迎えに来たよ 21時。 人気の少ない車内で、私は憂鬱な気分を抱えたまま、電車に揺られていた。 仕事帰りの人達は既に帰路に就き、人で混雑するような時間帯でもない。ついでに言えば、こんな夜も更けた時間に、女が1人、一人暮らしの男の部屋に向かうような時間帯でもない。付き合っている相手ならばともかく。 自己嫌悪に陥りそうになって、はあ、と盛大な溜息が漏れた。 今の私の格好は、黒デニムに白のタンクトップ、それにネイビージャケットを合わせただけのシンプルなコーデ。 彼氏の元に行くわけでもないのだから着飾る必要なんてないし、何より、スカートなんて露出度の高い服は絶対に着ちゃいけないと思ったからだ。 自ら望んで抱かれに行くわけじゃないと、せめて格好だけでも自分の意思を見せたかった。 ……まあ、脱がされちゃったら全く意味無いけど。 「……ていうか、わたし」 本当に彼に抱かれる、のだろうか。 何だか、現実味が湧かない。 私の一方的な勘違いとか、思い過ごしなんじゃないかとさえ思える。 けれど、私の右手に握られた一枚のメモ用紙が、何よりもこれは勘違いでも思い過ごしでもない事だと裏付けていた。 職員玄関で早瀬先生と別れた後、開けたロッカーの中に挟まれていた、小さな紙切れ。 手に取って見れば、私宛てに書いたのだろうメッセージが刻まれている。 黒のボールペンで書き綴られている手書きの文字には、見覚えがあった。 ある住所とマンションまでの道順、部屋番号。 そして11桁の数字の羅列。 すぐに友永先生の仕業だと気付いた。 ご丁寧かつ親切なご配慮に、思わず眉間に皺が寄る。必死か。 保健室での一件が脳裏に過ぎる。 あの時、彼は一言も「抱かれに来い」なんてあからさまな言い方はしなかった。 けど、あの場面で部屋に誘うのは、きっとそういう意味に違いない。 そして私はといえば、友永先生に言われた通り、1人でのこのこ彼の元へ向かおうとしている。 向こうから見れば、チョロイ女だと思われて当然だ。 メモに記載されている住所は学校から少し遠く、駅をいくつか跨がないと辿り着けない場所にある。視線を床に落としたまま、私はずっと葛藤し続けていた。 刻々と目的地は近づいている。 降りなければならない駅まで、あと僅か。 それまでに私は決めなければならない。 覚悟を決めて彼の元へ向かうのか、それとも引き返すのか。 当然、行きたくない。 誰が好き好んで、交際もしていない男に抱かれたいと思うのか。 あの人が私に何を望んでいるのかは知らないけど、もしセフレのような関係を迫っているなら、尚更彼の思惑にはまるわけにはいかない。 こっちはそんなもの、一欠けらだって望んではいないのだから。 そもそも彼のしている事は、脅しに近い。 私が、彼の言うことに従う義務も責務も無い。 一度は彼の部屋に行くと言ったものの、あの場を切り抜けるためにはそう答えるしかなくて、あんなのは「彼にそう言わされた」と判断してもおかしくない。 けれど逃げてしまったら、次に彼がどう出てくるかわからない。また保健室であんな風に迫られたら、きっと回避のしようがない。 同じ職場で働く者同士、彼と2人きりにならないように過ごすのは絶対に無理だ。 それに彼には、聞きたいことがある。 私があの人に何かをしたのか、あの人自身が何を望んでいるのか、はっきりさせなきゃいけない。 ……下着も返してもらわないといけないし。 いや、この際下着なんてどうでもいいかもしれないけれど、下着以前に、自分の私物があの人の手にあるなんて事自体が嫌すぎる。 次の駅に到着するアナウンスが流れ始めた。 膝の上に作った握りこぶしに力を込めてから、ふっと息を吐く。 そうすることで、不安と緊張で乱れる心音を落ち着かせるみたいに。 彼のところに行くか、行かないか。 2つしかない選択肢を前に悩んで、悩んだ末に私はひとつの決断をした。 ───彼の元へは、行かない。 最終的に私が出した結論は、彼から逃げることだった。 あの人が私に何を望んでいるのかわからない以上、彼と一緒にいるのは危ない。誰かに助けを求められるような状況でもないし、自分の身は自分で守らないといけない。それが出来ないほど子供じゃない。 何も自ら、危ない橋を渡る必要なんてない。 危険な場所に身を投じる必要もない。 あの人だって鬼じゃない、きちんと話し合いたい意思を向ければ、私の戯言ぐらい聞いてくれるはずだ。 だって私たちは、常識を持ち合わせた大人なんだから。 彼に一度押し倒されている以上、ただの話し合いですんなり解決できるなんて思ってない。甘い考えだってわかってる。 