聞いてたんですか


「───葉月先生」

 2つ上の先輩でもある友永先生が、彼女を呼んだ。
 自分が呼ばれたわけじゃないのに、その名前を聞くだけで胸がざわつく。
 最近はずっと、こんな調子だ。

「はいはい! 何ですか友永先生」
「『はい』は1度でいいですよ?」
「あはは、すみません」

 2人の軽快な笑い声が横から聞こえてきて、居心地の悪さに居た堪れなくなる。
 手元の書類に集中しようとしているのに、そんな気持ちとは裏腹に、意識は全く違うところへと向かってしまう。

「例の件でちょっとお話が。これ見てもらっていいですか?」
「ん、どれですか?」

 友永先生が手にしていたファイルを、葉月先生が覗き込む。
 自然と2人の距離は近くなって、互いに肩が触れ合っているような体勢に目を奪われた。

 ………近すぎないか、あれ。

 小さな嫉妬心が渦巻く俺をよそに、友永先生は熱心に彼女に説明をしていて、隣で頷きながら聞いている葉月先生と友永先生の楽しげな笑い声が時折混じる。

「……はあ」

 2人に聞こえないように、小さく息を吐く。
 疎外感に耐えられなくて、力なく席を立った。
 コーヒーでも飲めば気分も落ち着くかもしれないと思い、その場を離れた。

 給湯室に並べられたコーヒーカップを手に取り、ペーパードリッパーをセットして湯を注ぐ。立ち込める白い湯気とほろ苦い香りが、荒ぶっていた気持ちを少しだけ落ち着かせた。
 取っ手を持って席に戻ろうとした時、人の気配を感じて顔を上げる。黒い瞳と視線がぶつかり、
彼はゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。手には、さっき見たばかりのファイルを抱えたままだ。

 この人も飲むのかと、邪魔にならないように場所を避けてから彼の横を通り過ぎようとした、その時。
 すっと息を吸い込む気配が伝わった。

「聞いてたんですか?」
「……え?」

 突然、声を掛けられたから驚いた。
 席へ戻ろうとしていた足が止まる。

「さっき。葉月先生との会話、聞いてたんですか」

 直球で尋ねられて言葉を失う。
 まるで人が盗み聞きしていたかのように問われ、正直、いい気分はしない。

「……いえ、何も。それが何か?」
「いや」

 核心を突くような質問に、僅かに生まれた動揺を隠して平然を装う。
 そんな俺に返ってきたのは、あまりにも素っ気無い返事。
 質問の意図がわからず、訝しげな視線を送る俺を無視して、友永先生はそのまま真横を通り過ぎていく。そのままコーヒーカップを手に取って、湯を注ぎ始めた。
 沈黙を貫く男の背中を見て、これ以上この話をするつもりはないのだと悟り、その場を静かに離れる。すっきりしない不快感が襲って、胸に不安が押し寄せた。

「………」

 なんだ、あれ。



・・・



 ───翌朝。

 鉛のように重い体に鞭打って、目的地まで歩いていく。肩の凝りをほぐしながら、職員室と書かれたプレートがぶら下がる室内へと、足を踏み入れた。

 成人を迎えてから咳喘息を発症し、それが原因で睡眠障害に陥った俺は、医師から処方された睡眠薬を服用するようになっていた。
 お陰でかなり症状は改善されたものの、喘息が酷いときは、睡眠薬を飲んでも眠れない事も多い。昨日の晩がまさにそれで、その反動で今、酷い睡魔に襲われている。

 腕時計に視線を落とせば、まだ早朝の6時。
 全く眠れなかったとはいえ、もう少し家でゆっくりすれば良かったと今更後悔を抱く。
 普段の出勤にはまだ早すぎる時間帯。
 室内に人の姿は無く、がらんとしていた。

 ……と思いきや、その場にいたひとりの存在に気付く。

 ほのかに漂うコーヒーの香り。
 そして今ではもう、見慣れてしまった背中。

 彼女の視線は手元のコーヒーカップに注がれていた。こっちを振り返る様子は無く、俺が来た事に気付いてはいないらしい。
 後ろ姿だから表情まではわからないが、軽やかに紡ぐ鼻歌が彼女の心情を語っていた。朝から機嫌がいいらしい。
 一つに束ねられた後ろ髪が朝日に照らされて、ひときわ鮮やかな茶に染まる。窓の隙間から入り込む柔らかな風が、さらりと彼女の長い髪をなびかせていて。
 綺麗だと思った。

