何もする気はないけど 放課後、音楽室の近くを通りかかった時のこと。複数の生徒達の笑い声が聞こえてきて、思わず歩みを止めた。 声は音楽室から聞こえてくる。 同時にピアノの音も。 でも今はテストを間近に控えた期間中だ。部活動は勿論中止で、生徒は下校しているはず。 何の用もないのに残ってるなら、帰らせなきゃ。 そう思って扉に手をかけようとした私の目に映ったのは、ピアノの周辺に集まる数人の生徒達と、その真ん中で座っている早瀬先生の姿。 選択教科を音楽にしている生徒達のようだった。 「はやせん、次これ弾ける?」 「どれ?」 「あのね、テレビのCMで流れてるやつ」 「曲聴けば弾けると思う」 「これ」 ひとりの生徒がスマホを向けて、流れるメロディーを聞いた早瀬先生の手が動き始める。指先が白と黒の鍵盤に滑り、なめらかに音を紡ぎ始めた。 それを聞いた生徒達からは感嘆の声が響き、笑い声が交じる。 そんな微笑ましい光景が広がっていた。 「………」 ピアノ、弾けるんだ。 そりゃ音楽教諭なんだから弾けるでしょ、と内心突っ込みながらも、早瀬先生とピアノという組み合わせがどうもしっくりこなくて、違和感を感じずにいられなかった。 失礼にも程がありすぎるけど、私の中では本当に、意外な印象でしかない。 昨日まで右手に巻いていた包帯は、今日から外すことにした。どうしても目立ってしまうからだ。 傷口はまだ塞がっていないものの、痛みはない。傷の具合から見ても、完治まであと数日ってところだ。外したところで問題はなかった。 あの出来事の翌日、朝の9時に目が覚めた。 カーテンの隙間から漏れる光が眩しくて瞳をこする。不意に、昨晩の出来事が脳内にフラッシュバックした。 隣に早瀬先生の姿はない。 慌てて自身の格好を確認したけれど、服がはだけていたり脱がされている形跡もない。最悪な事態は回避できたのかと安堵の息をついた時、右手に巻かれた包帯に気付いた。 多分彼が巻いてくれたのだろうと思うけど、巻く、という表現が似ても似つかないほど、歪な仕上がりに出来上がっている。とりあえず巻くだけ巻いてみました的な仕上げ具合は、適当なのか、それともただ下手糞なだけなのか。巻き方がわからなかったにしても、小学生の方がもっと丁寧に巻けると思う。 扉ガラスの向こう側では、早瀬先生が軽やかにピアノの旋律を奏でている。その繊細な指の動きを見ても、彼が手先の不器用な人だとは思えなかった。 やっぱりあの包帯は適当に巻いたのかと思うと、ちょっとイラッとする。 まるであの晩のことを、彼が微塵も反省していないように思えたから。 いつもの私ならきっと、このまま音楽室にお邪魔して、この輪に入り込んでいるだろう。 けど今は、とてもそんな気分にはなれなかった。その輪の中心にいるのが彼だという現実すら憎らしく思えてくる。 怒りにも似た感情がこみ上げてくる前に、この場から離れようと後ろを振り返った。 「早瀬先生ってピアノうまいんだなー」 「……わあ!?」 思わず声を張り上げてしまった私に、しっ、と人差し指を口に添えて、友永先生はにこりと微笑んだ。 慌てて音楽室の方を振り向いたけど、彼らはこちらの様子には気付いていない。 ほっと胸を撫で下ろし、顔を見上げる。 「驚かせるつもりはなかったけど、ごめん」 「いえいえ。びっくりしましたけど」 「たまたま近くを通りかかったら、ピアノの音が聞こえてきたから」 「私もです。選択教科が音楽の生徒達ですね」 「失礼かもしれないけど、早瀬先生とピアノって意外な組み合わせだなあ」 なんて朗らかに笑う。 友永先生も、私と全く同じ事を思っていたことに苦笑してしまった。 ちょっとだけ気分がいい、なんて、私は相当性格が悪いかもしれない。 邪魔するのも悪いと思って、私たちは今度こそ、その場を離れた。 残っている生徒達を帰らせようとした最初の目的は果たせなかったけれど、彼らは早瀬先生が受け持ちの生徒なんだから、彼に任せよう。あの人だって一応、教師の端くれなんだから。 