消えない傷跡


「はい、これ。さっき撮ったレントゲン。ここ、あばら骨ね。綺麗に折れてるでしょ。うん、全治2ヶ月かな」
「うわあ……マジで」

 なんとか返事をするものの、告げられた言葉が頭の中に入ってこない。自分の肋骨が折れているとか、にわかに信じ難い話だ。

「肋骨の骨折は、基本は放置してくっつくのを待つしかない。だから、あまり体は動かさないようにしてね。コルセットいる?」
「あー……いや、いいです」
「うん。じゃあ、痛み止めの薬だけ処方しておこうか。不安があれば、胸部を固定するサポーターも薬局に売ってるからね」
「はい……」
「採血もした方がいいかなー。後でまた診察室に呼ぶね」

 トントン拍子に診察が進み、下された診断は肋骨骨折。額の傷は浅く、縫うほどでもなかった。
 ボードに貼り付けられたレントゲン写真には、不自然にポッキリ折れた肋骨が映し出されている。その写真はの主は間違いなく私で、真っ二つに割れた肋骨も間違いなく、私のものだ。

 骨折なんて初めての経験だけど、正直痛みを感じる程ではない。体を捻れば多少は痛むけど、病むほどではない。酷い損傷でなければ、骨折は割と耐えられる痛みなのだと初めて知った。
 ただ医師の先生曰く、骨折した翌日から痛みが強くなる場合もあるらしい。なにそれ怖い。

 先生の話が終わるやいなや、今度は白衣の天使が私の前に現れた。目映いほどのエンジェルスマイルを披露しながら、注射器という名の凶器をぷすっと腕に突き刺してくる。
 あらやだ意外と痛くない。
 ちゅーと血を奪われている間も、私はどこか上の空だった。
 具合が悪いわけじゃない。
 ただ色々な事が一度に起こり過ぎて、気持ちが追い付いていかない。現実味が湧かないのだ。

 頬の腫れは既に引いていて、額の傷も手当て済み。包帯がぐるんぐるんに巻かれている。
 さすがに大袈裟なんじゃ、とも思うけれど、手当てとはこういうものなのかと思うと変に口出しできない。包帯も消毒液の匂いも、私にとっては普段関わりのないものばかりだ。
 そもそも私は、病院というものに慣れていなかったりする。
 昔から超がつくほどの健康優良児で、風邪はおろか、インフルエンザにかかったこともない。
 病気や怪我とはほぼ無縁の26年間を送ってきたわけで、病院という施設にお世話になった経験がほとんどない。
 だから、あくまでも私の中のイメージだけど、病院という場所は暗く、厳かで、緊迫した空気に満ちているものだと思っていた。
 でも此処は、そんなイメージとはまるで欠け離れた雰囲気に満ちている。院内は淡いパステルカラーの内装で明るく、待合室にはオルゴール調の優しい音楽が流れている。医師も看護婦さんもフレンドリーに接してくれて、患者と話しやすい雰囲気作りを徹底しているようだ。
 そうするように指導されているのかもしれないけれど、まるで我が家に帰ってきたような心地よさに包まれている。

 そこでふと、思った。
 帰る場所、どうしようかと。







 診察室から出た後は、待合室の椅子に座って待機中。採血の結果を聞いて、薬を処方されたら帰宅していいとの許可が下りた。
 入院の必要がなかったことは安心したけれど、またあの部屋に帰らなきゃいけないと思うと気分が沈む。数時間前まで暴力を受けていたあの部屋に、今は戻りたいとは思えなかった。

 静かなメロディーを奏でる待合室に、私以外の患者の姿は一人もいない。看護婦さん同士の小さな笑い声が、遠くから聞こえてくるだけだ。この場に、早坂とかなえちゃんの姿もない。

 スマホを見れば、23時を表示している。
 こんな時間まで一緒にいてもらうのはさすがに申し訳なくて、かなえちゃんには先に帰宅してもらった。今、早坂が車で自宅に送り届けている筈だ。

『私は1人でも帰れるから、早坂もそのまま帰っていいよー』

 そうLINEしたけれど、『すぐ戻るから待ってろ』とだけ返信がきた。
 相変わらず早坂クンは心配性だ。
 私なら平気なのにね。

「………」

 ……平気、なんだけどな。



 膝の上で、ぎゅっと手を握りしめる。
 指先が冷たくて、微かな震えが止まらない。
 例えようのない漠然とした不安が、胸の中に充満している。
 体は既にヘトヘトだし、さっさと帰って寝てしまいたいのが正直な思い。だから帰宅の許可が下りたことは喜ばしい筈なのに、気分はどんどん落ちていくばかり。
 部屋に帰れるのに、やっと寝れるのに帰りたくない。1人で眠れる気が全然しない。

「七瀬」

 名前を呼ばれて、はっと我に返る。
 いつの間にか戻って来ていた早坂が、待合室の入口から顔を覗かせていた。
 緩く手を振って、へらっと笑いかける。
 どれだけ心がしんどくても、条件反射で笑顔を作ってしまうのはもう慣れた。
 胸が苦しい。どうしてこんなにも悲観的になってしまうんだろう。私らしくないな。

