態度悪かったかな 羽織っていた白衣をロッカーに仕舞いこみ、保健室の鍵を保管庫に戻す。そのまま足早に職員室へと赴き、荷物を抱えて早々に室内を出た。 その場にはまだ数人の教師の姿がいたけれど、特に会話を交わす事も無く、簡素な挨拶だけで済ませられたのは運がよかったかもしれない。 なんせ今の私は、とてもじゃないけど悠長に人と話が出来るような状況じゃない。 そんな余裕も無い。 静まり返っている廊下をひとり歩く。 向かう先は、生徒が出入りする正面玄関ではなく、職員室の奥にある教職員用の玄関口。 そこまで行けば、教員寮はもう目と鼻の先。 その場に着いて、周囲に人の姿が無い事を確認してから安堵の息を漏らした。 此処まで辿り着くまでに、誰とも鉢合わせることは無かったのは幸運だった。 保健室であんな目に合わされた私は、しばらく放心状態のまま、その場に座り込んでいた。 ずっと敬愛していた先輩の本性を目のあたりにして、衝撃と疑念と失望が胸の中を渦巻いていた。 ショックで言葉がでない。 思考が錯乱して、何も手につかない。 それでも時間が経てば、乱れた心音は次第に規則正しい一定のリズムを刻み始め、平常心を取り戻していく。 いつまでも此処で座り込んでいる訳にもいかず、疲労感が襲う身体を無理やり起こして、ふらつきながらも何とか立ち上がった。 中途半端に脱がされたストッキングは、もう一度履き直した。 けれど本来身に着けているはずのものが無い状態だと、当然だけど違和感が半端ない。ものすごく、スカートの中がスースーする。 下着も身に着けず校舎内を歩くなんて、一体何のAVだよと突っ込みたくなった。痴女か。もう情けなくて涙が出そう。 不幸中の幸いは、職員室以外で誰とも会わなかったことだ。保健室を出たときからずっと、自分の格好が気になって気になって、とてもじゃないが人前で平然を装うなんて無理だった。 もし人が行き交う廊下で派手にすっ転んだりしたものなら、しかもそれで下着を身に着けていないことがバレたら、私が確実に終わる。 けど実際にはそんな最悪な事態にはならず、とりあえず第一関門は突破できたと一息つく。 残る問題は寮に入ってからだけど─── と、そんな考えに至ったその時だった。 「こんにちは」 「ぎゃああ!」 「え?」 すぐ背後から掛けられた挨拶に驚いて、思わず雄たけびを上げてしまった。 そんな私の隣に並んだ声の主は、不思議そうな表情を浮かべながら真っ直ぐ私を見つめている。 「なんですか?」 「な、なんでもないです」 「はあ」 思わぬ形で受けた敵襲に身が強張る。 そうだった、コイツがいたんだった。 私にとって最も苦手な人─── 早瀬先生の存在を、綺麗さっぱり忘れていた。 つい手がスカートを押さえ込む。 み、見えてないよね。大丈夫だよね。 丈の短いスカートでもないし、透けて見えてるなんて事はないはず。 わかっていても落ち着かない。 大丈夫、バレていないと自分を納得させて、あくまでも自然体を装う。 「あ、先にどうぞ」 「……どうも」 素っ気無い返事はいつもと変わらない。 先日まで抱いていたこの人の印象は、穏やかで物腰柔らかな人柄だと認識していた。きっと私だけではなく、周りの人達も彼をそんな風に印象付けているはずだ。あんなに気性の荒い一面があるなんて、誰が想像できるだろう。 友永先生といいこの人といい、男って、女一人の前だとこうも態度ががらっと変わるものなんだろうか。 「……あ。早瀬先生、ストップ」 「え?」 「靴紐、ほどけそうですよ」 視線を下に落とした私の視界に映ったのは、紐が緩んで今にも解けそうになっている、彼の片方の靴だった。 