過呼吸


 青木さんが待ち伏せしている可能性を、一切考えていなかったと言えば嘘になる。
 でも、あんな事があったばかりなのに部屋で待ってるなんてありえない、普通であればそう考える。絶対に大丈夫だと断言できる確証はどこにもないのに、あの人は逃げて家に帰ったんだろうって信じたかった。虫のいい話だ。
 部屋から逃げ出した、って早坂は言ってたけれど、これであの人が引き下がるとは思えない。それは私だけではなく、早坂もそう思っているようだった。

 青木さんはまた、私に接触してこようとする。
 それが今日、もしかしたら、この後かもしれない。
 もし部屋に帰って、またあの人がいたら。
 そう考えた時、悪寒が一気に背筋を駆け巡った。

 ずっと胸の中でモヤモヤしていたもの。言葉に出来ない漠然とした不安は、これだ。あの人がまた会いに来る、それがいつなのかがわからない、何処から現れるのかもわからない恐怖が、私の心を支配しているからだ。

「……っ」

 ドクドクと心臓が乱れ始める。
 恐怖は更なる恐怖を呼んで、私を震え上がらせる。
 もし部屋で待ち伏せしていたら、また理不尽な暴力を受けるんじゃないか。もしかしたら、今もどこかで私を見てるかもしれない、尾行してるかもしれない。被害妄想ばかりに囚われて、思考が真っ白になっていく。

 両手が、また小刻みに震え出した。
 血の気がどんどん引いて、冷や汗が止まらない。指先の感覚すらわからない。全ての感覚が麻痺したみたいに、体が動かなくなってしまった。
 脳が急激に冷え、身体中に酸素が行き渡っていないような不快感に目眩がする。あ、まずい。そう思った時にはもう遅かった。

 呼吸ができなくなっていた。



「……七瀬?」

 異変に気づいた早坂が、私の名前を不安げに呼ぶ。それでも応えない私に、今度は身を屈めて下から顔を覗き込もうとする。
 でも、そんな早坂の姿すら私の目には映らない。乱れた息遣いに苦しみ始めていた私は、完全に過呼吸に陥っていた。
 体が勝手に浅い呼吸を繰り返して、そこに私の意思はない。過呼吸なんて生まれて初めての経験で、頭の中はパニック状態だった。
 原因も対処法も知識として知っているけれど、いざ自分がその状況に陥ると何も考えられない。遂には全身に痺れを感じて、生理的な涙が浮かんできた。

「七瀬」
「は……ッ、ご、めっ……ッ」
「七瀬、落ち着け。ゆっくり息を吐けば治る。大丈夫だから」

 冷や汗が伝う背中に、大きな手のひらが何度も行き来する。労るようにさすってくれる動きはとても優しいものなのに、私の呼吸は落ち着くどころか、どんどん速くなっていく。
 握り締めていた缶コーヒーも、早坂の手に奪われた。そのままホルダーに置き、私の呼吸を落ち着かせようと必死に宥めてくれる。その気持ちや気遣いが嬉しいのに、こんなにも頼もしいのに、胸に巣食う恐怖が消えてくれない。酸素を肺の中へ吸い込むこともままならなくて、苦しさに喘ぐあまり胸元のコートをぎゅっと強く握りしめた。



 過呼吸の一般的な対処は、ゆっくり息を吐く呼吸法。そして紙袋やビニール袋を頭から被せ、二酸化炭素を貯めるペーパーバッグ法がある。ただこの方法は窒息死の恐れがあるから、今は後者より前者のやり方が流通してる。
 大抵は一時的なものだし、早坂も前者のやり方で対処しようとしてくれていたのに、呼吸の乱れは一向に治まる気配がない。苦しみ続ける私を見かねて、早坂が勢いよくシートベルトを外した。
 そのまま車のキーを手に取り、外へ出ようとする。

「七瀬、医師呼んでくるから」

 今にも飛び出そうとしている早坂を、上着の裾を掴むことで必死に止めた。

「まっ、て、だいじょっ、うぶ、だからっ」
「……っ」

 早坂が言葉を詰まらせて、慌ただしかった動きを止めた。
 ずっと俯き加減でいる私には、今、早坂がどんな表情をしているのかはわからない。でも、見なくてもわかる。私と同じくらい苦痛に歪んでいるのを。
 そんな表情をさせたい訳じゃなかったのに、今日の私はなんてザマだろう。大丈夫なんてどの口が言えるんだ、誰が見ても今の私は異常にしか見えない。
 だから早坂が困惑する気持ちも、病院側に助けを求めたい気持ちもわかる。でも、誰にも迷惑をかけたくないという虚勢と誰かに傍にいてほしい本音が、私の中でごちゃ混ぜになって早坂を引き留めようとする。行かないで、と。

「……っ、七瀬」

 ああ、早坂に心配かけてる。
 不安にさせてる。
 大丈夫だって言わなきゃ。そう思うのに、ヒュ、ヒュ、と忙しなく喉が鳴って言葉にならない。息が、苦しくて苦しくて仕方なかった。

 このまま呼吸困難で死んじゃうんじゃないのかな、なんて最悪の結末が脳裏によぎった時、

「――……悪い、七瀬。許せ」

 切羽詰まったような声が、耳元で聞こえた。



 長い指先に、顎をぐっと持ち上げられる。
 驚きで目を見張った私の唇は――次の瞬間、早坂の唇で塞がれていた。

「んっ……」

 重なりあった唇から吐息が漏れる。
 掻き乱されていた思考が、一瞬でクリアになった。

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