 早坂は周囲を見渡した後、待合室の中へと足を踏み入れた。
 私の隣に腰掛けて、上着を脱ぐ。
 そのまま手元に置いた。

「かなえちゃん、大丈夫かな」

 独り言のように呟けば、早坂の表情が暗く陰る。
 思い詰めたような表情が、私の心に影を落とした。

「……ショックだったとは思う」

 その静かな言葉が、胸に重くのし掛かる。

「だよね……あー、ほんと申し訳ない……」

 自己嫌悪が酷くて項垂れてしまう。
 もう済んでしまった事をあれこれ言っても仕方ない。今一番気がかりなのはかなえちゃんだ。
 女が男から暴力を振るわれる、その場面に立ち入ってしまった彼女の心境を思うと胸が痛い。異性に対しての畏怖を、まだ幼いあの子に植え付けてしまった罪はきっと重い。
 今日の出来事がかなえちゃんにとって、一生消えない心の傷になってしまったら私のせいだ。

 早坂からの忠告を素直に聞いていれば、こうはならなかったのかもしれないのに。自分の身ひとつも守れず、人を傷つけてしまうなんて情けない。

「……怪我はどうなんだよ」

 聞き慣れた低音に更に落ち込む。あまりにも軽率だった私に、早坂も呆れ返ってるはずだ。
 その上、全治2ヶ月の怪我まで負ってしまったんだ。迷惑すぎるにも程がある。

「肋骨折れてた」
「マジで」
「うん」
「え、動けんの? 大丈夫かよ」
「わりと平気。肋骨って、骨折の状態にもよるけど、安静にしてれば酷い痛みはないらしいよ。咳とかくしゃみしたら悲惨だけど。あ、全治2ヶ月」
「2ヶ月か……しばらく出勤は無理だな」
「いや、出勤するよ」
「は?」

 素っ頓狂な声が響く。
 何言ってんのコイツ、みたいな顔で早坂が私を凝視してる。そんな熱い眼差しで見つめられてもね。

「そんな状態で働かせられるか。休めよ」
「これから忙しくなるのに休むとか無理だって。まあ品出しとかは難しいかもしれないけど、事務所で出来る仕事は沢山あるでしょ? だから大丈夫。出来るよ」

 その辺は、既に医師から許可済みだ。
 絶対に無理はしないように、そう付け加えて苦笑いを浮かべた先生の表情も、本当は安静にして欲しいという本音を押し殺しているように見える。それをあえて言わなかったのは、社会人の立場を考慮した上での判断だったんだろう。

 私だって本当は、ちゃんと完治させてから仕事復帰したい。
 でもその間の1ヶ月、早坂に全ての業務を押し付ける形になるのは忍びない。
 これから本格的に忙しくなるっていうのに、私が休んで困るのは早坂とスタッフ達だ。

 何よりも問題は、本部の人間の反応にある。

 うちの会社だって、何もブラック企業というわけじゃない。店長だろうとサブマネだろうと、傷病休職は申請できるし受理される。
 ただ私の場合、間違いなく嫌味を言われる。それが嫌だ。

 というか既に、菅原エリアにはメールで伝えた。
 待合室に戻った際に、「あばらを骨折しました」と送り付けた。「了解!」とだけ返信がきた。
 いや了解じゃないっすよ、なにさらっと何でもないように受け流してんだこの人。本部の人間には赤い血が流れていないのか。

 まあ本部的には、

「え? だから何?? あばら折れても手足は動くでしょ? 発注作業とか事務の仕事はできるでしょ?? なら出勤してねー」

 って感じなんだろう。鬼かよ。

「あ、でもごめん、明日は一応休む。頭ぶつけてるから念の為検査しておきましょう、って先生に言われた」
「……そっか。頭は何かあったらマジで怖いから、ちゃんと調べてもらえよ」
「はーい」

 素直に返事を返す。背もたれに体重を掛ければ、背中にじんわりとした痛みが広がっていく。
 この痛み方は、筋肉疲労かもしれない。
 やっぱり疲れ溜まってるんだな、そう思い耽っていた時、隣から小さなため息が聞こえた。

「……七瀬」
「んー?」
「あのさ、」
「――七瀬さん、診察室にどうそ」
「あ、はい」

 早坂が何かを言い掛けたタイミングで、看護婦さんに呼ばれて立ち上がる。今は採血の結果次第で、患部の痛みがどの程度なのかが数値でわかるらしい。
 つまり医師に嘘は通じないって事だ。医学の進歩って凄い。

 慌てて立ち上がったから、横っ腹に痛みが走る。
 ああ骨折してたんだって実感しながら歩みを進めようとした時、「七瀬」ともう一度名前を呼ばれた。
 緊張を纏っているような声音に、疑問符が浮かぶ。
 思い詰めたような表情を浮かべている早坂の様子に、首を傾げた。

「何?」
「……後で話、あるんだけど」
「……話?」

 はたり、と瞬きを繰り返す。
 そんな、改まって申告しなきゃいけないような話って何だろう。

「え、説教系? 慰める系?」
「……多分、どっちでもない系」
「? わかった。後で聞くね」
「ん、待ってる」

 最後に小さく頷いた早坂の顔は、やっぱり少し、強張っているように見える。
 早坂らしくない表情に後ろ髪を引かれつつも、私は再び診察室へと足を運んだ。

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