嫌いだろ ───息ができない。 胸倉を強く掴まれているこの状況は、首を絞められている状態に近い。更に彼の唇で口を塞がれているお陰で、息をつく暇も余裕もない。 生理的な涙が浮かぶ。 呼吸通路を絶たれ、生命の危機を察知した心臓が馬鹿みたいに暴れだす。 キスされているのに、甘い雰囲気なんて微塵もない。 彼の両手を掴んで手の甲に爪を立ててみるけれど、そんな私の抗議もお構いなしに、ひたすら唇を貪ってくる。 息苦しくて、まともに立つこともままならない。 足元がふらついているような感覚が襲って、平衡感覚がおかしくなってる。 苦しくて苦しくて、唇の感触も熱も全部、どうでもよくなっていた。 意識が薄れそうになる寸前、やっと唇が離れた。 解放されたと同時に、彼の体を思い切り押しのける。倒れこみながら机に手をついた。 「……っ、う、けほっ」 思い切り息を吸い込めば、過剰に取り入れすぎた分の酸素が喉に負担をかけて激しく咳込んだ。 彼の手の甲が喉仏をずっと抑えていたせいで、息苦しい感覚が喉の奥に生々しく残っている。 何とか呼吸を整えようとするも二の腕を掴まれ、力の入らない体は、彼の強引な誘いにも素直に従ってしまう。 引きずられるように引っ張られ、彼の片手が、部屋の真ん中で仕切られているカーテンを開いた。 その先にあるのは、ベッド。 さあ、と血の気が引いていく。 密室な空間で男と2人きり、そんな状況下でベッドに組み敷かれたら、その先の展開なんて私でも予想できる。実際、似たような状況を最近味わったばかりなのだから。 抵抗しないと、頭ではそう判断できるのに、正常な感覚がいまだ取り戻せていない私の体は、あっけなく奥へ放り投げられた。 ベッドのスプリングが私を受け止める。 片肘をついて体勢を立て直そうとしたけれど、すぐさま彼がベッドに乗り上げ、そのまま覆い被ってきた。 逃げ道を阻まれて、怒りが恐怖へと変わる。 「っ、や……!」 握りこぶしを作って彼の胸を押し返すけど、この不利な体勢ではそんな抵抗も無に近い。 あっけなく両手首を掴まれ、強引に開かれる。そのまま白いシーツの上に押し付けられたら、もう何もできない。 手も足も自由を奪われた体は、目の前の男への恐怖で震え始めていた。 「あんたさ」 冷えた声が落ちる。 初めて聞く荒々しい呼び方に、耳を疑った。 「自分が俺に何したかわかってる?」 見上げた先にある友永先生は、今まで私が慕ってきた先輩じゃなかった。 表情が違う。 口調が違う。 纏う雰囲気も何もかも、別人かと錯覚するほどに豹変していた。 つい数分前まで朗らかな笑顔を私に向けていたのに、今ではもう、その欠片すら見当たらない。 「わ、わたし何もしてな、」 「したんだよ」 私の言葉を遮って彼が主張を漏らす。 表情は涼しげなのに、痛いくらいに手首に食い込んでくる両手が、彼の激情を露にしていた。 「……ほんと、10年経っても全然変わんねえな、あんたは。そんなに男に媚びへつらって楽しい?」 「な……誰が」 頭にかっと血が上る。 いわれのない侮辱をされれば、誰だって腹が立つに決まってる。 私がいつ、男に媚売ったんだ。 そんな事をした覚えはないし、そもそも私は仕事や生徒を優先順位にしているのだから、男も恋愛もどうでもいい。 本音を言えばプライベートにまで関わってほしくないとすら思っているのに、媚売ったところで面倒なだけで、何の意味もない。 けど、そんな私の胸の内など、彼はお見通しのようだった。 「自覚ないんだ? だとしたら余計タチ悪いな」 「何が言いたいんですか」 「早瀬に告白されただろ」 目を見張った。 思いもよらない名前をこの場に出されて、戸惑いと憤りで掻き乱されていた思考が途端にクリアになる。 どうしてこの人がそれを知ってるのかとか、早瀬先生に告白を受けた事とこの状況と、一体何の関係があるのかとか、色々疑問は浮かぶのに。 