「あの、先日は本当にすみませんでした」 廊下を歩きながら、謝罪の言葉を口にする。 先日、空き教室でたまたま目撃してしまった光景に、躊躇していた私を助けてくれたのが隣の先輩だった。 「自分の未熟さを思い知りました」 「葉月先生が躊躇った気持ちは、俺もわかるよ。校則を守ることは勿論大事だけど、その部分だけに囚われてばかりだと、視野は狭くなる。校則が必ずしも生徒の為になるとは、俺は思ってないから」 でもこれは先輩方には告げ口しないでね、そう言いながら友永先生は茶目っ気たっぷりに笑った。 そんな彼の姿に、私もつい笑みを返す。 堅苦しい理念や概念に囚われず、柔和な考えを持てる人。 やっぱり敬愛に値する先輩だと思った。 「他にも、何か困ったことがあれば相談して。俺でよければ」 「困ったこと……」 一瞬だけ、早瀬先生の姿が脳裏に浮かんだけれど。 「なにかあった?」 「あ、いえ。なんでもないです」 口から出そうになった愚痴を無理やり飲み込んだ。あんなの、どう人に説明すればいいのかもわからないし、気軽に相談できる内容でもない。 早瀬先生に告白された上に部屋に押しかけられたなんて、とてもじゃないが同じ職場で働いてる人に言えるわけがない。 「あっ、友永先生も、何か困った事があればいつでも相談乗りますよ」 だから、わざと話題転換させて誤魔化した。 「お、ほんとですか」 「私じゃ、あまりご期待に添えないかもしれないけれど」 それでも、何か困ってることがあれば力になりたいと思ってる。 そう思うのは別にいい人ぶってる訳ではなくて、あくまでそれも私の仕事の一環だと思ってるからだ。 仲良くしたい、力になりたいと思っているのは本当。 ……プライベートにまで干渉してこなければ。 「相談か……じゃあ、乗ってもらおうかな」 予想外の返答に驚いて、私は友永先生を見上げた。 普段と何も変わらない、穏やかな笑み。 悩みを抱いているような雰囲気は、その表情からは少しも感じられないけれど。 「何か悩み事が?」 「まあ、そうかな。ちょっと困ってるというか」 「私でよければ、話聞きますよ」 「あまり他の人に聞かれたくない内容なんだよね」 困ったように微笑まれて、私は周囲に視線を巡らせた。 夕暮れに染まる廊下に、生徒の姿はおろか、教職員の姿も見当たらない。 とはいえ、あまり人に聞かれたくないらしい内容を、廊下で聞くのもいかがなものか。 それなら、と私は彼にひとつの提案をした。 「なら、保健室で聞きますよ。テスト前ですから、生徒達も来ませんし」 「いいの?」 「構いませんよ。あ、鍵もここにあります」 白衣のポケットの中から、銀色に光るそれを取り出して彼に見せる。普段であれば夕方まで開放している保健室は、テスト期間中だけは生徒が訪れる事が無いので、早々に閉めるようにしていた。 この鍵も、保管庫に戻そうとしてポケットに入れていただけのもの。 「……本当に、いいの?」 「え?」 行き先を、職員室から保健室に変えて歩き始めた私の耳に届いた、か細い声。 振り向いた先にいる友永先生は、意外にも、真剣な眼差しで私を見つめていた。 「まあ、何もする気はないけど」 「……?」 意味深な口調ぶりに首を傾げる。 彼が何を言いたいのかわからなくて困惑した。 「ほら、男と2人きりになるわけだし」 「はあ」 驚いた。異性を意識させるような発言を、まさかこの人がするとは思わなかったから。 彼なりに女の私を気遣ったのかもしれないけれど、私から見れば今更な話だ。保健室には生徒だけではなく、教師だって出入りする。他の男性教諭が来る事だって当然ある。男の人と保健室で2人きりになったからといって、それは別に珍しいことでもなんでもない。 「別に気にしませんよ?」 「そっか」 安心したような柔らかな笑みを向けられて、私もつられて笑顔になる。 そうして保健室に辿り着いて、ポケットから取り出した鍵をそのまま鍵穴に差し入れた。 友永先生に背を向けていた私には、この時、彼が緩く口角を吊り上げていたことに───全く気付いていなかった。 トップページ |