても、週末だというのに人が少ない。
 ちらほらと真横を通り過ぎる人のほとんどが、私と同じ歳くらいか、もっと若い女性ばかり。
 それもその筈だ。
 今しがた私が出てきたのは、曰く付きの産婦人科なのだから。この周辺を歩いている女性の用件なんて、この病院以外に何もない。

 その病院から処方されたのは、錠剤入りの小さな箱。ご丁寧に紙袋に包んでくれて、手渡されたそれをバッグの中に仕舞い込む。会計の際に貰った明細書が視界に入って、ついため息が漏れてしまった。
 頭の中を占めるのは、昨晩、過ちを犯してしまったあの人の事ばかり。



 ………やっちまった。
 とんでもない事をしてしまった。



 全身を襲う疲労感。下半身から鈍く広がる気だるい感覚が、ますます気分を塞ぎこんでいく。
 たとえ一夜の過ちだったとしても、彼との性行為は到底受け入れられるものじゃなかった。だから必死に拒絶の意思を示したにも関わらず、私の主張は聞き入れてもらえなかった。
 そればかりか、無理やり力で押え付けられて乱暴された挙げ句、中にがっつり出された。信じられない……。

「……汚された気分」

 吐き捨てるように愚痴る。
 故に、寮から離れたこの産婦人科に足を運ぶまでに至っている。



 年相応に、こういった経験はそれなりに積んでいるつもりだった。高校時代は校則のお陰で交際経験はないけれど、大学生の時は彼氏だっていたし、別れた後に違う人と付き合っていた時期もある。どちらもそんなに長い期間の付き合いではなかったけれど、休日になればデートに出掛けたし、時には身体を重ねたりもした。
 彼らはきちんと順序を踏んで、誠実な付き合いをしてくれた。初めて抱かれた日は幸福感に浸ったもので、今思えば本当に、キラキラとした恋愛を経験していたと思う。
 ところが今はどうだろう。
 まさか同じ職場の人、しかも2人の男に告白された挙げ句、あろうことか乱暴されたんだ。
 そのうちの1人は未遂に終わったけれど、どちらにしても絶対許されるものじゃないし、許す気もない。

 社内恋愛なんてよく聞く言葉だけど、自分には無縁の言葉だと思ってた。そもそも相手に恋愛感情すら抱いていない。
 男女交際が禁止の高校で、恋愛する気もなくて、それ以前に私は仕事や生徒を優先したいと主張してるのに、どうしてわかってくれないんだろう。

 というか、なんでそんなに恋愛脳なわけ?
 教師のくせに。
 仕事しろよ。

「あー、もう」

 全ての事に腹が立ってしょうがない。

 けれどここは、人の行き交う遊歩道。
 この怒りの矛先をぶつける対象なんて当然あるわけがなく、胸の内に溜め込むことしか出来ない。
 エステやスパで気分を変えたり、ジムで体を動かすなりすれば、ストレスも多少発散できるかもしれないけれど、お金がかかる。それが嫌。

 避妊なしの行為後に服用するアフターピルは、当然だけど保険適用外。100%自費払いなわけで、今しがた、お財布の中から諭吉様が2枚旅立たれたばかりなのだ。
 これ以上、何かにお金を注ぎ込むような愚かな行為はしたくなかった。ただでさえ教師は安月給なのに。

「……あの人に、ピル代請求しようかな」

 なんて、それこそ愚かな行為に思えて自嘲気味な笑みが漏れた。



・・・



 目が覚めて真っ先に耳が捉えたのは、頭上から小さく漏れる、穏やかな息づかいだった。

 ──……寝息?

 心臓がどくん、と跳ねる。
 それが自分じゃない誰かの吐息だと気付いて、すぐさま体を起こした。
 いや、起こそうとした。

 体が動かない。
 動かせなかった。
 物理的に動かせない状況下に陥っている。
 彼の両腕で横抱きにされていたからだ。

 抱き寄せられている腕の力強さ。
 人の体温。熱。匂い。
 その全てが、昨晩の情交を彷彿させて顔が熱くなる。

 私は彼の胸に頭を押し付けているような状態で、腰には逞しい腕が回っている。ベッドの周辺には互いの服が散乱していて、私も彼も、一糸纏わない姿で抱き合っているような体勢だった。
 交わったまま眠ってしまったのは、この状況を見ても明らかだ。

 ───最悪だ。

 昨日の事を思い出そうとしても、途中から記憶がなくなっている。意識が飛んでしまったのかもしれない。
 だとしても、乱暴された男の腕の中で眠るなんてありえない。自分の馬鹿さ加減に頭を抱えたくなる。

