もうやめる


・・・



「───千春」
「ん?」
「俺、手伝うよ」

 世間一般より遅い夕飯を友人宅でご馳走になった後は、3人分の食器をキッチンまで運ぶ。
 友人とはいえ、人様の家で夕飯を頂いた身としては、このまま何もせずに帰るのは忍びない。せめて皿洗いだけでも手伝おうと、腕まくりをしている千春に声をかけた。
 しかし俺の申し出に、奴は極上の笑みを作って言い放つ。

「断る。」
「………」
「お前がキッチンに立つと、皿も箸もスプーンも玉ねぎも千切りキャベツも全部、散乱する」
「………」
「俺のキッチンを腐海の森にするのはやめてください」
「……腐海」

 極度の手先不器用なのは自覚してるけど、何もそこまで言わなくても。

「莉緒ー、優クンの面倒お願い」
「はーい」

 千春からの命に律儀に答えた香坂さんが、ソファーに座ったまま、俺の方に顔を向けた。

「お守り役を仰せつかりました」
「……うん」
「いっしょうけんめい、職務を全うしたいと思います」
「……よろしく」

 ……前から思ってたけど、この子って不思議系なのかな。
 そんな事を思いながら、香坂さんが体をずらしてくれたお陰で出来たスペースに俺も座る。

「優さん」
「ん?」
「想いが、通じるといいですね。その人に」

 千春の飼い猫を膝に乗せて、香坂さんはゆったりと微笑んだ。ふわふわの白い毛並みに包まれた子猫の背中を、何度も丁寧に撫でながら。
 愛情の篭った触り方に、子猫は気持ちよさそうに目を瞑って寝そべっている。

「……どうだろう。俺、嫌われてるみたいだから」
「えっ。え、そうなんですか? なんで?」

 驚いた表情で、香坂さんは俺を見上げてきた。
 戸惑いに揺れている女の子を前に、どう返事を返したらいいかわからず、俺は曖昧に笑みを返す。



 あの人も結局は、俺と同じ側の人間だった。
 周りの人間関係を良好に保つ為、自分の立場や評価を悪くしない為、表面上だけ周りと仲良くしていただけに過ぎない。誰に対しても。
 俺も葉月先生に対して苦手意識を持っていたし、プライベートでは関わりたくないとすら思っていた。きっと彼女も同じように、俺のことをそう思っていたのだろう。
 告白した時に一瞬見せた歪んだ表情は、俺が彼女のパーソナルスペースに触れようとしている事に対しての拒絶反応だ。恋愛する気もないのに、好意を抱いていない男から受ける告白は、彼女にとってはかなりのストレスになっているのかもしれない。

 数時間前の出来事を思い出す度に、後悔ばかりが押し寄せる。好きな人の部屋に押しかけた挙句、ベッドに組み敷いて睡眠薬を何錠も飲ませる馬鹿が一体どこにいるんだろう。精神トチ狂ってると思われても仕方ない。
 十分な睡眠を取れていないだろう彼女に、処方薬をいくつか分けてあげた方がいいのかと思い至っただけなのに、そんなの今更言い訳にしかならない。現に俺は、ドアノブを細工して彼女が部屋から出られないようにしたのだから。完全に、下心ありきだ。

「……あの」

 ごろごろと喉を鳴らす猫を撫で続けながら、香坂さんは口を開いた。

「わたしが高校卒業して、千春くんとお付き合い始めた頃、お母さんに言われた言葉があるんです」
「うん」
「どれだけ仲の良かった先生がいても、生徒が卒業したら、先生とはそれっきりの縁で終わる事が多いって。同窓会とかで再会する事はあるかもしれないけど、本来は卒業したらそれで終わりの関係なんだって」
「………」
「それでも、私が卒業しても千春くんは私に会いに来てくれるし、今でも一緒にいてくれます。本当ならきっと切れている筈の縁が今も続いているのは、私たちが出会ったことには意味があるって事だから、大事にしなくちゃだめだよ、って言われました」

 懐かしむような眼差しを向けながら、更に言葉を続ける。

「千春くんを通して優さんと仲良くなれたのも、ちゃんと意味があるって私は思ってます」
「そうだね。俺もそう思ってるよ」
「その女の人との出会いも、きっと優さんにとって意味があります」
「俺も、意味がないまま終わるのは嫌かな」
「はい」
「ありがとう、励ましてくれて」
「えへ」

 頭をぽんぽんと撫でれば、無邪気に笑う。

 ……優しい子だと思う。
 千春がこの子を大事にしている理由がよくわかる。

 もし、"いい人"という表現に定義があるとすれば、きっと千春や香坂さんのことを言うんだろう。
 俺では、その名称にそぐわない。
 千春は普段から余裕綽々の態度を崩さないし、実際に腹黒いけど、アイツは自分の利益の為に動いたりはしない。いつも自分のことは二の次で、他人主義者だ。
 目の前で困っている人がいれば、すぐに助けてあげられるだけの知恵と正義を持っているのは、学生の頃から知ってる。

 そして香坂さんは、人の痛みを自分の事のように受け止めてあげられる、思いやりに溢れている子だ。
 そんな2人の傍にいるのは心地いい。
 どこか他人を丸くさせる魅力を、この2人は持っていた。



 千春と香坂さんに感化されたのか、あの人を傷付けても振り向かせたいと思ったあの激情は、今はもう俺の中にはなかった。


 ………もう、やめよう。


 何度も繰り返した痛みと後悔を経て、今度こそ、固い決意が生まれる。

 傷付けてまで欲しい、なんて感情はきっと間違ってる。
 そんな事をして、例えあの人が振り向いてくれたとしても、その先に続く道もきっと辛いものになる。
 人を傷つけて手に入れた未来が、幸せに満ちているとは俺には思えなかった。

 だから、もうやめる。
 人を傷付ける事しかできない生き方はやめる。
 嫌われないようにと周りに合わせているだけの、流されてばかりの自分とも決別する。
 人と向き合う事、人に歩み寄る事。
 きっと簡単には出来ない。
 もうずっとそんな生き方をしていなかったのだから当然だ。

 けど自分には、音楽がある。
 人と接するのが苦手な自分が、人と繋がってこれたツールが音楽だった。
 人の言葉じゃ表現できないピアノの旋律に触れて、その音に惹かれた人が周りに集まって、気がつけば友人ができていた。何もない自分の、唯一の武器とも誇りとも呼べるもの。
 だからもっと音に触れたくて、この道を進んだのだから。

 その道を辿った先で葉月先生と出会えた事を、意味のないものにはしたくない。
 香坂さんの言葉が、新たな目標になった。



 それまで大人しかった子猫が、香坂さんから離れて俺の近くに歩み寄ってきた。そのまま膝の上に乗って、前足をぽてりと胸においてくる。
 じっと見上げてくる瞳は「撫でて」と言っているように思えて、腕を動かして頭に触れた。
 そのまま背中まで撫でてあげれば、白い尻尾がゆらゆらと揺らぎ始める。

「それな、ソイツなりの励まし方」

 キッチンから戻ってきた千春が、飼い猫に目を向けながらそう教えてくれた。
 香坂さんもそれに続く。

「『がんばれ』って、言ってるんですよ。きっと」
「……そうなんだ」
「優、忘れるなよ。俺も莉緒も、ちなみにそのあほ猫もお前の味方だから」
「……あほ猫ってひどいです」

 隣から聞こえてきた小さな文句に苦笑しながら、もう一度子猫の頭を撫でる。

「ありがとな」

 感謝の言葉に応えるように、にゃあ、と嬉しそうに鳴いた。

mae表紙tugi

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