話にならない


「あ。栞ちゃん大変。頭のてっぺん禿げてる」
「へっ」

 友人が経営しているヘアサロンの一角で放たれた一言は、私を奈落の底へ突き落とすには十分すぎる破壊力だった。

「ハゲてんの? えっ待って私ハゲてんの? ストレスで!? 円形脱毛症!?」

 もしそうなら、すごく、すごく身に覚えがありすぎる。
 大いに慌てまくる私に、友人の香織は「おちつけ」と一言突っ込みながら、私のつむじをツンツンしてくる。

「いやいや、これはストレスハゲじゃないよ。栞ちゃんさ、頭の上で髪結ってる時あるでしょ。きっとそのせいだね、ゴムで強く結び過ぎ。どんだけ力込めて縛ってるの」
「……なにそのアホな原因」
「禿げてるって言っても、ちょっと薄くなってるだけだよ。気にする程でもないよ」
「うーん……そっか」
「うん。でもしばらくポニテとお団子は禁止ね」
「はあい」

 椅子の背もたれに体重を掛けながら返事を返した。

 今日から世間は週末休み。昼前に着替えを済ませ、私は教員寮を出た。
 外は雲ひとつない澄んだ青空が広がっていて、最高のお出かけ日和といった感じ。秋の紅葉を楽しもうと、街も家族連れで溢れていた。
 駅近くのカフェテラスで軽く昼食を取った後は、予約をしていたヘアサロンに足を向ける。店内に入れば、見慣れた笑顔が私を出迎えてくれた。

 飯塚香織とは、高校の時に知り合った元同級生だ。今は旦那さんと2人で、このお店を切り盛りしている。
 高校当時は仲良かったけれど、卒業後は互いに連絡を取らなくなって、そのまま疎遠になっていた友人の1人だった。

 勤務している高校の近くに、このヘアサロンが出来たのが半年ほど前。
 評判は上々で、興味本位で足を踏み入れた際に香織と数年ぶりに再会した。
 まさか彼女が経営している店だなんて知らなくて、偶然の再会に2人して驚いた。
 以来、私はここでお世話になっている。

 久々と再会となった香織は既に結婚していて、旦那さんと子供2人で生活している。
 女の幸せを掴み取った彼女は、仕事に家庭に子育てに、毎日多忙の日々を過ごしているようだった。
 それでも、自分の好きな仕事と大事な家庭を両立できることが嬉しいのか、表情はいつも活き活きとしている。充実感いっぱいの、キラキラしてる顔だ。
 仕事だけで生きている私とは、全く正反対の世界にいる子だと思う。

「ねえ、さっきから気になってたんだけど」

 帰り支度を整えていた私に、横からひょこ、と香織が覗き込んでくる。
 その眼差しは私にじゃなく、私の右手に巻かれた包帯に向けられていた。

「それ、どうしたの? 怪我?」
「ん? うーん、そんな感じ」
「そんな感じってどんな感じよ」
「ちょっと、ハサミ握ったら切れちゃった」
「ええ? どんな使い方してるの。危ないなーもう。気をつけてね」

 苦笑交じりに言う香織に、曖昧に笑みを返すことしか出来なかった。

 あんな状況で、一体何をどう気をつければよかったのだろう。昨晩の出来事を思い出すと、今でもふつふつと怒りが込み上げてくる程だ。
 この怒りは問いかけてきた香織にではなく、当然、あの男に向けてのもの。今思い起こしても、あの人の取った行動が全く理解できないでいる。
 あんな遅い時間に突然部屋に来て謝罪もなし、人の制止の声も聞かずベッドに押し倒した挙句、睡眠薬を飲まされ続けたのだ。
 とても正常な人間だとは思えない。
 頭がおかしいとしか思えない。

 あの人に飲まされ続けた睡眠薬は4錠だけで、別段、体に異常が出ることはなかった。
 あえて言うなら、朝までよく眠れたくらい。
 それはもう、ぐっすりと。

 私は昔から、朝早くに目が覚める習性があった。
 どれだけ遅い時間にベッドに入ったとしても、空が明るくなる前に必ず目が覚めてしまう。
 だから朝まで爆睡した、なんて経験はほとんどなくて、そのお陰といっていいのか、今日は体調が最高によかった。

 体が軽い。
 頭も重くない。
 疲労をあまり感じない。
 いつもより肌の状態がよくて、化粧のノリもいい感じ。

 これも、意図しない形で飲まされ続けた睡眠薬のお陰なのかと思うと、何だか酷く癪に思えた。
 あの行動の裏には、何か、私の知らない事情があったんじゃないかって、認めてしまいそうで。
 たとえそうだったとしても、到底、あの人のした事を許す気にはなれないけれど。







 会計を済ませてから店を出る。
 頭上に広がる青空は、次第に夕暮れの紅へと色彩を変えていく。
 なんだかまだ帰る気になれなくて、私は駅の方へと足を向けた。

 少し遠くまで買い物に出かけてみようかと、混雑を見せ始める地下鉄のホームにひとり立つ。
 体調がすこぶるいい事と明日も休日だという解放感で、浮き足立っていた私の隣に、誰かが隣に並ぶ気配を感じた。
 それが誰なのかを認めた瞬間、私の気分は急激に下降した。