そのどれもが、私の口から音として出てこない。 「知ってるよ。葉月先生に告白しろってアイツに発破かけたの、俺だから」 「……え?」 意味がわからない。 そんなことをして、何になるんだ。 「嬉しかった? 男に一生懸命愛想振りまくって、自分を慕ってた後輩に好きだって告白されて、男を手に取るなんて楽勝だって、心の中では思ってたんじゃないの?」 「そんなこと思ってません!」 「だよな。あんたはこう思ったはずだ。───面倒くさい、って」 「………」 「あんた、人から干渉されるの嫌いだろ」 はっきりと言い切られたら、何も言い返せなくなる。 何もかも彼に見透かされているような気がして、私は言葉を詰まらせた。 「早瀬があんたに想いを打ち明ければ、あんたはアイツから距離を置こうとする。面倒だから、必要以上に関わってほしくないから、頑なに拒絶しようとする。そうだよな?」 「……それは」 「普段から誰彼構わず愛想振りまいてるから、そういう事になるんだろうが。自業自得だろ」 ───自業自得? どうしてそんな事を言われるのか理解できない。 男に媚売ってるつもりは全く無いけれど、人に愛想を振っている自覚は多少なりともある。他人から見れば媚を売っている印象を受けたのかもしれない。自分が気付かなかっただけで。 でもそれは、そうする事が必要だから、そうしたまでだ。自分が悪い事をしているなんて思ったことはない。 「……愛想を振りまいて、何が悪いんですか」 「………」 「じゃあ、男の人とは一切関わらなくてもいいって言うんですか。そんな訳にはいかないじゃないですか。私たちは、社会人なんですよ。生徒の見本となるべき教師なんですよ」 男と関わりたくないなら、関わらなくてもいい。 苦手な人と関わりたくないなら、わざわざ歩み寄る必要はない。 そんな我侭が通用するのは、学生の頃だけだ。社会に出れば、そんな自己主張は通用しなくなる。 高校・大学を卒業して社会の輪に入ってから、仕事関連で他人と接する機会が増えた。 日々、大勢の人と関わっていく中で、自然と身についた、社会人としての常識。 人間関係は良好に保たなければならない、崩しちゃいけない。 輪を乱しちゃいけない、上司に逆らってはいけない。 それが社会のルール。 そう学んだ。 愛想良くする事も、博愛主義に徹するのも、全部そのルールを守る為だけの要素に過ぎない。 男に好かれたいなんて邪な気持ちを抱いたことなんて、一度も無い。 私はあの人が、早瀬先生が苦手だった。 他人と積極的に関わる訳でもなく、自分の意見を主張することもなく、ただ人の言うことに頷いているだけの、誰にでも"いい顔"しているだけの、受身な彼が苦手だった。 けどこれは、あくまでも私の彼に対する印象だ。彼にとってはそれが、社会のルールを守る為に身につけた処世術なんだろう。 あの人が博愛主義だって言うなら、私だって人のこと言えない。 あの人が悪いわけじゃない。 間違ったことをしてるとも思ってない。 社会の輪を乱さない為に必要な事だから、仲がいい振りをしてるだけ。 彼も、私も、友永先生だってそうだ。 そのはずだ。 「……あんたの言ってることは正しいと思うよ」 「………」 「間違っているとも思ってない」 「………」 「けどな」 柔らかなシーツに押さえられていた両手首を、今度は頭上でひとつにまとめられた。 片手だけで私の両手を拘束した彼は、冷ややかな瞳で私を見下ろしている。 「あんたが他の男にヘラヘラしてるとこ見てると、イラついてしょうがねえんだよ」 乱暴な言い草と共に、彼の空いた片手が今度は私の脚に触れた。 驚きで肩が跳ねる。 僅かに反応してしまった事に気を良くしたのか、彼の口角が可笑しそうに歪む。 「さっきから聞いていれば、社会だのルールだの。ひとりで何の話してんだよ。教師だったら何? ベッドに押し倒せばただの男と女だろうが」 ぐっと力を込められて、手首に鈍い痛みが走る。