遊びに来てね


「───養護教諭の葉月 栞です。新1年生の皆さん、よろしくお願いします」

 春とはいえ、まだ寒さの残る4月初め。
 新学期の始まりは、新たに赴任した教師の、各クラスごとの挨拶から始まった。

 この高校ではまず、赴任した教師の着任挨拶を、全校朝会と各クラスごとの朝礼の場で行う。
 そして入学したばかりの1年の教室には、新人教師に続き、担任教師と副担任、そして保健教諭の彼女が挨拶回りをする事が決まっていた。

 なんとも面倒な習わしだなと内心思いつつ、音楽教師として赴任したばかりの俺は自己紹介もそこそこに、軽めに挨拶を済ます。
 その後に教壇に立った葉月先生は、俺よりも1年先にこの学校に赴任してきた、俺にとってはひとつ上の先輩に当たる人だった。

 木の軋む音が響く教壇の上で、深々と頭を下げた女性を見やる。
 俺が想像していた保健教諭のイメージよりもずっと若い女性で、年配の教員が多いこの学校では珍しい存在だった。

「私はこの高校の元卒業生なので、皆さんの先輩になります。学校の事でわからない事があれば、何でも聞いてくださいね」

 緊張した面持ちの生徒の前で、にこやかに笑顔を交わす。
 そんな彼女の挨拶はさすがというか、既に手馴れている風に見えた。

 ……へえ、母校なんだ。
 そんな事をぼんやりと思った記憶がある。



 1年の教室は、当然だけどひとつではない。
 次の教室へ向かう為に、扉へと足を向けた直後。「あ」と、前方から小さな声が聞こえた。
 教室の扉に手を掛けたまま、葉月先生が生徒の方を振り返る。

「保健室にも遊びに来てね〜」

 なんて言いながら、人懐っこい笑顔でひらひらと手を振っていた。
 他の教師は、そんな彼女の姿に苦笑いを浮かべている。
 それでも、葉月先生の軽い一言で、教室内の強張った空気が一気に和らいだのを肌で感じた。
 その場にいた生徒の距離を、瞬時に縮める事に成功した彼女の周りは、新学期早々、生徒達の姿ですっかり賑わっていた。



・・・



 着任挨拶から数日が過ぎた、ある日の事。
 ふとした拍子に腕をぶつけてしまい、すり傷が出来てしまった。
 酷い怪我ではないけれど、出血したまま放置しておくのもどうなのかと考え、保健室へと向かう。絆創膏だけ貰ってこようと思い至り、控えめに扉をノックした。

「失礼します」
「はーい、どうぞー」

 ゆっくり引き戸を引けば、眼鏡をかけたままパソコンと向かい合っている葉月先生の姿がある。
 けれどすぐ作業を中断させて、くるりと椅子ごと半回転させて、こちらに向き直った。
 その態度に少しばかり驚く。
 他の先輩教師ならこういう時、机から顔も上げずに返事をするだけの素っ気無い反応なのに、彼女は違った。
 ほんの些細な事だけど、そんな彼女の態度がすごく好印象だったのを覚えてる。

「あら、早瀬先生」
「すみません、仕事中に」
「いえ、大丈夫です。どうされました?」
「ちょっと、腕をぶつけてしまって」
「見せてもらってもいいですか?」

 袖を捲り、彼女に傷口を見せる。
 じわりと血が滲み出ている箇所が腫れ上がっていて、じくじくと鈍い痛みが走った。

「痛そう。どこでぶつけましたか?」
「階段でつまづいて、その拍子で、壁に。伝言板の角にぶつけて、出血したみたいです」
「わ、危ない。気をつけてくださいね。……うん、血は止まってますね」
「絆創膏だけ貰えれば、あとは自分でやります」
「はい」

 あっさりと承諾した葉月先生は、治療用具が置かれた棚の引き出しからタオルを取り出し、水道の蛇口をひねって水で濡らしていく。

「一応、傷口綺麗にしておきましょう」
「……はい」

 促されるまま腕を差し出せば、濡らしたタオルを当てられる。少しばかり沁みるけれど、腫れて熱を持ってしまったそこに、ひんやりとした温度が気持ちよかった。
 その後は、見慣れないパッドのようなものを貼らされた。市販で売っている絆創膏とは違うもの。

「これ何ですか?」
「被覆材です。ガーゼのついてない絆創膏みたいなものです」
「初めて見ました」
「ちょっと汗いっぱい出て気持ち悪いかもしれないけど、我慢して下さいね」
「消毒とか、しないんですね」
「消毒液は傷を治そうとする菌を殺しちゃうから、治りが遅くなる場合もあるんです」
「そうなんですか?」
「はい。昔と違って、医療の場でも消毒液を使わない治療が主流になってきてるんですよ。怪我の具合によっては消毒をする事もありますけど、そこは医師の判断ですね」
「へえ……」

 フォルダが挟まれている棚に目を向ける。
 最新の現場療法、と題された本が数冊並んでいた。

「もし1週間経っても傷が治らなかったら、また来て下さい」
「はい、お手数掛けてしまってすみません」
「いえいえ、これが私の仕事なので」

 微笑む彼女に軽く会釈して、保健室を出る。
 10分程度しかその場に居なかったけど、案外話しやすい人だったなと思いながら、その日は帰路に着いた。
 時間が経つにつれ、被覆材の貼られた箇所から水分が沢山出てきて少し焦る。剥がそうかとも思ったけれど、彼女に言われた事を思い出し、結局そのまま放置した。
 そして1週間も経たないうちに傷は治った。
 かさぶたが出来ることも無く、傷跡も残らず。
 綺麗な状態に戻った腕を見て、彼女の博識さを思い知らされた気がした。

 後日、傷の具合を聞いてきた彼女にこの事を伝えたら、まるで自分の事のように喜んでいて、その時の笑顔が妙に記憶に残った。
 朗らかな人、っていうのは、ああいう人を指すのかもしれない。

 とはいえ、その後は話す機会なんて殆どなく。

 彼女とはあくまで教師の先輩後輩という間柄で、それ以外では接点なんて何も無かった。
 朝礼会議や廊下ですれ違う際に一言二言、軽く挨拶を交わす程度でしかない。
 話しやすい人という印象が残ったくらいで、彼女に近づきたいという気持ちは、この時は全く抱いていなかった。

mae表紙tugi

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