でも、だからって彼のペースに流されるつもりもないし、このまま彼との関係をうやむやにするわけにもいかない。 交際を望んでいるなら断らなきゃいけないし、体の関係を求めてるだけなら、そんな意思はない事をはっきり伝えないと。 私はそんな、性にだらしない女じゃないんだから。 散々迷った挙句に出した答えは、意外にも自分の中にストンと落ちた。 パズルのピースがぴったりハマった時のような爽快感が胸を占める。これが一番正しい選択だって気になってくる。 これでいいんだ。 私はこの仕事が好き。 養護教諭という立場を通して、生徒と触れ合うことが好き。 今はそれ以外、何も考えたくない。 三十路を前にして恋愛も結婚願望もないなんて、世間から見たら親不孝の娘だと思われるかもしれない。けど、女の幸せは結婚だなんて誰が決めたんだ。所帯に入ったせいで不満ばかりの生活を虐げられている女性は、ごまんといる。 彼女たちに比べたら、私は幸せ者だ。 好きな仕事を見つけられて、自由な時間も多くて、毎日がこんなに充実してるんだから。 あの保健室で、生徒達を見守るのが私の日常だった。 一緒に笑ったり、冗談言い合ったり、たまには叱ったり相談に乗ってあげたりして、そんな風に、穏やかな日々を送るの。 今までも、これからだって、ずっとそう。 そう思ってた。 そんな当たり前の日常が明日からもずっと続くんだって、信じて疑わなかった。 今日はもう疲れたし、次の駅で降りてから、そのままタクシーに乗って帰ろう。 そう考えて、安堵の息を漏らしながら顔を上げた私は、 ───自分の考えがいかに甘かったのかを、知った。 私が座っている車両の、前。 そこに座っていた男の人の、黒く冷えた眼差しが、私の瞳とぶつかった。 何の感情も篭っていないような表情は、今しがた、頭の中に描いていた人物と、同じ。 どくん、と心臓が大きく波打った。 冷水を浴びせられたかのように身がすくむ。 目を見開いた私の前で、彼の口角が上がる。 ───やっと、気付いた。 そう言われた気がした。 ……いつから? 私がここに座った時、前には誰もいなかった。 途中から乗ったの? いつ? もしかして、尾けられてた? 様々な疑念が頭の中を駆け巡る。 けど、そのどれもが私の口から発することは無く、車両の動きが緩やかに止まった。駅のホームに着いて、扉がゆっくりと開いていく。 降りなきゃ。 降りて、タクシーに乗って寮に帰るんだ。 なのに私の体は金縛りにでもあったかのように動かない。恐怖が先立って動けなかった。 目の前にいた彼が、静かに席を立つ。 これ以上顔を合わせたくなくて、私はまた視線を床に落とした。 もしかしたらあの人は他人の空似で、そのまま電車を降りるんじゃないかって、そう願った私の希望はすぐに打ち砕かれる。 隣に誰かが座る気配を感じた。 それが誰かなんて、疑う余地も無い。 「メモは残しておいたけど、やっぱり道に迷うかと思ってさ」 膝の上に置いていた手に、彼の手が触れた。 焦らすようにゆっくりと動く指先が、私の握り拳を解く。 「迎えに来たよ」 導かれるように開かれた手の甲に、彼の手のひらが重なった。 「ちゃんと来てくれたんだ。えらいえらい」 「……来たくて来たわけじゃな、」 「今逃げようとか考えてただろ」 「………」 何も言えず黙り込んでしまった私の耳元に、彼がゆっくり唇を寄せた。 車内に人気は少ないといっても乗客はまばらに居るわけで、はた迷惑そうな視線を遠くから送ってくる。人目も憚らずこんな事をするなんて、本当に何考えてるんだろう。 常識に欠けた行為に気恥ずかしさを感じて、彼の胸を押し返す。 「やめて」 はっきりと拒否の言葉を貫いたものの、彼は一向に離れようとしない。それどころか、今度は手のひらを返されて指と指を絡まれた。 そのまま、互いの手が繋がれる。 まるで恋人同士のような触れ合いをしてくる彼に、戸惑いと苛立ちが募る。 「……友永先生」 「なに?」 「本当にやめてください。学校関連者の誰かに見られたら」 「こんな時間に?」 「っ、生徒の保護者……に、見られる可能性だって」 「じゃあ見られないところでならいいわけだ」 「ちが……っ」 そうじゃない。 そうじゃないのにって訴えようとする私の唇に、彼の人差し指が押し付けられた。 否定しようとした言葉はあっけなく封じられて、耳元に吐息が掛かる。 「次の駅で降りて」 耳元に落とされた、その小さな囁きの意味は考えずともわかる。 首を振って拒否を示せばいいのに、できない。 緩く繋がれたままの手は振りほどこうとすれば出来るほど弱々しいのに、それも出来ない。 結局私に拒否権なんて無くて、彼に従うほかに選択肢は残されていなかった。 トップページ |