言ってしまおうか


 少しだけ背伸びしてきた彼女。
 不意に近づいた、互いの顔の位置。
 あと数センチで頬が触れ合う距離に、彼女の顔があるわけで。
 顔に熱が上がるのがわかった。

「事情はどうあれ、早瀬先生ちゃんと寝た方がいいですよ。ほら、目の下にクマ出来てるし」

 ぴっと人差し指を突きつけられる。
 瞳を覗き込むように俺を見上げてきた彼女に、言葉を失った。
 と同時に湧き起こる、ひとつの感情。

 これは。
 全く予想していなかった。
 なんというか、嬉しい誤算。

 無意識のうちに体が動いていた。
 向けられた人差し指まるごと、手首を掴んで引き寄せる。
 あ、と彼女が発した声を、腕の中で聞いた。

「……え。え、ちょ、早瀬先生?」
「……あ」

 我に返って、しまったと軽く舌打ちする。
 なに、やってんだ。
 こんな思わせぶりなことして、この人に迷惑がかかるだけだ。

「……あ、その、虫……が」
「ええ!? やだどこ、どこですか!?」
「あー……、どっか飛んでいきました」
「ほ、ほんとに!?」
「……はい」
「あーなんだぁ、びっくりしたー」

 心底安心したように深く息を吐く彼女を、複雑な心持ちで見つめる。
 虫がいた事にびっくりしたのか、俺に抱き寄せられた事にびっくりしたのかはわからなかった。
 ……この人は少し、無防備すぎると思う。
 いまだに葉月先生は俺から離れる様子はなく、胸に寄り添って安堵の息を漏らしている。今のこの状況を、全く把握していないんじゃないだろうか。
 誰もいない職員室で2人きり、傍目から見たら抱き合っているように見えなくもないこの状況を、もし誰かに見られでもしたらそれこそ問題なのに。わかっていながら離れられない俺も大概だけど。
 無防備なくせに、不用意に男に近づいたりするこの人も、少なからず問題はあるような気がする。
 もう少し自覚というか、危機感を持った方がいいと思うのは、多分俺だけじゃないはずだ。
 それとも、そんな危機感すら抱けないほど、自分は男として見られていないという事なんだろうか。

「………」

 だとしたら、なんか。
 すごく、嫌だ。

 ───言ってしまおうか。
 そんな考えがふと、頭の中に過ぎる。



 想いを告げること。
 『男女交際の禁止』を掲げているこの高校で、その行為は最大の禁忌。
 たとえ想いを告げたとしても、俺を異性として意識していない彼女が、そんな一方通行の想いに応えるはずがない。
 校則云々の前に、彼女は俺をただの後輩としか認識していないはずだ。

 だから、知ってほしいと思った。
 自分は教師の前に男で、あの日からずっと想い続けていることを、彼女に打ち明けたかった。
 この人の特別になれたらと、切望した。

 けれど、迷いが生まれる。
 本当に告げてもいいのかと。
 知ってほしいとは思っても、それは俺の勝手な望みで、彼女にとってはきっと迷惑な話に違いない。
 今の、この居心地のいい距離を手放してまで彼女に想いを告げる事が本当に良い事なのか、判断ができなかった。
 それに俺は、まだ過去の痛みを引きずっている。今度は彼女を傷付けてしまうんじゃないかと思うと、告白自体を躊躇ってしまう。
 想いを受け入れてもらえなかった時、自分がどんな反応をするか、何を言ってしまうのか。自分の事なのにさっぱりわからない。
 無責任もいいところだが、一度憤りや戸惑いに感情を流されたら、周りが全く見えなくなってしまう悪癖は、自分が一番よく知っていた。

 そもそも俺は、もう恋愛はしないと決めていたはずだ。
 過去の苦い経験から得た決意は、俺をすっかり臆病者へと変えてしまった。

 この想いは言うべきじゃない。
 告げるべきじゃない。
 知ってほしいとは思うけれど、この人を傷付けたくないのなら、胸の内に秘めた想いはやっぱり明かすことはできない。

 そう思うのに。

「……おっと、すみません」

 俺にしがみついていた葉月先生がやっと我に返り、離れようとする。
 遠ざかっていく温もりに焦燥感を煽られて、もう一度この胸に引き寄せたい衝動に駆られた。
 想いを告げないと決めたばかりなのに、本能はあっさりと自分の決意を裏切っていく。
 思わず伸ばしかけた手を、抑えることはできなかった。

「───あれ、2人とも早いですね」

 けれど、彼女に触れる寸前で聞こえてきた低い声に動きが止まる。
 瞬時に体が強張って、彼女への想い一色で染まっていた意識に影を落とした。
 ゆるりと首を動かした先に立っていた声の主は、人当たりのいい笑顔を浮かべたまま、優雅に歩を進めてくる。
 その姿を認めた彼女の表情が、柔らかく崩れた。

「友永先生、おはようございます」
「おはようございます。早瀬先生も、おはようございます」
「……おはようございます」

 昨日、不可解な質問を投げかけてきた当の本人は、何食わぬ顔で普通に挨拶を交わしてきた。
 その薄い笑みに違和感が拭えなくて、足元から這い上がってくる不快感に、つい顔をしかめてしまう。そんな俺の様子など気にも留めず、2人は楽しそうに会話を繋げていた。
 まるで元から俺なんか居なかったような疎外感に再び襲われる。舞い上がっていた気持ちも一転、落ち込んでしまった。
 だからって離れるタイミングも掴めなくて、彼らの横で大人しくコーヒーを飲んでいると、不意に彼女が顔を覗きこんできた。

「早瀬先生、本当に大丈夫ですか? 保健室のベッド使ってもいいですよ?」

 すっかり黙り込んでしまった俺に、彼女はそう尋ねてきた。俺が相当眠いのだと思ったらしい。

「……そうですね、ちょっとお借りします」

 その気遣いをこれ幸いとばかりに受け止めて、この場から立ち去ろうとした寸前、友永先生と目が合った。
 薄く口角を上げて微笑んでいる割に、こっちを見る瞳は何の感情も篭っていないように冷めている。
 この人、ただ邪魔しに来ただけじゃないのか。
 そんな考えすら浮かんできて、更に不快感が募った。

mae表紙tugi

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