 心地良さそうな寝息を立てながら私を抱く男は、呑気に惰眠を貪っている。胸がゆっくり上下する様を見て、思いきりひっぱたいてやりたい衝動に駆られた。
 そんな気持ちを抑えつつ、腕の拘束から抜け出すため、慎重に体を動かしていく。この人が眠ってる間に、着替えを済ませて帰りたい。
 そう思っていたのに、彼の腕を避けて腰をずらそうとした時、その摩擦が刺激になったのか、脚に硬いものが触れていることに気が付いた。それが何かなんて見なくてもわかってしまって、不快感に顔をしかめてしまう。
 とはいえ、生理現象的なアレに文句をつけるわけにもいかず、できるだけ意識しないように、体を少しずつずらしていく。

「気になるなら抜けよ」

 そんな、からかうような声が聞こえてきて肩が震え上がった。
 視線を上げれば、一体いつから覚醒していたのか、いやらしそうな笑顔を浮かべて私を見つめる男の姿がある。

「な……」

 開口一番告げられた言葉に絶句する。仮にも自分が抱いた女に向かって言う台詞じゃない。硬直している私の腰に、彼はもう一度腕を回してきた。
 有無を言わさず引き寄せられて、せっかく離れた距離が一気に縮んでしまう。太ももの後ろ側をひと撫でされれば、熱が引いた筈の身体は途端に火照りを見せ始める。こんな些細な悪戯でも、快感を覚えさせられた身体は素直な反応を示していた。

 熱っぽい吐息が耳に掛かる。ぴったりと寄り添っている彼の体温も、寝起きのせいなのか熱を帯びている。あらぬ感情がこみ上げてきて、つい開いてしまいそうになる両脚を、なけなしの理性をかき集めて我慢した。

「朝っぱらから何発情してんの? えろい顔して」

 色々と台無しな発言にかっとなって、彼の手を掴んで勢いよく振りほどく。それまで燻っていた熱はあっさりと萎えて、すぐにベッドから降りて自分の服を拾い始めた。
 背後からの、無言の視線が痛い。
 早くこの部屋から出て行きたい一心で、見られている事への羞恥に耐えて着替え始める。

「帰んの?」
「帰ります」
「先にシャワー浴びてから帰れば?」
「帰りますから」

 取りつく島もない様子の私に、彼自身も諦めたようだった。ふうん、と素っ気無い返事だけを残して、そのままベッドの中に引き篭もっている。
 結果的に彼の腕から逃れる事に成功したけれど、だからって安堵してるわけじゃない。むしろ、これからどうするかの方が重要だった。

 意識を飛ばす直前のことはまだ覚えてる。
 彼が私にしたひどい事も。
 彼に抱かれたい気持ちなんてこれっぽっちも無かったとしても、こうなる事が予測できていた以上、自分で避妊具を買っておくべきだった。
 この人が用意してくれているだろうなんて、どうして安易に思っちゃったんだろう。保健室であんな事をする人が、私の身を気遣ってくれるとは思えないのに。

 早く産婦人科に行かないと。
 考えることはそればかり。
 過ぎてしまった事にいつまでも気落ちしていても仕方ないわけで、その切り替えの早さは我ながら神経ず太いなと思う。落ち込んでる猶予なんて、私にはなかった。
 なぜなら今日は土曜日だ。週末でも診察可能な病院なんてそう多くない。早急に探す必要があった。

 無理やりされた、という怒りはあっても、ショックを受けているかといえば、実のところそうでもない。自分にだって落ち度はあるし、この人ばかりを責められない。
 そして対処法も知っているから、次に自分がするべき行動も把握できた。

 タクシーで寮へと戻った後、すぐにシャワーを浴びて私服に着替える。土曜の午前診察が可能な産婦人科を検索して、身支度を整えてから再び寮を後にした。
 ネットで見つけたその病院は、バスで行かなければ辿り着けないような場所にある。かなり遠いのがネックだけど、今の私にとっては好都合だった。
 口コミ評価の高い病院を見つけられたのも、運がよかったと言える。



 曰くつきの産婦人科。
 というのは、何も怖い噂があるとかそういう事ではない。
 街の中にある産婦人科の場合、避妊目的の薬の処方を良しとしない病院も多い。だから慎重に探す必要があった。
 高校から離れていて、人の目につきにくく、そして避妊薬処方者への理解を得られる場所。考えた末に思い至ったのは、歓楽街近くにある産婦人科。つまり、風俗嬢御用達の病院というわけだ。

 待合室には若い女の子達の姿があって、その手の仕事をしている子達なのかな、と思考を巡らせる。
 中には妊婦さんの姿もあって、その職種とは全く関係のない主婦の方なんだろうと推測できた。
 評価の高い病院だけあって、週末以外でも患者で混みあっているようだ。

mae表紙tugi

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