その犠牲は誰の為


「……私ひとりでいい、ってなんですか」
「………」
「じゃあ私達は、何も痛みを感じていないって言いたいんですか? あの日、あの場に居合わせてしまった私と早坂さんは直接痛い目に合っていないから、何も痛んでないって本気で思ってるんですか!?」

 堪えきれず溢れ出た一筋の涙が、かなえちゃんの頬を濡らす。怒り、哀しみ、失望、様々な感情を含んだ悲痛な叫びが、私の胸を締め付けた。

「……七瀬さんは、たとえ自分が傷つけられても周りが無事ならいいって、下手な自己犠牲に浸って満足かもしれないけど……でも、七瀬さんの周りの人達は一生、あの日助けられなかったことを後悔しながら生きていくんですよ……?」
「……かなえちゃん」
「もう、目の前で好きな人達が傷つく姿は見たくないのに……っ、こんなのやだよ……!」
「………」
「なんで、何度もこんな思いしきゃいけないんですか!? もうやだぁ……!」

 床に膝をついて、かなえちゃんはその場に泣き崩れてしまった。堰を切ったようにわんわんと泣き出して、私も早坂も何も言えず、彼女を見守ることしかできない。感情的になって泣き喚くかなえちゃんの姿を、私は今日、初めて目にした。こんなにも強く想ってくれていたことも。
 どれ程私の身を案じてくれていたのか、痛いほどに伝わってくる。一向に泣き止む気配の無いかなえちゃんに、私はゆっくり近づいた。

「……ごめん、ね」

 しゃがみこんで同じ高さに目線を合わせても、号泣している彼女は俯いたままで視線が合わない。そっと頭を撫でれば、嗚咽を漏らしながらかなえちゃんは顔を上げた。
 大きな目も、鼻も頬も真っ赤に染まってしまっている。いつも明るくて人懐っこい笑顔を向けてくれるかなえちゃんが、顔をくしゃくしゃに歪めながら泣く姿が愛しくて、胸の中に温かな感情が広がっていく。

「ごめんね、かなえちゃん」
「うぅ、っ、ふぇ……っ」
「ありがとう」

 口にしなきゃいけない謝罪は沢山あるはずなのに、自然と零れ落ちたのは感謝の一言でしかなかった。
 私の為に泣いてくれたことが嬉しい、なんて無神経すぎて口には出せなかったけれど。かなえちゃんの必死な想いに胸を打たれた時、「ごめん」よりも「ありがとう」と伝えたくなったんだ。

 しゃくりあげる小さな背中に手を這わす。宥めるようにさすってあげれば、弾かれたようにかなえちゃんが抱きついてきた。
 私にしがみついて泣くかなえちゃんの、震える背中をぽんぽん撫でる。それしかできない自分に、どうしようもない歯痒さを感じた。



・・・


「おかえりなさい」
「……いや、何してんだよ」

 玄関の扉が開くと同時に、背後から静かな声が届いた。
 私は玄関から背を向ける形で座っている。フローリングの上で正座を1時間以上、さすがに足の痺れがエグい。

 あれから、泣き続けるかなえちゃんを一旦落ち着かせてから、「家まで送ってくる」と言って早坂は彼女を連れ出した。自宅に送り届ける為に。
 その頃には既に閉店時間が迫っていて、私は慌てて締めの作業を済ませてから店のシャッターを下ろした。
 残業をする気にもならなくて、タクシーを呼んで早坂の住むマンションに戻り、着くなり固い床に正座する。部屋の主人の到着を大人しく待っていた。それが今。

 背後から突き刺さる視線がなかなか痛い。帰宅早々、こんなシュールな光景を目にすることになるなんて早坂も想像していなかっただろう。驚かせてしまって悪いとは思うけど、これは反省の形でもあるから足を崩せないでいる。

「私、今日から1年間ビール飲まない」
「なんだそれ」

 苦笑交じりの声が頭上から降り注ぐ。反省の意も込めて好きなものを我慢する、そんな幼稚な誓いに早坂も呆れ果てているのかもしれない。
 かなえちゃんが見ていないところで、こんな誓いを立てたところで何の意味もない。土下座したところで彼女を傷つけてしまった事実は消えない。わかってるけど、それでも何か、何でもいいから自分に罰を与えないと、罪悪感が酷すぎて心が折れてしまいそうで。ここで黙って待つことなんてできなかった。

「……わたし」
「ん」
「自分が嫌い。殴りたい」

 むしろ、もっと殴ってほしかった。早坂にも。

「殴られた理由を本人がちゃんと理解してないなら、殴っても意味ねーわ」
「………」

 これ以上ないくらいの、厳しい一言。4年間一緒にいた中で一番、胸に深く突き刺さった。

 知っていたけれど、早坂って本当にいつも、冷静に「正論」を突いてくる。客観的に物事を見ることができるから、主観的な発言は絶対にしない。自分の為の正論じゃなくて、人の為の正論を貫く人だから信頼できるし信用できる。私とは全然違う。

 下手な自己犠牲に浸って満足してる、かなえちゃんの言葉通りだ。誰かが傷付くくらいなら自分が犠牲になろうなんて、そんなの誰の為になるんだ。そもそもそんなこと、誰も望んでいないのに。
 間違った正義感を振りかざして、その正義感に酔いしれて、それっぽい正論を説いて自己犠牲を正当化しようとした。結局私は他人を思っているフリをしながら自分のことしか考えていなかった。

「……厳しいね」
「当たり前だ。今回は七瀬が悪い」
「……うん」
「それより立て。邪魔」

 ぐっと腕を引っ張られて、強制的にその場から立たされた。正座をしていたお陰で締め付けられていた血流が急激に流れだし、足に力が入らなくて転倒しそうになる。たまらず早坂の腕にしがみついた。

「ちょ、まって無理無理、足痺れて痛い」
「アホ」

 なんて、辛辣な一言が聞こえてきて顔を上げる。重なった瞳は意外にも、慈愛のこもった温かな色を宿していた。
 やっと見れた早坂の表情も柔らかく穏やかなもの。呆けた顔を向ける私に、早坂は一瞬動きが止まって、次いで照れ臭そうに頭を掻いた。

「悪い」

 なぜか謝られた。
 その直後、私達の周りの空気がふわりと動く。いや、動いたのは早坂だった。
 頼もしい両腕に閉じ込められて、早坂の息遣いを耳元に感じる。ダッフルコート越しだと体温を直に感じ取れなくて、それが寂しいと思ってしまったのは惚れた弱味なのか何なのか。前開きのコートを掴んでスルリと中に潜り込めば、早坂が不自然に言葉を詰まらせた。
 コートの中は当然暖かい。こうして早坂に触れると安心する。早坂の胸に顔を預けて、大きな背中に両手を回した。

「……ねえ、ひとつ訊いてもいい?」
「……ん?」
「あの時、なんでずっと黙ってたの……?」

 あの時、私ひとりで青木さんに会いに行くと伝えてから、早坂が発言したところを見ていない。かなえちゃんには散々怒鳴られたけど、早坂はずっと黙り込んで私達の口論を聞いていた。
 私が間違っていると思っていたなら、いつもの早坂であれば口を挟んでいたはずなのに。早坂はどんな気持ちであの場にいたのか、今更だけど聞きたくなった。

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