知ってたよ



 鈍い金属音が指先の奥から響き、解錠する。
 そのまま室内に足を踏み入れ、後に友永先生も続いた。

「やっぱりここが一番落ち着くなー」

 自分の持ち場に帰ってきた安堵感が心を満たす。
 自然と笑顔が浮かんでしまうのは、やっぱりここが、私にとって一番特別な場所だからだ。

 保健室に入った瞬間鼻につく、消毒液の匂い。
 清潔感を保った白のシーツやタオルは、いつも念入りに除菌している。
 クリーム色に染まった壁に対して、派手すぎない緑系統のカーテンは、人の目に優しいパステルカラーを選んだ。
 大地の色に近いこの組み合わせは、色彩心理学上、人に安らぎを与える効果があると証明されているから。

 保健室は何も、怪我をした生徒や、体調が悪い人を休ませる為だけにあるわけじゃない。
 人間性も乏しく経験値も浅い未熟な子供達は、内に秘めてることが沢山ある。
 迷いも、悩みも、不安事も。
 それらを全部、吐き出せる場所であればいい。
 いつだって話を聞いてあげられる、生徒の立場に寄り添ってあげられる存在でありたい。
 私の中の保健室という場所は、いつだってそう、特別な場所だった。

 学生時代も、よく保健室に出入りしてたなあ。
 過ぎ去りし日々の事を思い浮かべながら、私は用意したカップに湯を注ぐ。
 仄かに立ち込める珈琲豆の香りが、精神を落ち着かせていく。

「葉月先生は、どうして養護教諭に? 確か、数学教諭を目指してたんじゃなかったっけ?」

 私からコーヒーカップを受け取り、友永先生がそう問いかけてきた。
 私と2人でいる時の彼は、口調が砕けて途端にフレンドリーになる。勿論その場に他の教諭がいれば、敬語口調のままだ。
 多分それは私だけじゃなくて、他の人とも、そういう態度なんだろう。

「まあ、そうなんですけど」

 彼の問いかけに答えながら、はたり、と頭の片隅に疑問が沸く。

 ……わたし、この人に数学教諭を目指してたなんて、言った事あったかな?

「高3の時だったかな。なんか冷めちゃったんですよね。先生っていう職種に憧れる気持ちは強かったけど、勉強を教える立場よりも、生徒の話を聞いてあげたり、体調を気遣ってあげられる保健の先生に、気持ちが傾いちゃって」
「養護教諭に憧れを抱く生徒は多いからね」
「お陰で大変でした。養護教諭は狭き門なので」

 けれど今になって思えば、あの時選択を変えた私の判断は間違っていなかったと思う。

 生徒から相談を受けたり冗談を言い合って笑いあったり、そんな風に過ぎていく此処での時間が、何よりも愛しくて尊い。
 この仕事が天命だなんて言うつもりはないけれど、そう思えるほどに充実した毎日を送っている。
 何の不満も無い。
 養護教諭になった事に後悔を抱いた日なんて、今の今まで一度だってなかった。

「年々、養護教諭を目指す人は多くなってるらしいね」
「そうみたいです。……あの、」
「ん?」
「私、数学教諭を目指してたなんて言った事ありましたっけ?」

 確かに一時期、数学教諭を目指していた時期もあった。
 でも、それを人に話した事はない。
 ない、と思う。

「ああ、うん。知ってるよ」

 それとも私が忘れてるだけで、口が滑って喋った事があったのかもしれない。
 私の怪訝な表情に気がついたのか、コーヒーカップから口を離した友永先生の視線が、私に移る。

「もう、ずっと前から知ってたよ」
「……ずっと、前?」
「そう、ずっと前、ね」

 染み込ませる様に、ゆっくりと繰り返される。
 意味深に告げられた言葉の意図がわからなくて、頭の中は疑問符が浮かぶばかり。
 首を捻ってばかりの私の反応が面白かったのか、友永先生は小さく噴き出した。

「はは。やっぱり、何にも覚えてないんだ」

 優しげな表情なのに、紡がれたその一言はどこか冷淡な響きを感じさせて、胸がざわりと騒ぎ出す。
 どくどくと鼓動を鳴らし始めたそれは、甘やかな高鳴りとは全然違う。不吉なことが起こる前兆にも似た、例えようのない漠然とした予感が呼び起こすもの。

「え……?」

 何の事かわからず戸惑ってばかりの私の頬に、彼の手が触れた。
 熱を伴った指先が、頬に掛かる髪を掬う。
 普段はひとつに束ねている髪は、香織の助言の通り、今は解いたままにしている。その一束を、ゆったりとした動作で耳に掛けられた。
 意味ありげな口調と、唐突に触れてきた彼の様子がいつもと違う雰囲気を纏っていて、私は困惑するしかない。

「───10年前」

 そんな私に彼が告げたのは、予想外の真実。

「俺もここの生徒だった」
「………え」
「葉月先生も、だよね?」

 はたり、と瞬きを繰り返す。
 彼の口から放たれた言葉を理解するまでに、数秒掛かったと思う。
 呆然と立ち尽くす事しかできないでいる私の目の前で、彼は笑みを深くした。
 私が心底驚いている様を、面白がっているようにも見える。

