失望しました はたり、と瞬きを落とす。 彼の申し出に思考が追いつかない。 部屋。部屋に来いって言ったの? 「………」 この人は、確か教員寮に住んでない。 マンションで一人暮らしだったはずだ。 そのマンションに来いっていう誘いの意図は、考えずともわかる。 「―――……嫌」 「………」 「絶対に、いや」 「あっそ」 素っ気無く返された呟きと同時に、彼の手が性急に動き始めた。 突然ストッキングを膝下まで引き下ろされて、私は声にならない悲鳴を上げる。 「……っ!?」 「じゃあ、ここで抱く。いい?」 「や……めて、さわんないでっ」 「人の話聞いてる?」 「っ……」 「ここで抱かれんのと俺の部屋に来るのとどっちがいいかって聞いてんだよ」 馬乗りになった状態で私を見下ろす彼の眼差しは、どこまでも冷たい。 さらさらと揺れる前髪から覗く冷えた瞳が、私に拒否権のない選択を迫る。 この状況で部屋に誘われるのは、きっとそういう意味だ。この流れで、家で一緒にご飯でも、なんて単純な話じゃないはずだ。 嫌。こんな最低な事をする人に、好きでもない人に抱かれるなんて絶対にいやだ。 こんな誘いに安易に乗ってしまうような、軽い女だと思われることも嫌。 でも、だからってこの状況に妥協できる訳が無い。 こんな所で抱かれるわけにはいかない。 それだけは絶対に、避けなきゃいけない。 だから、仕方ないんだ。 私には選択肢なんてないんだから。 だから。 だから───…… 「………行きます」 「………」 「部屋に行くから、だから」 「………」 「学校では、やめて」 搾り出すように言葉にした声は悔しさで震えていた。 嫌で嫌でたまらないのに、そうせざるを得ない状況に追い込まれた自分の迂闊さに腹が立つ。暴力的な口調と力でねじ伏せて屈服させようとしているこの人にも。 もうこの先輩を慕う気持ちも、同じ母校出身だという喜びも私の中には無い。 あるのは、怒りと失望だけ。 目の前の男を殴ってやりたいとすら思っているのに、いまだに私の手首を拘束している彼の片手は緩むことが無い。 「……っ!?」 足の付け根辺りに違和感を感じたのはその時で、その正体に気づいた私の体は、驚きでびくりと震え上がった。 いつの間にかスカートの中に潜り込んでいた彼の指先が、下着に直接触れている事に気づいたから。 思わず身を固くしてしまった私を前に、彼は何故か目を丸くしたまま、真っ直ぐ私を見つめている。 「あれ。あんたって紐派なの?」 「ちょ、どこ触って」 「ははっ、まじか。えっろ」 下品な単語を浴びせられて、羞恥で怒りがまた沸いてくる。 きつく彼を睨み返して反撃しようとしたけれど、そんな私の態度を気にも止めず、彼は肩を震わせながら笑ってる。 何だか肩透かしをくらった気分だった。 なんなの。 そんなに私が紐パンつけてたらおかしいの。 ていうか普段から紐じゃないし、今日はたまたまだし。と、謎の弁解を心の中で繰り返す。 やっと笑いを引っ込めた彼の指先が怪しげに動く。片方で括りつけている紐を人差し指に引っ掛けて、そのまま力任せに引っ張った。 結び目はあっけなく解けて、薄っぺらい布地が隠していた部分を曝け出す。 言葉を失って硬直している私をよそに、反対側にも素早く移動した指先が、もう片方もあっさり紐解いていく。 縛りを失った下着をするりと抜き取られて、剥ぎ取られた部分がひんやりとした空気に触れた。 「なっ、何して……っ!」 「いや、部屋に行くとか言っておいて「家がどこかわからなくて行けませんでした〜」なんて言われちゃ困るからさ」 抜き取った下着をひらひらと見せ付けながら、清々しいくらいの爽やかな笑顔を披露される。 そしてあろうことか、それを自分のズボンのポケットに仕舞い込んでしまった。 血の気が引く。 普通に気持ち悪い。ありえない。 「し、下着返して」 「返してほしかったらちゃんと家来いよ? 嫌いな男の元に、脱ぎたてほやほやの自分のパンツがあるなんて嫌だろ?」 「さっ……最低! 下着どろぼう!」 「だから、ちゃんと来てくれたら返すって」 両手首を抑え付けていた力が緩む。 圧し掛かっていた重みも消えて、彼自身も私から離れていく。 解放された途端、弾かれたようにベッドの端に後ずさりして、両手でスカートを押さえ込んだ。 中途半端に下ろされたストッキングのせいで、思うように動かない足がもたつく。 そんな私の痴態っぷりを、彼は余裕の笑みを浮かべたまま、楽しそうに眺めている。 「何か俺に言いたいことある?」 「見損ないました」 「他には?」 「失望しました」 「で?」 「いい先輩だと思ってたのに」 「はっ」 皮肉めいた笑みを漏らす。 「いい先輩、ねえ」 「……なんですか」 「なあ、知ってる? 「いい人」って、「どうでもいい人」って意味合いもあるんだって」 「………」 「……俺は、あんたのどうでもいい先輩になるつもりなんか、ない」 最後の一言に込められた、狂気にも似た激情が私の胸をざわつかせる。 冷えた瞳、冷たい眼差し、それに反して真っ直ぐなまでにぶつけてくる彼の想い。 遊び半分で抱きたいと言っているわけじゃないことくらい、私にもわかる。 背後を向けて、引き戸に手を掛けた彼に何も言えないまま、私はベッドの上で身動きひとつ出来ず、固まっていた。 ぱたん、と静かに閉められて、視界から彼の姿が消える。 足音が徐々に遠ざかって、耳に捉えられなくなった途端、緊張状態にあった体から一気に力が抜けた。 後ろにふらついて、肩が壁にぶつかる。 そのままズルズルと壁伝いに体は崩れ落ちていく。 シンと静けさを取り戻した空間で、自分の心音だけが大きく響いていた。 「………な……に、あれ………」 声が掠れる。 喉の奥がカラカラに乾いていた。 彼を招き入れる形でこの保健室に入ってから、僅か数十分の出来事。 多分30分も経ってない。 その間に、自分を取り巻く環境が一気に変わってしまった。 たった一人の男の存在に、全部壊されようとしている。 ───怖い。 彼が怖い。 人としても、男としても怖い。 好意を寄せてくれているのはわかったけど、その上で私に何を求めているのか全くわからなくて混乱する。 早瀬先生のように交際を望んでいるようには見えない。 心が手に入らないから身体だけでも、なんて風にも見えない。 『───俺に何したかわかってんの?』 吐き捨てるように告げられたあの言葉が、頭の片隅にこびりついている。 どういう意味なんだろう。 私は彼に、何かしたのかな。 最近、それとも、10年前に? 「……どうしよう」 本当は彼のマンションに行きたくない。 どうしてわざわざ、好きでもない奴に抱かれるために部屋を訪れる馬鹿がいるんだろう。 それでも、私は行かなきゃいけない。 あの言葉の意味を、ちゃんと聞かないと。 知らなければいけない事だと、直感で悟った。 トップページ |