彼自身も私に言われてから気付いたようで、脇に抱えていた鞄を一旦床に下ろし、しゃがんで靴紐を結び始めた。 その様子を傍らで眺める私。 眺め続ける。 眺め続けて、1分が過ぎた。 「……あの、早瀬先生」 「………」 「靴紐結ぶのに何分掛かってるんですか」 一向に立ち上がる気配の無い早瀬先生に声を掛けるも、彼はその場から動かない。指に紐を絡めて、何だかもたついているように見える。 「今、話しかけないでください」 「は?」 「集中してるので」 「………」 ……靴紐結ぶのに集中力なんている? 彼の視線は目の前の紐のみに注がれていて、他の事に意識を向ける余裕すらないらしい。ものすごく、悪戦苦闘してる様子が窺える。 ……なにこの人。紐も結べないの? 「あの、貸してください」 居ても立ってもいられなくて、座り込んでいる彼の前に移動する。その場にしゃがんで、彼から紐の両端を受け取った。 輪っかを作って引っ張って、きゅっと結ぶ。 いたって普通の結び方。 「はい、できました」 「……ありがとうございます」 「結べないんですか?」 「蝶々結びが苦手です」 「蝶々結びなんて小学生でも出来ますよ?」 「縦結びになる」 「ふ、」 思わず笑ってしまった。 「じゃあ、こっち側も結び直しておきますね」 「すみません」 「いーえ、これくらい別に───」 そこではた、と我に返る。 ……いやいや待って、なにこの雰囲気。なんだこの和やかな空気は。世話焼き女房みたいなこの感じは何事だ。 またこの人のペースに流されそうになっている自分に気づき、これはいかんと頭の中を切り替える。さくさくと結び直した後、彼の傍から離れた。 「……ありがとうございました」 「いえ」 「……じゃあ、お先に失礼します」 私に軽く会釈をして、鞄を手に彼はその場から立ち去っていく。駐車場へと向かうその後ろ姿を、遠巻きに見つめた。 ……靴紐も上手く結べないとか、どれだけ手先不器用なんだろう。 ピアノはあんなに滑らかに弾くくせに、変な人。 なんとなく、右の手のひらを見つめ直す。 赤く色づいた傷跡がまだ残ってはいるけれど、あと数日後には跡形も無く消えるだろうと思う。化膿していたり、破傷風になりそうな感じもない。 寮の自室に置いてある救急セットには、消毒液も一緒に収納されている。 あの日の翌朝に中身を覗けば、消毒液の量が僅かに減っていて、この傷口に塗る為に彼が使ったんだろうと予測できた。 あのぐしゃぐしゃに巻かれていた包帯も、最初は面倒で適当に巻いたのかと思って憤っていたけれど、本当は違うかもしれない。大体面倒であれば、わざわざ消毒まで施して、包帯を巻いてくれたりなんてしない。手先の不器用な彼なりに、必死な思いをして巻いてくれたのかもしれない。 あの下手くそ過ぎる巻き具合を思い出して、ほんの少しだけ、胸が温かくなった。 『……ごめん』 そこで不意に呼び起こされた記憶。 睡眠薬のせいで深い眠りに落ちる寸前、耳元に落とされた彼の言葉を思い出した。 今の今まですっかり忘れていた。夢と現実の狭間で聞いた、小さな謝罪と右手に触れる温もり。 傷付けてごめん、そう何度も囁かれたのを、今更思い出すなんて。 昨日の、地下鉄での出来事が蘇る。 謝罪の言葉しか口にしない彼に苛立って暴言を吐いてしまったけれど、今思えば、あれは彼なりの誠実な態度だったのかもしれない。 真っ直ぐに告げられた謝罪の言葉には迷いが無かった。 あの時彼は、弁解も釈明もしなかったんだ。 「……私、態度悪かったかな……」 彼のした事はやっぱり許せない。 私が謝る必要があるとも思ってない。 でも、だからって私が彼を傷付けていい理由にはならない。 胸の中に生まれた小さな罪悪感を、消すことは出来なかった。 トップページ |