まとわりつく不安 結局、仕事は1週間だけお休みを貰った。 診察室で採血の結果を聞いていた間、早坂が電話を通して菅原エリアに頼み込んでくれたお陰だ。本当に奴はデキる男だ。 品出ししなければ大丈夫、なんて言ってはみたものの、実のところ不安は大きかった。商品が入荷されれば店内に運ばなきゃいけないし、本部から事務所宛てに荷物が届くことも多いからだ。その度に誰かを呼びつけて荷物を持って貰うなんて、サブマネの権限でしていいことじゃない。 早坂にもスタッフ達にも、自分達の仕事がある。私の勝手に付き合わせる訳にはいかない。怪我を負っている人間が職場にいれば全員に気を遣わせてしまう。 無理し過ぎて、完治が長引く事態になっては目もあてられないけれど、だからって、この時期に長期休暇もしたくない。様々な事情を考慮した結果、菅原エリアは「1週間」という猶予をくれた。 1週間で骨がくっつく訳がないけれど、休養できる日があるだけでもありがたいことだ。休める時はしっかり休むことも仕事のうち、だとはよく聞く台詞だけど、その言葉が今更になって身に染みる。 それに私が休養を取った方が、早坂達も安心して仕事に集中できるはずだ。 ……私としては、出勤したかったけど。 仕事に没頭していれば、余計な事を考えずに済むから。 でもそんな無責任なこと、当然言えるはずがない。 「今日は痛み止めの錠剤と、湿布を処方いたしますね。明日、頭の検査と怪我の状態を診ますのでもう一度来てください。……それと、」 先生は話を終えた後、意味深に言葉を切った。 ぎこちない笑顔が私に向けられる。 「……もし、傷害罪として警察に訴える場合、警察提出用診断書を作成しますので仰ってください」 警察、という単語に顔が強張る。 控えめに告げられた言葉に、「すみません」と小声で答えることで承諾した。 ここに来て怪我の詳細を訊かれた時、私はすぐに答える事ができなかった。「男から蹴られた、暴行された」と医師へ伝えることを躊躇った。 そんな私の胸の内を、先生はすぐに察してくれたんだろう。それ以降は深く追及することはなく、治療を優先してくれた。暴行を受けた形跡のある女に事情を尋ねるタイミングを図るのは、医師の先生でも判断が難しいところだろう。 診察室から出ると同時に名前を呼ばれ、会計窓口へ向かう。 待合室には私以外の急患はいないし、すぐに会計を済ませられたのは有難い。 今は早く帰路について、疲労の溜まる体を休めたかった。 ……あの部屋で休めるかどうかは別として。 その後は早坂と一緒に待合室を出る。 外来入口の扉を開ければ、夜風が院内に舞い込んできた。 冷えた空気が肌に刺す。 病院周りは静寂に満ちていて、人気もなく閑散としている。外来を訪ねる人の姿もない。 暗がりの中、街灯が照らす光を頼りに私達は歩き出した。 「さむいー」 「今の気温、9度だってよ」 「10度もないの? そら寒いわ……」 「………」 淡々と会話をしながら、向かう先は駐車場。 互いに話が続かなくて、無言の時間が増えていく。 早坂の口数が少ないのはいつもの事だけど、ここまで互いにぎこちないのは、出会って以来初めてのような気がする。目が合えば自然と会話が生まれるのが私達で、それが当たり前のように感じていたから。早坂との会話に、ストレスを感じる事がなかった。 話題を用意する必要もなく、取り繕う必要もない。自然体の会話が心地よかっただけに、今の不自然な状態は違和感が拭えない。 でも、だからって無理に話題を振るのも違う気がするし、何よりも億劫だった。 何に対しても疲労を感じる。 体が鉛のように重い。 結局無言を貫き通したまま、早坂が運転する車の助手席に乗り込んだ。 「あの、さ。早坂、」 「何か買ってくるから待ってて」 「え? ……あ、うん」 口を開いた矢先、早坂は運転席には乗らずにドアを閉めた。離れた場所に設置されている自動販売機へ、足早に駆けていく。ホット缶が並んでいるボタンに、彼の手が伸びた。 