「助けて」


「……言、えないよ」

 言えるわけがない。
 言えない理由があるから。

 早坂の言う通り、私は青木さんに追い詰められている。暴力を振るわれ、あの人から一時的に離れたくてこの場所へと逃げ込んだけど、本当はいつもあの人の影に怯えていた。穏やかな日常に安堵しつつ、いつか居場所がバレてしまうんじゃないかと不安に襲われる日々は続いた。
 そんな偽りの平穏も、ついに終わりを迎える。怒濤に送られてきた悪質なメールがその証拠だ。まるで「俺のことを忘れるな」という青木さんからの訴えにも聞こえた。
 極めつけは、あの封筒。青木さんに会わなければ、この不安定な精神状態はずっと続くんだろう。

 本当は怖い。毎日怖くて仕方ない。口では「ちゃんとあの人とケリをつける」と言い切ったものの、本音は会いに行きたくないし自然消滅を望んでる。青木さんが私を諦めて、勝手に距離を置いてくれることを期待してる。でも、それはあまりにも無責任な言い分だ。

 青木さんから裏切られ、理不尽な暴力を受けたのだから私は完全に被害者側。でも青木さんの奥さんは、私がどれだけ無罪を訴えても聞き入れてはくれないだろう。それはそうだ、私がどんな目に合おうが不倫をしていた事実は変わらない。本当の被害者は私じゃなく、青木さんの家族だ。

 だから、怖いなんて口に出せる立場じゃない。態度に出すわけにはいかない。自分が犯してしまった罪から目を逸らすことになる。大人として、社会人として、間違いを犯してしまった人間として、絶対に避けてはいけないことだ。

 ……その筈だ。


『そこまで七瀬さんが1人で責任負う必要あるんですか?』


 ……じゃあ、私は。

 どこまで責任を負えばいいの?


 ───ブブッ。

「……っ!」

 その直後、ポケットに入れたままのスマホが大きく震えた。

 ビクリと肩が跳ね上がる。
 静かな空間で嫌に響くバイブ音が、余計に恐怖感を煽っていく。胸騒ぎが止まらない。
 直感で悟った、あの人だと。

「……七瀬、電話」
「……」
「……出ないのか?」
「……」

 出たくない。けれど、1人で青木さんに会いに行くと明言した以上、無視するわけにはいかない。
 恐怖に押し潰されそうになる心を奮い立たせて、無機質なスマホに手を伸ばす。触れた瞬間にバイブが止まり、着信が切れたことを悟った。

 ほっと胸を撫で下ろす。
 でも画面上に流れるメッセージを目にした瞬間───全身が凍りついた。





『今 部屋の前にいる』


『 開 け ろ 』




「ひっ……!」

 小さな悲鳴が上がる。反射的にスマホを手放してしまった。落下した衝撃で電源が落ち、画面が真っ暗になる。

 脳内で繰り返し再生される、青木さんからのメッセージ。どくどくと心臓が暴れだして、また呼吸が浅くなる。動悸と息切れが酷くなって、手足が冷たくなっていくのを感じた。
 過呼吸のような状態に陥った私の身体を、早坂の両腕がまた抱き締めてくれる。なりふり構わず、思い切りしがみついていた。

「は、やさか、あの人が、来て……ッ!」
「七瀬、落ち着け。アイツはここにいない」
「ドアの前にいる、って」

 片手で私を支えたまま、早坂はドアスコープを覗き込んだ。

「誰もいない」
「っ、い、いや」
「七瀬、」
「もうやだ……ッ」

 ……私は、どこまで責任を負えばいいの。
 いつまで耐え続ければいいの?

 ……そもそも、なんで私がここまで追い詰められなきゃいけないの?

 もう無理だ。辛い。怖い。しつこい。私に執着してくるあの人が気持ち悪い。関わりたくない。奥さんも子供も放置して、父親の役目も果たさずに他の女にうつつを抜かしてる男が生理的に受け付けない。同じ人間だとも思えない。

 もう、これ以上は耐えられない。

「……七瀬、一旦部屋に上がろう。ここ玄関だから」

 早坂の手が、私のスマホを拾い上げる。そのまま肩を抱かれて、リビングへと連れていかれた。
 ソファーに腰を下ろせば、隣に早坂も座ってくれる。下から覗き込むように顔を見上げてきて、涙で滲んだ私の瞳に、早坂の顔が映った。
 苦渋に満ちたような表情を浮かべていて、罪悪感が沸き起こる。でも、乱れた呼吸はいつの間にか安定していた。
 不思議。早坂は私の精神安定剤みたいだ。

「落ち着いたか?」
「……うん。ごめん、取り乱して」

 また、過呼吸になるところだった。
 挙げ句の果てに、助けを請おうとまでしたなんて。

「……迷惑ばかりかけてごめん」

 心底自分が嫌になる。とんだ疫病神だ。

「……ねえ。私、やっぱり此処から出ていった方がいいよ。これ以上早坂に迷惑かけられない」
「いや、今この状況で出て行かれる方が逆に迷惑だから」
「でもっ」
「七瀬、聞いてほしいことがある」

 その一言に顔を上げる。神妙な顔つきで、早坂は躊躇いがちに口を開いた。

「……まだ言うつもりなかったんだけど」
「……何?」
「青木のことは、俺がなんとかする」
「……え?」

 一瞬、何を言われたのか理解できなくて。
 驚きで言葉を失っている私に、早坂は更に続けた。

「会いに行く必要もないし、話し合う必要もない。もうすぐ、全部終わるから」

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