「……こんにちは」
「………」

 ……やっぱり、寄り道しないで真っ直ぐ帰ればよかった。

 昨晩、私に酷い扱いをした張本人は、何食わぬ顔でその場に現れた上に、悠長に挨拶なんかかましてきた。
 一瞬にして急降下したテンションを、表に出さないようにと耐え抜く。別に出しても良かったけれど、大人気ない行為に見えたからやめておいた。
 とはいえ、にこやかに対応できる訳がない。
 隣に立つ男に、悪びれた様子がないからだ。
 さすがに怒りを通り越して呆れ返ってしまう。つっけんどんな態度になってしまうのも、仕方ないというものだ。

「……どうしてここに」
「友人の家の帰りです」

 コートのポケットに両手を突っ込んだまま、早瀬先生はそう答えた。
 ……ご友人、いたんですね。
 そんな嫌味を言いかけて思い留まる。

 いつもの私であればこういう時、なんやかんやと話題を振って、会話を盛り上げているはずだ。
 あんな事がなければ。
 彼が私に告白なんてしなければ。
 今日だっていつもと同じ、平穏な日常のままだった。
 こんなに億劫な気分になることも、こんなに険悪な雰囲気になることもなかった。
 今はとても、彼に対して話題を盛り上げようなんて気は沸き起こらない。……というか、あんな事をしておいて平然と私に話しかけられる、その精神が理解できない。
 結局私達は無言のまま、その場に立ち尽くしているような状態だった。
 煮えを切らしたのか、重い沈黙を先に破ったのは彼の方だ。

「……昨日は、すみませんでした」
「………」
「馬鹿なことした……って、思ってます」
「………」
「……手、大丈夫ですか」

 大音量のアナウンスと、人のざわめきで埋め尽くされる地下鉄のホームで、彼の声だけがやけに鮮明に耳に届く。
 それだけ私が、この人の事を意識しているという事なんだろうか。悪い意味で。

「大丈夫です。ご丁寧に手当てまでして下さってありがとうございます」
「………」

 彼が昨日の事を、本当に悪いと思ってくれているのなら、私のわざとらしい謝礼に胸を痛めてくれたはずだ。
 けれど、ちらりと窺った彼の横顔は素っ気無く見えて、どこか冷たい印象を受けた。
 視線は少し下を向いていて、私の目を見て話そうとしている素振りもない。落ち込んでいるようにも見えないし、態度だっていつも通り。本当に反省してるのかな? って勘ぐってしまう。
 それ以上何も答えようとしない彼に苛立って、私はつい、声を荒げてしまった。

「手以上に、頭が痛いです。こんな犯罪予備軍みたいな人が、同じ職場で平然と働いていたなんて信じられない」
「………」
「大体、何? 馬鹿なことした、って。そんな一言で済まそうって思ってるなら、思い違いも甚だしいです。もし私じゃなかったら、貴方、普通に訴えられてますよ。強姦罪で」
「………」
「女の部屋にいきなり、男が押しかけられる恐怖とか考えたことありますか? しかもドアノブに細工までしましたよね? ありえないです。謝罪ひとつで済む話じゃない。悪いけど、全然反省してるように見えない」

 一度口を開けば、次から次へと不満は溢れて止まらなくなる。

「貴方のしたこと、私は一生許す気ありませんから」

 ぴしゃりと断言する。
 しばしの沈黙の後、彼は静かに口を開いた。

「……はい。すみませんでした」
「……はあ」

 また、謝罪だけ。
 思わず溜息をつく。
 私の言い分を黙って聞いてたくせに、やっと口を開いたと思ったら、「すみませんでした」?
 謝罪ひとつじゃ済まされないって言ったのに、ちゃんと人の話聞いてたんだろうか。
 不満をぶつけるのも馬鹿らしくなって、私はショルダーバックを肩に抱え直して体を回転させた。

「もういいです。話にならない」

 その場から離れようとした私に、「あの」と背後から彼の声が掛かる。
 振り向いた先に見えた表情はやっぱり、沈んでいるようには見えなかった。

「徒歩で帰ります。貴方と一緒の空気を吸ってるだけでも気分が悪い」
「………」

 そのまま振り向くことなく、元来た道を戻った。
 駅のホームを抜けて、外へ向かう。
 週末はどこも人で溢れていて、ちゃんと意識して前を向かないと、誰かとぶつかってしまいそう。
 そんな混雑具合をものともせず、私はずんずんと前を突き進んでいく。

 胸がむかむかして、苛ついてしょうがなかった。
 彼にも、そしてそんな彼の事ばかり思い出してしまう自分自身にも。

 折角の休日、やりたい事だってあるし楽しい事だって探せば見つかるのに、そのどれも私の欝な気分を払拭させるだけの勢いはない。
 意識はずっと、あの最低な彼に囚われたままだった。

mae表紙tugi

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