そのうち2種類のコーヒーを1本ずつ購入して、再び運転席へと戻ってくる。ほら、と手渡されて受け取れば、アルミ缶から伝わる熱が指先を温めてくれる。 「ホットココアだーありがと」 「開けられるか?」 「さすがに開けられるっしょー」 軽く笑い飛ばしてプルタブに親指を引っ掻ける。タブを起こそうと力を込めても、指先が小刻みに震えているせいか、うまく出来ない。 カシッと爪が掠っただけで、タブは1ミリすら開けられていない。 「………」 嫌な沈黙が車内に満ちる。 寒くて指が動かないんだよね、なんて笑って誤魔化せばいいのに出来なかった。何を言っても見抜かれてしまう気がして、私は黙り込んでしまう。 いや、気じゃない。 早坂はきっと気づいている。私が怯えていることに。 待合室にいた時から続いている手の震えは、寒さや痛みからくるものじゃない。胸に押し寄せる不安や恐怖が、症状となって現れているせいだ。 一方的に暴力を受けていた時は、不思議と恐怖を感じなかった。全くなかったかと言えば嘘になるけど、あの時は怒りの感情の方が圧倒的に勝っていたから、不安な気持ちは抑えられていたんだと思う。 あれから数時間が過ぎて、頭が冷静になって、やっと自らの身に起きた事を理解した。 生まれて初めて男から暴力を受けた、好きだった人に殴られた。頭に巻かれた包帯と体の節々に走る鈍痛が、これは現実に起こったことなのだと実感させた。 もし早坂とかなえちゃんが助けに来てくれなかったら、今頃どうなっていたんだろうと考えただけで身がすくむ。更に暴力を振るわれていたかもしれないし、強姦されていたかもしれない。最悪、殺されていたかもしれない。そんな考えが頭にちらついて離れない。 「……貸せ」 ぶっきらぼうに告げられて、手を差し伸べてくる早坂に眉尻を下げる。ぎこちない動きで手渡せば、早坂は難なくプルタブを開けた。そしてそのまま、口をつけて飲み始めてしまった。 「……あの、早坂クン? それは君が私にくれたものだよね? どうして君が飲んでいるのかな?」 「甘っ」 「そらココアだしね!? もー、じゃあ私そっち飲む!」 「あっ、こら」 早坂が飲むはずだった缶コーヒーを奪い取る。勢いよくプルタブを起こせば、プシッ、と耳に心地良い音が響いた。 今度は苦戦することもなく開けられた事に、妙な安心感を抱く。口をつければ、コーヒーとミルクがブレンドされた懐かしい味わいがした。 コクンと喉に流し込む度に、温かさが体中に染み渡っていくような感覚に息をつく。 「……色々ごめんね。迷惑かけて」 私の謝罪に、早坂も何も言わない。 車も、一向に走り出そうとはしない。 エンジンは掛かっているものの、早坂の手がハンドルを握ることもない。 気まずい空気が車内に満ちる。 やっぱり怒ってるのかな、早坂の顔色を窺おうとした時、急に私の方を振り向いたからどきっとした。 「今日、どうする?」 「……え?」 「あのマンションに戻っても大丈夫か?」 「………」 その口調は怒ってる風ではなくて、むしろ私を気遣うような優しさを滲ませていて嬉しくなる。 そして、一瞬でも喜んでしまったことを後悔した。 こんな事態になったのも自業自得だというのに、私を責める訳でもなく、優しく接してくれようとする早坂に安心するなんてお門違いも甚だしい。 今、私が早坂に向けなきゃいけないのは、甘えでも弱さでもなくて、誠意。感謝と謝罪と、反省だ。弱さを晒け出すことじゃない。 「うん、戻る戻る。あそこしか帰る場所ないしね(笑)。怪我も酷くなかったし、私なら大丈夫。心配してくれてありがとね!」 もうこれ以上迷惑をかけたくない。だから1人でも大丈夫だと、笑顔で話を終わらせるつもりだった。 でも早坂の表情は険しいまま。私の「大丈夫」を全然真に受けていないような意志が伝わってくる。 「……アイツ、待ち伏せしてたらどうすんだよ」 「え……」 その言葉に息が止まる。 コーヒーの熱で解されていた体が、一瞬で強張った。 トップページ |