「……つまり母校、ってこと……ですよね?」
「そうなるね」
「え、じゃあ私達、10年前に知り合ってたってことですか?」
「実は少し話したこともあるんだけど」
「え!?」

 驚いた。
 だとしたら、この人は仕事上の先輩だけではなく、同じ高校出身の、ひとつ上の先輩にあたる。

 けど私は、彼の事を覚えていない。
 古い記憶を探っても、若かりし頃の彼の姿は一向に思い出せない。
 話したことがあると言われても、何も覚えてない。

「お、教えてくださっても、よかったのに」
「ごめん。そっちから気付いてくれるかな、って期待してたんだけど」
「う……すみません……」

 何だか責められているような気分になって、思わず謝罪の言葉が口に出た。
 けれど、どんなに記憶を掘り起こしてみても、10年前にこの高校で、彼と話をしたらしい思い出は見つからない。
 友永先生は覚えているのに私が忘れているなんて、何だか自分が薄情な人間に思えてくる。

「何だか、申し訳ないです……」
「まあ、無理もないよ。学年違うし、そんなに親しかったわけじゃないから」
「でも、嬉しいです。まさか同じ母校出身の人と、この高校で一緒に教師をやってるなんて。なかなかないですよね」

 素直に嬉しいと感じた。
 同じ高校で学業を勤しんでいた人と、10年後にこうして再会して、同じ高校で教師という職種に就いている。
 こんな偶然、滅多にない。
 何か運命的なものまで感じてしまって、私の心はすっかり舞い上がっていた。
 さっきまで胸に抱いていた不安なんて、あっけなく消え去ってしまった。

 だから。

 だから、次に彼が起こした行動はまさに、虚を突かれたとしか言いようがなかった。

「俺も、嬉しいよ」

 急に二の腕を掴まれて、引き寄せられる。
 密室に男と2人きりという状況に、すっかり油断しきっていた私の体は、何の抵抗もできずに彼の腕の中に閉じ込められた。

「10年後にここで、初恋の人に会えるなんて思ってなかったから」
「………え」

 予想だにしていなかった告白に、心臓が飛び跳ねた。
 優しい声と体温が、全身を包み込む。
 私をきつく抱く腕に力が篭って、絶対に離さないと言わんばかりの強い意思を直に伝えてくる。
 空耳とか聞き間違いとか、はたまた彼の軽い冗談なんじゃないかと疑ってみても、その力強い抱擁が何よりも、嘘偽りのない告白だと伝えてきた。



 彼の初恋の相手がわたし。
 けれど、今の状況はそんな可愛い話だけじゃない。
 彼の初恋はまだ、終わっていない───
 そこまで私は、鈍くない。

 慕っていた人の初恋の相手が自分で、しかも数十年経った今でも想い続けてくれていたなんて、まるで少女漫画のような話だ。
 きっと普通の女子なら、この運命とも呼べるような甘やかな展開に、胸をときめかせるに違いない。

 なのに今、私が胸に抱いているのは───

 彼に対する恐怖と、嫌悪と、不快感しかなかった。



 舞い上がっていた心がストンと地に落ちた。
 形のない不安が胸の中に蘇って膨れ上がる。
 体が強張る。
 呼吸が浅くなる。
 頭の中で再び、警鐘が鳴り響いていた。

 ───だめだ。

 本能で悟る。
 この人は、駄目だと。

 このひとも、早瀬先生と同じ。
 私の平穏な日常を、壊すひとだ。



 咄嗟に危機感を抱いた私は、片手で友永先生の胸を押しのけようとした。
 けれど、彼の体は微動だにしない。
 そればかりか、私を抱きすくめたまま頭上で乾いた笑いを漏らす。

「……葉月先生。ひとつ、言っておきたい事があるんだけど」

 ゾク、と悪寒が走った。

 さっきまでの優しい声音なんかじゃない。
 笑い混じりに何かを伝えようとしてくるその声は温度がなく、冷え切っている。

 聞きたくない。
 この先は聞いてはいけない気がした。
 なのに、そんな私の拒絶を戒めるかのように、友永先生は拘束を解こうとはしない。
 露になった耳元に、小さな囁きを落とす。

「───男と2人きりの『何もしない』は、信じたら駄目だろ」

 あの日の夜。
 早瀬先生にも告げられた言葉と、全く同じ台詞を繰り返される。
 くらり、と眩暈がした。



 腕を解いた彼の両手が、突然私の胸倉を掴んだ。
 乱暴な扱いに怒りを覚えたのは一瞬のことで、そのまま勢いよく、彼の方へと引っ張られる。
 急に酸素が喉を通らなくなった私の意識が、一瞬だけ飛ぶ。
 勢いのまま前のめりになった体は、けれど床に倒れることはなかった。

「んっ……!」

 胸倉を掴んだまま身を屈めてきた彼の唇が、私の唇を塞いだ。





 あの人の告白が発端で崩れかけた日常。
 それでも、ギリギリで保っていたはずの、私の平穏な日々は。

 この瞬間、今度こそ本当に───

 終わりを告げた。

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