暴いてやりたい


 夕暮れに染まる廊下が続く先に、ひとりの人影を捕らえる。
 それが誰かなんて遠目からでもわかってしまうのは、それだけ自分の意識が彼女で染まっているということ、なんだろうか。
 今となってはわからない。

「お、早瀬先生」
「……理事長室の帰りですか?」
「そーです」
「お疲れ様です」
「早瀬先生は、職員室戻るんですか?」
「はい」
「じゃ、一緒に行きましょ」

 へら、と無邪気な笑顔を披露される。
 いつもであれば、その笑顔を向けられる度に心が浮上していたけれど、今日はそうではなかった。
 鉛が圧し掛かっているかのように、気持ちが重く沈んでいる。
 胸の中に去来する焦りや不安、苛立ちが度重なり、心は疲弊し、精神を不安定にさせていた。

「あ、そうだ。さっきはごめんなさい」
「……さっき?」
「あの教室での事です。お恥ずかしいところを見せてしまって」
「……いえ」

 そもそも自分は本当に何も見ていない。
 2人が一緒に話をしている姿が見えただけで、別に見てはいけないものを見てしまった訳じゃない。あの場を通りかかったのが、俺じゃない誰かであれば、普通に素通りしてしまうような場面だ。
 教室の外からでは会話すらはっきりと聞こえなかったし、話の内容なんて当然わからない。

 なのに、葉月先生は何かを弁解しようとする。
 友永先生は曖昧に流す。
 これでは、あの教室で何かがあったと言っている様なものだ。

 何度も味わった疎外感が、再び胸に押し寄せてくる。自分の知らないところで2人が何をしていたのかなんて、考えたくもない。
 なのに、ずっとあの光景が、頭の中で再生を繰り返している。
 夕暮れに染まる教室。
 頬を赤く染めた彼女。
 見なかったことにしろと告げる、あの男の薄い笑み。

 気になって気になって、でも、聞けない。
 彼女にとって、俺なんか居ても居なくてもどうでもいいような存在なんだと、そう言われているみたいで惨めな気分になる。

「えと、実は規則違反している生徒を見かけてしまって」
「……え?」

 口を開いた彼女が、事の顛末を語り出した。

「……規則違反、ですか?」
「あの教室でですね、えっと、不純異性行為に近い場面に立ち会いまして」
「え……」

 思わぬ話に言葉を失う。
 それが本当なら、男女交際禁止を掲げている校則以前の問題だ。

「あっ、でもあからさまな場面ではないですよ。本当に、それに近い行為というか」
「………」
「私、迷っちゃったんですね。注意するべきだってわかってたけど、見て見ぬ振りをしようかって」
「………」
「駄目ですよね。教師の癖に、校則違反している生徒を注意できないなんて」

 彼女は反省しているようだけど、生徒を思い、見てみぬ振りをしようとした、その気持ちもわからなくはない。

「その事で、友永先生からお叱りを受けてまして」
「……それで、あの教室に」
「はい。彼が代わりに注意してくださって」
「そう……だったんですか」
「もう、何年教師やってんだって話ですよね。恥ずかしい」

 彼女の言い分に、嘘や誤魔化しの響きはない。
 色恋的な話じゃないと、あの時そう答えた友永先生の言葉も事実のようだ。
 見なかったことにしてほしいと告げたのも、葉月先生の立場を気遣っての発言なのかもしれない。
 それでも、胸に残る不安要素は消えない。
 現にあの後、あの男から堂々と宣誓布告されているのだから。



 ………何か、癪だ。


 向こうは彼女が好きだとはっきり告げているのに、ひたすら関係ないと突っ張って、誤魔化し続ける事しかできなかった自分。
 過去の傷を引きずって、想いを打ち明けられずにいる俺とは違い、彼女への想いを包み隠さず口にしたあの人に、妬みに近い感情を抱いた。
 そんな臆病者に彼女が好意を抱くはずがないと言われた時、苛立ちを覚えた。
 羨ましかったんだ。
 彼女への好意を吐露できるあの人が、酷く、眩しく見えたから。

「あー、もう秋ですねー」

 窓の外に目を向けながら、葉月先生が呟いた。

「私、秋が一番好きです。夕焼けきれいだし、食べ物も美味しくて」
「食べ物ですか」

 彼女らしい主張に苦笑してしまう。

 夕闇深くなる廊下に、彼女のシルエットが伸びる。ひとつに纏められた髪が歩を進めるたびに、ふわりと宙をなびく。
 周りに人の気配はない。
 シンと静まり返っている廊下には、俺達だけの足音だけが響いていた。








 どうして友永先生が、彼女への告白を俺に促すような発言をしたのかはわからない。
 同じ土俵で勝負したいと告げているようには見えないし、背中を押してくれているとも思えない。
 何か裏があるような気がしなくもないけど、もう、そんな事はどうでもよかった。



 顔を上げた先に、彼女がいる。
 夕焼けの校舎を眺める彼女の瞳は、どこか遠くを見つめていた。
 俺がすぐ近くに居るのに、その瞳は俺を映し出すことはない。

 数歩先にいるその背中に、距離を感じてもどかしかった。
 気持ちごと全部、俺の方を振り向いてほしかった。
 あの日からずっと好きだったって、そう伝えたかった。そんな自分の気持ちを知ってほしかった。

 誰にでも分け隔てなく見せているあの笑顔を、自分だけのものにしたかった。
 嫉妬や疎外感で押し潰されそうな気持ちに、もう、耐えられそうになかった。

 自分でもどうしようもないくらい好きで、好きになってしまって、彼女を傷付けないようにと距離を保っていたはずの均衡が、音を立てて崩れていく。理性もプライドも根こそぎ剥がれて、堕ちていく。
 同時に、ずっと抑え込んできた想いが膨れ上がり、奥底で燻っていた気持ちを急速に押し上げていく。
 胸の中を占めていた虚無感は消え失せて、目の前に居る、彼女への想いだけで埋め尽くされた。






 教師の立場とか校則とか、そんなもの考えられなくなるくらい好きで。

 頑なに耐えていた事が、馬鹿みたいだと思えるくらい好きで。

 傷付けてしまう結果になったとしても、この人が振り向いてくれるなら、俺を意識してくれるなら、もうそれでもいいと思ってしまうくらい、好きで。




 だから。

 だから俺は、






 もう、我慢するのを、やめた。







「あなたのことが好きです」



 自然と口から落ちた言葉。溢れすぎた想いは音になり、澄んだ空気に溶けていく。
 温度なんて何も感じない。
 揺れる草木の音も耳に入らない。
 それほどまでに、研ぎ澄まされた精神が、意識が彼女と、彼女へ告げた言葉だけに集中していた。

 葉月先生の足が止まる。
 やっと俺の方を振り向いてくれた彼女の瞳が、驚きで見開いていく。


 その瞳の奥に一瞬、






 ───垣間見えた、嫌悪を滲ませた色。




 自惚れていたわけじゃなかったけれど、実は全然好かれてもいなかったのだと、この時になって初めて思い知る。
 少しだけ胸が痛んで、でも同時に沸き起こったのは、妙な高揚感だった。


 初めて見た───彼女のこんな顔。


 その表情を自分が暴いてしまった事に、何故か快感を見出だしてしまった。

 自分しか知らない、彼女の素顔。
 その全部を、見たいと思った。
 もう、彼女を傷つけるかもしれないとか迷惑なんじゃないかとか、相手を労る気持ちなんて無くなっていた。

 もっと、もっと暴いてやりたい。
 走り出した想いを、止める術はなかった。

mae表紙tugi

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