「おはようございます」
「へっ、あっ、びっくりした。おはようございます。早いですね」
「葉月先生も早いですね」
「朝早く目が覚めちゃって。もう年ですかねー」

 カップを両手に持ち、冗談交じりにそんな事を言う彼女と笑みを交わす。

 この学校に赴任して、もう半年が過ぎた。
 こうして彼女と2人きりで話すのは、久しぶりな気がする。

「そういえば早瀬先生って、マンション暮らしなんですね」
「はい」
「教員寮を借りてるのかと思ってました」
「葉月先生は」
「あ、私は教員寮ですよ」
「そうなんですね」

 知らなかった。彼女が住んでる場所なんて、今まで考えたことも無かったから。

 思えば、彼女のプライベートは色々と謎だ。
 教員同士の飲み会には殆ど参加しないし、休日はどう過ごしてるのか、誰も知らない。趣味も何もわからない。
 そして彼女は保健室に常駐している事が多く、職員室で話す機会は少ない。
 何より、教師仲間というだけでそれ以上でもそれ以下でもない男に、自身のプライベートを明け透けに語るような人だとは思えなかった。

 ちらりと視線を向ければ、葉月先生は中途半端に放置していた作業を再開させている。コポコポと心地いい音をたてながら、コーヒーカップに湯を注いでいた。
 そんな彼女の目の下には、薄いクマが色づいている。あまり眠れていないのかと、この時は素朴な疑問を抱いた。

 この人に興味を抱いた時から頑なに張っていた虚勢は、今ではもう、取り繕うことも出来なくなっている。彼女が隣にいると落ち着かなくて、話しかけられたら嬉しくて、そんな気持ちをずっと誤魔化し続けるのは限界があった。
 この人が好きだと認めてしまえば、ずっと保っていた警戒心なんてすぐに解けた。そうすれば、ずっと抑え込んできた想いはますます膨れ上がる。この人はきっと、今隣にいるヤツがこんな感情を抱いているなんて、想像すらしていないだろう。

 不意に悪戯心が湧いて、彼女の手元からひょいとカップを奪う。あ、と発せられた声に構うことなく、それを口にした。
 苦味のある独特の味わいが、口内に広がっていく。蓄積された疲労感が解かされていく感覚に、溜息が漏れた。

「お気遣いありがとうございます。美味しいです」
「ええ……それ私が飲もうとしたやつなのに」
「そうだったんですね。そうとは知らずに、すみませんでした」
「白々しいにも程がありますよ?」
「お詫びにどうぞ」
「いりません」

 お詫びと称して差し返したカップを一瞥して、彼女はぷい、と視線を逸らした。面白いぐらいに不満げな表情を浮かべていて、頬を膨らませて拗ねているその姿は幼く見える。自分から仕向けた事とはいえ、意外な素顔が見れた事に、不謹慎にも嬉しくなった。
 つい零れそうになる笑みをコーヒーと共に飲み込めば、今度は睡魔が襲ってくる。
 目蓋が重い。
 欠伸を噛み殺した時、視界の端でこちらを見上げる彼女の視線を捉えた。

「保健室で少し仮眠取りますか?」
「え」
「まだ時間はありますし」
「……葉月先生はいいんですか?」
「私?」
「眠いんじゃないですか?」
「え、全然ですよ?」
「そう、ですか」

 確かに、眠そうには見えないけれど。

「早瀬先生、いつもこんなに早いんですか?」
「いや、普段はもっとゆっくりですよ」
「今日はまた何で」
「………、聞かない方がいいと思います」
「え。何でですか。余計気になります」
「朝方まで弟とゲームで遊んでました」
「……えー……」

 咄嗟についた嘘に、彼女は呆れたような反応を返してきた。
 勿論、原因はゲームじゃない。
 眠れなかった原因が喘息だと、彼女に言うつもりは無かった。
 喘息といっても喘息一歩手前の咳喘息であって、大発作が起きたことなんて一度も無い。症状自体もさほど酷い訳でもない。別に言う必要はないと判断したからだ。

 適当についた嘘を、彼女が疑っている様子は無い。聞かなきゃよかったとか、教師が何してるんだとか、非難の言葉を浴びるはめになったとしても、そんな彼女の表情を上から眺めるのも悪くないかもしれない。
 なんて、歪んだ感情を抱きながら隣の人の返答を待つ。

 が、待った先にあったのは予想外の展開だった。

mae表紙tugi

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