思わず顔をしかめた。 睨みつけるように彼を見上げれば、太ももに触れていた彼の手が離れていく。窮屈そうなネクタイを緩め、その先を胸ポケットに突っ込んだ。 そして私の両足を割いて、彼の片足が滑り込んでくる。 ………あ、本気だ。 この人、本気で私を抱こうとしてる。 全身が総毛立つ。 恐怖と緊張で心臓が暴れ出す。 手足も思うように動かせない。 逃げる隙なんてどこにもなかった。 「顔、あげて」 どこか優しい響きを伴った言葉の意図を悟って、私は反射的に顔を背けた。今できうる限りの、精一杯の抵抗のつもりだった。 私の拒絶反応に、彼は小さく舌打ちする。 顎を掴まれて、強引に持ち上げられた私の唇に、彼の唇が重なった。 「……んっ…、」 触れ合った唇の熱は思いのほか大人しくて、強引に押し倒してきた人物とは思えないほど優しい触れ方だった。 勢いのままにがっついてくるんじゃないかと、そう身構えていた私に与えられた口付けは、啄ばむような軽い触れ合いを施しているだけで、口内に侵入してくることはない。何度も角度を変えながら、唇から伝わる熱を堪能している。 強張っている私を気遣って、あえて軽い触れ合いに留めているのかもしれない、そう思ったら、相手に対する警戒心が少しだけ薄れた。 やってる事も発言も暴力的なのに、キスだけは優しいなんて、卑怯だ。 恋人同士のような触れ合いに脳は甘く陶酔し、身体から少しずつ、力が抜けていく。 それを悟った彼の手が、今度はスカートをたくし上げて内股に触れた。 皮膚の薄い部分を指の腹で撫でられて、その緩やかな刺激は、私の中にある官能を呼び覚ましてくれる。 下半身が甘く疼いて、堪らず両足を閉じた。 「……嫌がんないのな」 「いやに決まってる……っ」 「ふーん。じゃあなんだろね、あんたのその顔。真っ赤な顔して目尻下げて、目も熱っぽく潤んじゃって。抱いてほしいって言ってるようなもんだろ」 「なっ……そんなわけ……!」 「このまま抱くから。声、抑えてろよ」 無情にもそう告げて、彼の手が際どい所に滑り込んでくる。思わず声をあげそうになった私の吐息まるごと、彼の唇に塞がれた。 両手は相変わらず拘束されたままで、身を捩って拒否を示しても彼は見向きもしてくれない。 抱いてほしいなんて思ってない。 なのに、どうしてこんなにも身体が疼くんだろう。 さっきまで感じていたはずの不快感は薄れ、あるのは奥底から沸き起こる、甘やかな疼き。 背筋から這い上がる震えは、どこか期待感から来る震えと似ていた。 戸惑いが生まれる。 こんな場所で抱かれそうになっている事に、高揚感を見出してしまった自分に。 いつから私はこんな尻軽女になったんだと頭を抱えたくなる。 ………だめだ。 ここは、学校だ。保健室だ。 鍵だって掛けてない。 誰かが入ってくる可能性は低いかもしれないけど、それだってゼロじゃない。 現に音楽室には生徒が数人いるのに、彼らが保健室の前を通る可能性だってあるのに。 こんなところ見られたらどうするの。 そもそも生徒が学業を励む学びの校舎内で、教師同士がこんな事をしているなんて非常識にも程がある。 もう交際禁止とか恋愛が駄目だとか、そんな範疇を超えている。 「……っん、やめて、やだ……!」 唇が離れた瞬間に、必死で彼に抵抗する。 結局のところ自分が出来るのは懇願する事くらいで、どうする事もできない悔しさともどかしさで、鼻の奥がツンと痛む。 目尻に浮かんだ涙を拭うこともできず、頑なに拒否の態度を見せる私に、彼は黙ったまま私を見下ろしていた。 「……そんなに嫌?」 「当たり前です!」 「何が嫌? 俺に抱かれること? それとも此処で抱かれること?」 「両方に決まって……っ!」 「今日、俺の部屋に来てくれる?」 全否定しようとした言葉は、その突然すぎる提案で遮られた。 トップページ |